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ある意味一番特別だったかもしれないという話

人の数だけ特別があって、特別の数だけ人がいて、
それを取り零さないよう、私達はゆっくりと歩く。

白木さん(仮名)に初めて出会ったのは、2019年夏頃の同年会だったはずだ。いきなりこんな話をするのは恥ずかしいが、彼女への第一印象は"結婚したい"だった。雰囲気や性格が絶妙に心地いいのもあって、「自分にはもうこの人しかいないのでは?」とさえ思った。今になって思えば恥ずかしい、本当に恥ずかしい限りだ。

彼女は大手メーカーの営業職で、駐在員として赴任していた。この頃私は転職したてで、しかも主に製造業向けの業界だったので好機とばかりに彼女に相談した。結果、工場長の方を紹介してもらって、夏の炎天下をバイクで走ることおよそ1時間半……頭と両腕に汗をかきながら到着したあの日のことは、営業の仕事を続けている限り決して忘れることはないと思う。

初対面から翌週か翌々週か、直接ご飯に誘って、ついでに彼女と同じ県の出身で歳も近い友人も誘った。すると2人は偶然にも市内にある中高一貫の女子校に通っていたらしくその場で意気投合、これはいい繋がりを提供できたぞ……なんて思っていたら、その後の話の流れで彼女が既婚者だと判明した。それまで指輪に一切気づかなかったの私も大概だが、それでも衝撃的な事実には変わりなく、心の中で何かが粉微塵に砕け散った。いうなれば"逆単身赴任"というやつで、実際に遭遇したのは彼女が初めてだった。以降は同い年で異性の貴重な友達に落ち着くこととなる。
その後はたまたま歳の近い年代と合同会を開いて、そこでできた繋がりから習い事を始めるようになって、気がつけば共通の友人・知人が多くなっていった。郊外にある工業団地までの通勤時間が比較的長いという制約があったにも関わらず、平日から一緒に飲みへ繰り出したり、あるいは出くわしたりした。そして極稀におきる「あかんわ。あの後、朝起きれなくて仮病使ったわ……」という告白を大いに笑ったりもした。
昨年の春、旧正月が明けると共にコロナの波がじわじわと押し寄せて、ロックダウン一歩手前まで来たタイミングで突然一時帰国することがあった。あの当時は一日毎に状況が変化していって、確か見送りもできずに旅立っていったと思う。幸いにも、それからおよそ半年後に特別便で戻ってくることになるが、この時はただただ嬉しい気持ちでいっぱいだった。結果的に駐在期間が延長されたことも含めて、だ。

少し話は逸れるが、実は彼女はこのブログの読者でもあった。コメントなどは一切投稿しないものの、直接会う度に感想を伝えてくれた。とりわけいくつかのエピソードや小ネタは気に入ったようで、初対面の人に対して私を「彼はハノイの文豪だ」とかなり誇張して紹介したり、あるいは記事の一節を引用することもあった。私はその度に妙な恥ずかしさに襲われた。

いつだったか、共通の知人との関係が拗れてしまったり、恋活事情も含めた身の回りのことがとっ散らかったりしたとき、"人生相談"と称してご飯に誘っては延々と話を聞いてもらったこともあった。
彼女はとても話し上手であり、もちろん聞き上手でもあって、精一杯言語化に努める私によく歩調を合わせてくれた。時には私の本心を何となく察しているかのような場面もあって……改めて振り返れば、私は彼女にどれだけ助けられたか計り知れない。
もしかしたら本人は全く気づいていない可能性も一応あり得るのだけれど、それはそれで彼女らしいので気に留めないことにしたい。付け加えれば、ある時ふとしたタイミングで彼女がつぶやいた「私も、ハノイでこういう話ができるのは案山子くんくらいかな」と言っていたのを、この先もきっと忘れることはないだろう。こればっかりはもう、直接伝えるのが恥ずかしすぎて無理なので、彼女がこの記事を読んでくれることを見越してこの場に書き残しておく。照れ笑いながらも「ありがっとぅ~♪」と言ってくれる姿が目に浮かぶのは、気のせいではないはず。

そんな彼女も、とうとう本帰国の時がきた。普段から自分自身の可能性を一番疑って、どこか満たされないことに葛藤しながらもがいている私にとって、"最後の希望"というと少し大げさだけれど、彼女にはとにかく感謝の気持ちでいっぱいだ。
彼女がハノイを離れて、しばらくの間はいわゆる"ロス"症状に苛まれたりするかもしれない。それでも……またいつの日か会えるのなら、それも悪くない。

短くも長い期間の、かけがえない思い出をありがとう。大好きでした。

#海外生活 #ベトナム #ハノイ #記憶の記録

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