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【教育に魂を】

魂が震えるような授業を受けたことがあるだろうか。

自分の奥底に眠っていたようなものが
今にも出てきそうなくらいの震えを感じるものを。

私は記憶に2度ほどある。
逆にいうと、2度だけだ。

しかし、その時の熱が今でも残って
何十年経った後でも、それを思い出すのだ。

その魂が私の魂と対話し
熱を生み
今でも燃え続けている。

教育とはなんだ。
誰かの言葉を借りて
わかりやすく伝えることなのか。

教育とはなんだ。
誰かの評価を身にまとう
外側につくものなのか。

そこに魂はあるのか。

教育の消費者が増えたと聞く。
高い料金を払い
何に向けて消費しているのか。

消費されるようなものに
魂はあるのか。

魂が消費されていく社会は
それは、人の生きる道なのか。

世の中に正解はないと言う
みんな違っていいんだと言う
そう言いながら
そこに魂はあるのか。
あるいは
誰かの言葉を借りているだけなのか。

正解のないもの
違うもの
それらに出会った時
魂には熱が入る

お互いの魂がぶつかり
摩擦熱が起きる

それは喧嘩ではなく
魂のエネルギーの対話なのだ。

それはいろいろな感情を呼び起こす。
胸が高鳴る感情も
複雑な感情も
あらゆる感情を呼び起こす。

その熱を感じたことがあるだろうか。
あるいは
熱を感じることを恐れ
自ら魂の熱を消しただろうか。

教育は表現の一つだ。

誰かの表現だ。

だから、本当は
その魂の熱が起こるはずだ。

違うものと出会った時の熱だ。

そういう
魂が震えるような授業を受けたことがあるだろうか。

人は何でできているのか。

命をつなぐために、食べているもの。

邁進するために、学んでいるもの。

対話するために、表現しているもの。

人はシンプルなものでできている。

それを突き動かしているのが魂だ。

だが
その魂と長く対話していなければ
自分でも気がつかないまま
誰かの人生を生きることになる。

誰かは、一人の誰かというわけではなく
複数人の誰かもある

誰かの言葉をまとい
それを身につけていると
どうなるか。

自分の魂の熱はだんだんと消えていく。

魂の熱が低いとどうなるか。
弱くなる。

弱いとどうなるか。
守りに入る。

守りに入るとどうなるか。
身にまとった誰かの言葉の中で
自分を守ろうとする。

守れなくなるとどうなるか。
また他の誰かの言葉を身にまとおうとする。

魂のない教育とは
まさにこうだ。

誰かの言葉を身にまとい
ただただ守る。

自分自身ではない言葉で
人と話し
魂とは違うことを伝える。

わかってもらえない。
伝わらない。

ここでの問題は伝え方の話ではない。
自分自身が
魂と対話していないから
伝わっている気にならないのだ。

人の言葉には限界がある。
言葉で全て伝えようとすることは
そもそも無理なのだ。

しかし、その言葉に魂が入っている時
理解という次元を超え
伝わった相手の魂に震えが起こる。

表現者たれ。

表現に魂を込めよ。

摩擦熱を恐れるな。

熱を感じることこそが人間だ。

その熱が
誰かの魂に届くまで
表現者たれ。

教育に魂を。


















  

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