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1994年生まれ、クリエイターとして生きてるニンゲンの人生のお話

セツナクリエイション合同会社 代表の片割れ 藤吉香帆です。クリエイティブディレクターを名乗り始めて1年が経過しました。会社経営者なので、肩書は自分が名乗ればついてくるのですが、仕事としてクリエイティブディレクションをすることの難しさを感じる1年となりました。プランナーとも違うし動画ディレクターとも違う、全ての仕事のクリエイティブを責任感を持ってみていく仕事なんだなということを理解したところです。

そして今年は人生のキリ番を踏むことになったので、人生について振り返ったりしたいな〜と思っていたら、記事を書く機会をいただきました。
※この記事は「デジタルハリウッドで変わった私の人生」に参加しています

私はデジタルハリウッド株式会社と同じ1994年生まれです。2024年は30歳を迎える年で、会社も5期目に入り、新しい何かが始まる年であると感じています。私のクリエイターとしてのキャリアのスタートは間違いなくデジタルハリウッドがきっかけで、クリエイター・ディレクターとしての仕事の大半はデジタルハリウッドで出会った人たちとの関わりから生まれたものです。
藤吉香帆という人間の人生を振り返るようなnoteになります。こんな人もいるんだなあと読んでいただけますと幸いです。

DHU卒業式ではお気に入りの振袖で学長から卒業証書をいただきました

デジタルハリウッド大学という場所で起きたこと

入学のきっかけ

私がデジタルハリウッドに出会ったのはベネッセの大学受験講座みたいなやつでした。「はい」「いいえ」を選んでいくとオススメの大学が出てくるものの中にデジタルハリウッド大学という名前が並んでいたのがきっかけです。リストの中の大学すべてのオープンキャンパスに行ったうえで、デジタルハリウッド大学の先輩の自己紹介のかっこよさを見て入学を決めました。
短い自己紹介の中で先輩が何を学んでいるのか、その体験授業の先生のどんな授業を受けているのか、これから何をしようとしているのかが理解でき、すごく「大人だ」と感じたのを覚えています。

違いを楽しむ世界との出会い

できたてほやほやの駿河台キャンパス(現在のデジタルハリウッド大学の校舎)に入学してからは、とにかくいろんな授業で自己紹介を繰り返し、同級生・先輩・後輩たちの自己紹介をたくさん聞きました。それぞれがそれぞれの分野で「オタク」をしていて人の好きなものに触れてみる時間がたくさんありました。誰一人「そんなのはおかしい」と言わない、そんな空気が流れていました。それはみんなそれぞれの高校生までの時代の過ごし方に起因しているのだと思います。
みんな、それまでのコミュニティで変な人と言われた経験があったんです。
だからこそ誰かの好きに寄り添うし、誰かの好きを面白がるし、誰かの好きななにかを一緒にやってみるという機会がたくさん。私も大学の友人に勧められてラブライブにハマってしまったり、カメラを触るようになったりしました。

世界が広がって、自分が見えてくる

私は人生って難しいんだなってずっと思っていたんです。普通に過ごしているのに担任の先生に「学校生活が大変じゃないか」とかを聞かれたり(最近、同窓会で聞いたのですが、全員に聞いてるわけじゃなかったらしい)、自分以外の友人たちだけで遊びに出かけて後から聞いたりもしないらしい…。別にそれが辛いと思ったわけじゃないんですけど、「みんなと同じ」をしなきゃいけない理由も理解できなかったし、「みんなと同じ」をすることもできない高校時代まででした。こうしなきゃいけないという理由で何かをするのが辛いという感情はあって、みんなも辛いと思いながらやってるもんだと思っていたんです。でも、「みんなと同じ」を辛がらずにできる、面白がってできる人たちというのが世の中にはたくさんいて、そういう人たちに最適化された世界の中で過ごす自分の漠然とした生きづらさに気づくこととなったんです。ああ、自分はいままで自分にフィットしない世界で生きてきたんだな。では、自分が生きたい世界を作ってそこで生きていこう。と思ったんです。

狭い世界を楽しく作る活動 | TED.

複数あったキャンパスが統合された初年度、先輩たちは縦のつながりがあまりない状態で過ごしていました。学校みんなが楽しい!って感じがいいよね!と言い出した友人と7人でとりあえずダンスサークルを作りました。踊るのは、楽しいので!

こちらは謝恩会での引退ステージの様子

ダンスサークルはダンスを披露するわけですが、披露するときに人が来てくれないと楽しくないから、自分たちが楽しく笑顔で踊るためにイベントの主催を始めたわけです。来てくれる人の目的は自分たちのダンスを見に来ることじゃなくてもいい。いろんな趣味嗜好の人たちが集まってワイワイする空間を作りたかった。なので、ハロウィンなどの季節のイベントや、サークルやゼミなどが集まった合同説明会風のイベントなどを大学のホールで実施していました。大学事務局に企画の話をしてホールを予約し、当日は入場料をいただいて軽食や飲み物を出して…大学内のイベンターみたいな立ち位置だったと思います。
イベントでは集客することも目標としてありましたが、できる限り出展者としての参加者を増やして、そもそもたくさん人が集まる会にしていました。3年生までは大学の中でイベントを主催して、4年生になると大学の外で会場を借りてイベントをするようになり、そこでも根っこは同じで、DJをする人やVJをする人を近いけど同じではないコミュニティの人にお願いしたり、イベント後の打ち上げだけ参加することもできるようにして大学に残って作業していた人たちと朝まで飲み明かしたり…
結局大学4年間で何度もイベントを主催し、卒業式後の謝恩会は今一緒に会社をやっている莉花と二人で運営を行いました。

秋葉原MOGRAで行ったイベントの様子

イベント自体もそうですが、イベントを通じてコミュニティを広く保つような活動を行ってきました。高校時代までの友だちが少ない自分から、みんな友だちな自分にアップデートされたのはデジタルハリウッド大学での活動がきっかけで、今の自分の「友だちと仕事する」という生き方はこの頃から始まっていたのだと思います。

自分にとっての楽しいを自覚する

高校時代まで学校外で友人と遊ぶことを全くしてこなかった人間でした。小中学生の頃はダンススクールの養成クラスに入っていて毎日習い事をしているような状態で、高校時代は部活が終わるとすぐに家に帰りネットゲームや海外ドラマを楽しむ生活をしていました。友人と遊びに行くということ自体があまりピンとこないまま大学生になったのですが、大学の友人とは遊んでいたのかというとそうではなかったです。授業が早く終わる日にみんなでカメラを持って撮影に繰り出してカメラが得意な子に操作を習ったり機材について教えてもらったり、休日に友人が受注した現場のスタッフをしたり、大学時代の友人との関わりは基本的に学びと仕事が紐づいていました。
もちろん、打ち上げもセットで。
打ち上げをする時間は遊ぶ時間、仕事の作業をしてない時間は遊ぶ時間、そんな生き方が自分にとっては心地よく、無駄がなく、楽しいことであると自覚したのは最近ですが、仲間と一緒にものづくりをすることや誰かの知識をシェアしてもらうことが楽しいということに大学時代気づきました。

授業でもお世話になったゼミのみんな!今もお仕事一緒にしてる人もいます。

仲間に助けてもらった卒業制作

大学4年生になると卒業制作の期間に突入します。仲間と一緒にものづくりをするのが楽しいと自覚してからはじまったので、とにかく仲間をたくさん呼びました。小学生の頃からのダンス仲間、高校の同級生、大学時代に入っていたインカレサークルの仲間たち…今はプロとして活躍している人も多いくらいに出演者は豪華でしたが、友人とそのチームメイトたちでした。スタッフも後輩を中心に大学の仲間たちをたくさん誘って5分の尺の動画でしたが大勢で作りました。

関係者が多ければそれだけ広がりやすいというのは大学4年間イベントをやってきて感じていたことで、卒業制作ではたくさんの人に関わっていただいたおかげで、何の影響力もないただの大学生が作った動画が2000再生されるようなことになりました。

板屋宏幸先生に師事した3年生以降、ディレクターをするなら自分でカメラをしないことといいうのを言われていて、その教えに従いカメラは全て後輩に任せて撮影に挑みました。このディレクターをするなら作業をスタッフに任せるという教えはクリエイティブディレクターを名乗り始めた2023年により意識するようになりました。まじで!自分で作業するとディレクションが疎かになる!
そして、この時の人にお願いして理想のものを作っていく経験は、卒業制作を経た後の就職した先でも必要な経験になっていきました。

余談ですが卒業制作ではDIGITAL FRONTIER GRAND PRIXのグランプリをいただきました!門真国際映画祭で入選をいただいたり、学生CGコンテストのノミネートがきっかけで阪急うめだの大型ビジョンに流していただいたりもしました。

入賞時の様子と阪急うめだでの投影の様子

社会進出と大きな壁

広告会社への就職

大学を卒業してからはオリコムという広告会社に就職をしました。仕事のキャリアという意味では大学2年生のころからフリーランスの動画クリエイターとして舞台演出の動画制作に関わるようになり、大学3年生からはミュージックビデオの現場に入ったり、サイバーエージェントで動画広告の制作に関わっていたのですが、あくまで動画クリエイターという範囲の中でのお仕事でした。動画を作る仕事をしているなかで、広告制作をすることも多く、広告の仕事に興味を持つようになり総合職採用で就職活動をして大卒の新入社員というやつになったわけです。
入社して配属されたのはプロモーションプランニング部というところで、交通広告の分野に強みを持ちつつテレビ・ラジオ・雑誌などのいわゆるマス媒体買い付けもできるような老舗の広告会社に勤めながら、マス媒体や交通広告ではないことを企画制作する部署でした。いい意味でなんでもアリ、動画から離れて広告コミュニケーションを考えて、イベントや展示会をしたり、キャンペーンを打ったり、店頭の什器を製作したり…工場で量産するようなものづくりも経験しました。デジタルハリウッドで学んだから企画をするのは苦手じゃなかったし、なによりWebも3DCGもプログラミングもデザインも、本気でやってた人が周りにいたので、何を作るにしてもどう作られてるのかの想像をするのがとても得意でした。
でも結局、辞めることになりました。

辞めるに至った三つの理由

広告の世界は、クリエイティブの仕事の中でも一番お金が動く世界だと思います。だからこそ一つのプロジェクトの参加人数が多く、複数の会社が自社の業務レイヤーで仕事をしていました。広告会社の仕事は、自分が動画の制作ができていても、動画の制作をすることができなかったりします。
えー自分のができるのに!と思うシーンや、えーこれにこんなに払うの?ってなったりみたいなことを繰り返してしまうことも。また、広告会社のプランナーとして制作会社の営業さんと話すときに実制作の知識が乏しい方が担当に来るとストレスを感じるみたいなシーンも多かったです。
そして、自分指名で舞台演出の依頼が来たりしたタイミングだったというのもありました。

新入社員である、経験が浅い、品質が高くない、ということもあり、打ち合わせでは私の意見をあまり聞いてくれない先輩もいました。企画会議のなかのアイデア出しで自分の意見が採用されなかったのに、あとから気づいたかのように先輩が追加したアイデアが最初に自分が言ってたやつだよ…?ということも多々ありました。大学時代にテレビ局の仕事をした時には自分の意見がスイスイ通っていたのに意見を聞いてもらえなくてどうしたらいいかわからないというのを経験しました。2年目になるとそんなことも無くなって自分主導の企画も増えていくことになるのですが、1年目がそんな感じだったので、2年目が始まる頃にはあと1年続けるのが限界かも…と感じていました。

そして最後の理由は、インプットの質が下がったことです。
広告会社で働くと、例えではなく「朝から晩まで働く」生活がやってきます。私の場合はプロモーションの部署でイベントもあったので土日に仕事が入ることも多く、休みがあんまりない、休みは休息に費やすみたいな過ごし方でした。良い会社だったので広告業界関連協会や関連企業が主催するのセミナーなどもたくさん参加させていただいたのですが、それらのセミナーは総じて「デジタルハリウッドで学んだことの2割くらいの内容」でした。(学位が出る学びとWS形式のセミナーを同列にするのがまず間違ってるのですが)
そんな生活をしていると、内定をいただいた日に取り下げた大学院の願書のことを思い出しました。そっか〜大学院に今から行くのもいいな…と
退職と進学を決意した私は、夏頃に大学院の願書を提出し、当時の部長に会社員を続けない意思を伝えました。

人生をチューニングするために入学したデジタルハリウッド大学院

主軸とは離れるのですが、DHGSの修了課題でもデジタルフロンティアで受賞させていただき
自分でもビジネスができるかも!と自信がつきました。

学ぶ仲間との尊い出会い

デジタルハリウッド大学院は学部からの内部進学以外の社会人院生がほとんどです。同期には広告会社で働くプロデューサーさん、ギタリスト、医者や看護師など自分と近い業界にいる人から全然違う世界の人まで多種多様な大人がたくさんいました。全員共通して「このままじゃいけない」という意識があって、何かを変えたい人たちでした。イマを変えるということは壊してでも何かを作ろうという意識のある人たちです、学ぶ意欲がとても高く、全てを自分の糧にして飲み込んでアウトプットまでつなげることを仲間たちと一緒にDHGSでの学びに繰り返しました。年上の同級生たちは自分にとって話しやすい社会の先輩で、大学院入学と同時にフリーランスの動画クリエイターになった私にとって大切な人生の相談相手になっていきました。
今でもそれぞれの人生の中で何かを始めたいとき、何か考えてることがあるときに集まって「壁打ち」をします。壁打ちは誰かの話についてみんなで意見を出し合うことだと思ってるのですが、仕事で行き詰まった時やなにか気になることがあるときに社会でいろいろな立場で過ごす人たちと議論できる場所があるのはとてもありがたいことだなと思います。ラボの先生や研究室の仲間たちとの壁打ちのおかげでデジタルフロンティアグランプリでベストサービス賞をいただけたんだと思ってます!

圧倒的学びの品質から生まれるもの

学ぶ仲間ができてから、仲間たちに影響されてとにかく能動的に情報をキャッチして学んでいくことを覚えました。藤井先生の科学の話、草原先生の芸術の話、白井先生の人工現実…3年間の在籍の中で研究室では本多先生、olga先生、香田先生からビジネスもテクノロジーも考え方や生き方も、たくさんのことを教えていただきました。先生方が実務家で、いろんな経験を経て今の分野でプロとして活躍をされているからこそ、その分野のイマの話が聞ける場所でした。だからこそ入学してすぐの段階から世界の解像度がどんどん上がっていったのです。きっと2024年は2024年の話をしているだろうから、私が在籍していた頃とは違ったことが学べる場所になっているんだと思います。いろんなことを学んだ上で自分の解決したいと思っている課題を解決する手段をビジネスに昇華させることを考えるようになりました。
なので、クリエイターのままでいるのはいけないと気づいたのは1年生の入学してすぐの段階だったんです。このまま1人でフリーランスとして生きていても広がりがないし、何をしなければいけないのかわからないけどこのままじゃいけないと思っている…そんな時に、莉花からYouTubeの事業がしたいと思っているんだけど法人にするにあたり今まで活動してきたユニットを法人化するってのはどう?と聞かれたんです。
デジタルハリウッド大学院にいると、起業すること自体がすごく身近なことでした。起業をしている人が周りにたくさん居たので躊躇することなく会社を作ることができました。

セツナクリエイション爆誕

創業時のプロフィール画像、お互いに写真を撮りあうスタイルで用意したため2ショットが無い笑

2020年3月、セツナクリエイションが生まれました。
現在、デジタルハリウッド大学で同期だった莉花とふたりで会社を経営しています。従業員は2名、2人は大学の同期のデザイナーと大学の後輩のクリエイターです。それ以外にもパートナーとして一緒にお仕事をしてくれているデジタルハリウッドの仲間たちが居ます。

社長にとっての先輩の存在

2020年、26歳でした。26歳なんて、まだまだ若手です。先輩に教えてもらったり上司に監督してもらったりしながらお仕事をする年齢だと思います。大学院で出会った社会の先輩たちは立派な人がたくさん居ましたがみなさん自分が若い頃よりしっかりしてると言ってくれます。そうは言ってもまだまだ経験が足りていないのはわかっていました。
そんなタイミングで会社をつくっちゃうと人のアシスタントに入るという経験が普通は得られないんだと思います。普通は。
デジタルハリウッドのコミュニティには、自営業でお仕事をされている方がたくさんいます。そのおかげで会社をつくってからも先輩の現場に呼んでいただくことができています。そこでは自分になかった知識やノウハウがたくさんあって、触ったことのない機材の使い方を教えていただいたり、おすすめのワークフローについて議論したり…とにかく働きながらの学びがそこにはあります。大学院の後輩だから、大学の後輩だからという呼ばれ方はじぶんにとってはあまりにも有難い話で、予定が空いてる限り全ての現場に参加する意気込みで生きてます。

一緒に作ってたから任せられる関係

デジタルハリウッド大学でもデジタルハリウッド大学院でも学びの中でインプットだけでなくアウトプットまで行う授業が多いのですが、そのおかげで一緒にものづくりをしたことがある友人がどんどん増えていきます。仕事ではない段階でこの人と一緒にやるとこうなる、というのがわかっているのでそれぞれがそれぞれの場所でお仕事を頑張っていると、お互いの欲しいがマッチして一緒に仕事をする機会がとても多いです。映像制作会社に勤める同級生から「YouTube得意だったよね?任せられない?」と言われたり、自分が広告を作る時に「広告マンガ書いてるよね?お願いできない?」と依頼をしたり…いろんな商流が発生するのですが、お互いの辛いポイントがわかってたりするので、作業優先度の話がスムーズだったり、進行するのにクライアントチェックはどうするかなどの調整をしながら気を遣いあってお仕事ができています。お互いの専門領域はリスペクトしながら、自分も相手の専門分野をやんわり知ってるからできることは巻き取り合うような関係は、企業に所属してようがフリーランスだろうが、プロジェクトに関わる人全員が同じ方向を向いて仕事をすることができる形です。
きっとこれが杉山学長の言うハリウッドワークスタイルってやつなんだと思います。

同期だからとかじゃなくて、先輩だろうが先生だろうが事務局のスタッフさんだろうが、全員が同じ方向を見ていいものを作ろうとすること、領域は横断するが自分の分野に責任を持つこと、それぞれに対して正しく対価を支払うことをしながら仕事ができているので、忙しすぎてしっちゃかめっちゃかになることがある以外で仕事に対する不満が全くありません。

いつもの仲間に最大の感謝を

デジタルハリウッドで出会った仲間たちのおかげで、仕事を得たり仕事を進行できたりしていること、常に感謝をしています。そして不思議なことに誰かの紹介で別のデジタルハリウッドの人と出会う機会もすごく多いのです。
学校という性質上、入学して卒業をするはずなので、ある一定の期間そこに在籍していた人としか繋がれないように思われるかもしれません。でもなぜか今年入学した1年生の面白い人を紹介してもらえたり、久々に会っためちゃめちゃ先輩な人を紹介してもらえたり…卒業してからも知り合いがどんどん増えていっています。
そんなコミュニティだから、「学生時代は楽しかった」と戻りたい過去の栄光になることはなく、学生時代を「今の自分を形作った故郷」として、大切に思いながら、まるで地元に帰るかのようにデジタルハリウッドというコミュニティに顔を出す人が多いのだと思います。
私自身、今はデジタルハリウッド大学で教員をさせていただいていますが、戻って教える立場になっている人もたくさんいます。日々の業務の中でもデジタルハリウッドで出会った人たちに助けられてばかりです。
私は、デジタルハリウッドをルーツとする人々のおかげで生きています。
だから、デジタルハリウッドが私の人生を変えてくれた(作ってくれた)と言って良いでしょう。これからの未来づくりもデジタルハリウッドの仲間たちと一緒にやっていきたいと思っています。

いつでも帰ってこれる場所だけど、過去じゃなく今集まりたい人たちがたくさん!

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