見出し画像

「現実を見ろ」の“現実”の正体



中学生の時の進路相談。
私の隣に母がいて、机を挟んで先生。会話の向こうで秒針が聞こえていた。
デザイナーになりたいと言った私に、先生はこう言った。

「現実を見なさい。なれるのは一握りしかいない」と。

母は、わたしに視線を向け「先生!よくぞ言ってくれた!そうだそうだ!」とでも言わんばかりの視線を送り、「うん。」という短いながらに強く先生の言葉をブーストした。


私は良くも悪くも素直なので、その当時「そうなのか。難しいんだなあ。」と頭の右上に思い描いていた夢はパッと消えてしまった。

パッと簡単に消えてしまった夢だが、一応携帯で、服飾に関連するお仕事は何があるのか、仕事内容はどういうものなのか調べてはいた。
だから思いつきで言ったわけではない。
まあ進路相談を思いつきで言う人もなかなかいないだろうけど。
そこから私は”現実主義者“という可能性のリミッターを設置することになってしまったのである。



そのことを急に最近思い出して考えていた。
現実...「現実」ってナンデスカ?
言わんとすることは分かる。現実って大事。現実社会に生きてるし。分かる。
だけど20代後半にしては、結構な濃度の”酸い“を経験してきて、その言葉に対峙するとすごく引っかかる。

よく考えて出した答えは、ここで言う“現実”とは「日々の生活」だということ。生活。生きていくこと。稼いでいくこと。そしてそれを要約すると「食ってけないから辞めときな!」ってことを言いたかったのだろう。

デザイナーって難しいのか、と夢が消えてから、本来、“無限の可能性”の選択肢から選べたはずなのに、“今の自分だったら難しくないだろう”という限られた選択肢から選ぶようになり、自分自身の力を縮小化することになってしまった。

不可思議wonderboyというラッパーのリリックで、「あの頃って何にでもなれる気がしてたよなあ。いや実際頑張れば何にでもなれたか。」という部分が思い出される。

でもそのおかげで国家資格を取得し、お金に困ることもなく、周囲に対しても“看護師”という看板を誇らしく思えることができていた。

デメリットの裏側には同じ質量のメリットが存在する。


先生と母から、自分の価値観に対して少なからずの影響を受けたが、夢を追いかけるのを辞めたのは自分の選択だ。
だから別に責める気もない。昔のことだし。
今幸せだし。
だけど大人になって思うのは、なんかもう少し言い方とかアプローチの仕方とかあってもいいのではないか?
少なくとも大人になった私だったらそんな言い方はしないぞ。と思う。
まあ生きている時代が違うからしょうがないね。
相手は他人で、自分ではないし。


ところで、今までの私は不安があって自信もなかった。
だから今自分が向かっている場所はどこなのか、どれくらいでそこに着くのか。
今進んでいる道で間違ってないのか。
そういうことを時々気に病んだ。

だけど今の私は思う。
ゴールがどこかは全くもって重要ではない。
それはただの通過点であり、道はその先も続いていく。
それよりも道中がとても大切だということ。
道中で見えた景色、落ちているもの。そして道中を楽しむこと。ゴールよりもそこに価値がある。

運命に基づく結論とか、不特定多数が言う“一般的”な道だとか、そういうものが正解なのではない。外側に正解はない。
自分が選んだ道が正解で、そこを信じて進むこと。進み続けることで何かが見えてくる。
そう思う。


進路相談が終わった当時の私に言いたい。
自分で自分の可能性を狭めなくていい。やりたいと思ったらやったらいい!You can do it だよ!!大切なのは道中だから!!!


自分のために今この文章を書いている。





#note書き始め #自分

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?