生きること死ぬこと
たった1人の親友が死んだ。
そのことを聞いたのは、おばあちゃんが亡くなって1年後のことだった。
うちは4歳から小学5年生まで片親で、母親がいない夜におばあちゃんが家まで来てくれていた。
とてもかわいがってくれた大好きなおばあちゃんが死んで、やっと前を向いて歩き出そうとしていた矢先にその訃報を知ることになった。
全ての力が抜けた。やっと前を向けそうな時に、またあの辛い道を一歩ずつ歩かなければいけないのか。親友に対して怒りも沸いた。
自分の命は自分だけのものではないのに。
あなたが死んでしまって私はどうしたらいいのか。
(今考えれば自分のことしか考えていないけれど、でもその時はそうするしか出来なかったし、それでいいと思っている)
私はホスピス看護師であるため、感情を抑制することは悲嘆が複雑化して長引くことを知っていたが、どうしても最初の頃は泣く行為ができずに、その知識どおり悲嘆は複雑化し長期戦となった。
前を向けるようになるまでは2年ほどかかった。
今だったら、気遣う思いやりも、かけてあげられる言葉の量も持ち合わせているのに。
と思ったりするが、それはそれで本当に大きな学びをくれた。死んだことには感謝していないが、そこからちゃんと学びを得た自分には感謝している。よくやった。
その悲嘆の最中、ひとつのネットの記事を見つけた。それは「いつかこの恋を思い出して泣いてしまう」というドラマの中の金言が書かれている記事だった。そのドラマの中のおばあちゃんのような存在がこう言っていた。
「わたしたち、死んだ人ともこれから生まれてくる人とも、一緒に生きてるのね」と。
そして、記事を書いた人はその言葉に対してこう解釈していた。「死者は失われるのではなく、私たちの見た目やしぐさ、言葉や行動の中に存在した証となって残り、ともに生き続けていくのだ」と。
よく、故人を思い悲しむ人に対して「心の中で一緒に生きている」と言う人がいるが、そんな言葉はなんの慰めにもならなかったし全く受け入れられない言葉だった。
しかしこの言葉を知って、私の言葉の使い方や振る舞い方、そして私の骨格や血液、遺伝子や声、細胞の隅々に、おばあちゃんと親友はちゃんと浸透している。私の中に存在しているんだ。そう思うと心強く感じた。そういう意味で「一緒に生きている」んだと腑に落ちた。
これは「心の中で一緒に生きている」という言葉の解像度を上げた言葉だと思う。
朝起きて準備をして仕事に行き、帰ってごはんを食べてからお風呂に入って寝る。その生活の中に、自分の中に、人生に、おばあちゃんと親友のスピリットと共にいることに安心した。
私はおばあちゃんと親友のエッセンスと、思い出を残し続けるために生きていく。
全てはすべからく循環しているから。
ホスピスで働いていて思っていたが、生きていることは本当に当たり前ではない。最近より強く、深くそれを感じている。
終末期の患者さんは、1階の売店まで1人で行けなくなり、お風呂に1人で入られなくなり、1人で排泄ができなくなり、ベッドから動けなくなり、食事ができなくなり喋ることができなくなり、そうやって出来ることは呼吸だけになってくる。
今、自分で毎日お風呂に入ることができて、おいしい食事を食べられて、暑さ寒さを凌げる家、やわらかいお布団があって、自分が手足を動かしたい時に動かせて、心臓も肺も他の臓器も休むことなく動いてくれる健康があって、その体で楽しいことも悲しいことも経験できて、生きていける環境を作ってくれている自然があって。
それって本当に当たり前じゃない。生かされている。そこが腑に落ちると、最初から自分は幸せだったことに気付く。
何かをしている時、思考は過去に行ったり未来にいったり誰かのことを考えたり、全く「今」にいない。「今」の連続が積み重なっているのに。
私は死ぬ時に「今」を味わえてなかったなと思いたくない。
死ぬ時、自分に対してどんな声かけをしてあげたいですか?
最後にチャットモンチーのcat walk の歌詞をのせておきます。
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