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初めて見る隣人の顔は驚くほど穏やかで幼かったー…きっともう二度と会えない君が教えてくれたこと。

現在、ロシアウクライナ間で戦争が起きている。隣国とはいえ平和ボケしている日本に住む身としてはあまり実感が湧かないが、とても恐ろしいことが起きているのは間違いない。

自分としては、必要以上に自らのロシアやウクライナとの思い出をおおっぴろげに語るのも戦争に便乗しているような気がして今日まで口に出すのを憚られていたが、いま一度ロシアと自分の感情との関係を整理するためにここに記したい。

私が最初にロシアという国を意識したのはおそらく一般より早く、小学生くらいの頃だ。

理由はとても簡単で、私は北海道出身であり、北方領土という存在を身近に感じながら育った子供だからだ。

公共施設に掲げられる「北方領土は日本固有の領土です」という垂れ幕を目にして、聞きかじった歴史の授業もあいまって、ロシアという国はなんとなく好かないなと思っていた。

そんな私がロシア人と対面することになったのは、高校2年生のとき。

バイト三昧だった私が、そんな喋るの得意なら入りなよ!と友人にけしかけられ入部した弁論部の課外活動で、北方領土に住むロシア人の同年代の子供たちと交流する機会に恵まれたのだ。

今思えばだが、北海道で行われる弁論大会の中では北方領土というのはメインテーマになっていたのではないかと思う。

思春期真っ只中の私は、「ロシア人⁉️絶対綺麗‼️目が潤いそう‼️」とルッキズムと好奇心丸出しで彼らとの交流会に勇み足で向かった。

最初に彼らを見た時の感動は忘れられない。

自分と同年代のはずなのになんと大人びて、なんと美しいんだろう、と度肝を抜かれた。

一応ロシア語のガイドブックは渡されていたが、ロシア語で美味しいを意味する「フクースナ」以外はろくに喋れた記憶がない。まあ英語も話せない片田舎の高校生にしては頑張ったほうだろう。

案の定英語も話せないが、授業で習った英単語で会話を試みる。RとTHの発音にうるさい先生だったのでそればっかり気にしながら喋っていた。(英語が多少話せる今となってはスゲーわりとどうでもいいなと思う、どうにか伝わる、多少話せるくらいのレベルだとなおさら。)

そんなどうにか仲良くなりたい私の下心を察したのか、ひとりの男の子がにこやかに話しかけてくれた。

「将来どうなりたい?」が会話のメインテーマになるのは今思えばとても欧米っぽいと思うし、話せてよかったなあと思う。

その子は画家になりたいと言っていた。

そして、無邪気にこう続けた。

「僕のふるさと、とても綺麗なんだ。だから今度遊びに来て。君にも見せたい。」

目から鱗が出た。

その時はなぜだか理由がわからなかったが、帰り道にじっくりと考えてるうちに自分なりに答えが出た。

「私たち(日本国民•北海道民)にとっては返還されるべき土地である北方領土が、彼ら(ロシア人)にとっては生まれ育った故郷であるという事実。そしてそれを彼と話すまで私は考えたことすらなかったんだ」と。

北方領土が返還されるべきだ!と主張するのは、元々北方領土に住んでいたが戦争により追いやられてしまった人々と、それに共感している人々。

確かにその人たちにとっては不当な形で故郷を奪われたことが正当化されるのは到底許せないだろう。

だが、その後、自分の意思とは関係なくそこで生まれ育ったロシアの若者にとってももうそこは故郷であり、頭ごなしに返還してもらうことは、今度は彼らを故郷から追い出すことになるのではないか?ということ。

そう気付いたとき、この世にたった1つの正解なんてなく、どの側面から見るかでしかないんだと悟った。

記憶に残っているセリフで「政治の決定はいつだって49対51なんだ。だから我々ができることは49の人々に納得してもらう理由を伝えることなんだ。」というのがあるが、このような事例にも当てはまるのではないかと思う。

そういったことを体験した私は、これからは想像ではなく自分の目で、耳で、全身でとにかく色んなことを確かめたくなり、数年後にベトナムやポーランド、南アフリカに向かうことになるのだが、それはまた別のお話で。


そしてもう1つロシア関連で残しておきたい話がある。

前の年にノリノリだったせいか、次年度の交流会も行かないかと声がかかり、2回目の交流会に行った時のこと。

私はそこで生の「外交官」なる人に初めて出会った。

その人の話は若かりし頃の自分を鼓舞するのには十分で、その時の感動を胸に官僚になるために大学受験の勉強を人一倍頑張ることができたくらい、私の人生の中でも忘れられないエピソードだ。

東日本大地震。

2011年3月に起こった悲劇。

その時に彼がいたのはロシア、ウラジオストク。日本では何が起きているんだ?!と毎日動揺しながらも情報をかき集めていたそうだ。

そんな中、彼に瓦礫撤去のためにロシア兵を連れて福島に向かってくれないかという相談がくる。

チェルノブイリが他人事ではないロシアの知人たちからは「そんな仕事はやめろ!俺が他に仕事を紹介するから!死ににいくな!」と必死で止められた。

奥さんにも相談して、「ここで逃げて他の人間をいかせることになったら俺は一生後悔する。申し訳ないが、いってくる」と心を決めた。

降り立った現地は悲惨で、ずっと不安や恐怖を感じていたらしい。自国の人の死体を大量に見ることがこんなにもショックだと思わなかった、と。

そんな中、駆け寄ってきた中年の男性が、泣きながら「あそこに妻が!妻がいるんです!」といくえにも積みかさなった車の山の頂上をさした。

「撤去できるような機械が到着するまで2日ほどかかる予定で…」と説明しかけたとき、ひとりのロシア兵が山をよじ登り始めた。

あっという間にてっぺんに着くと、彼は優しく奥さん…の死体を抱きかかえ、ゆっくりと丁寧に降りてきた。

「ありがとうございます…!」と泣きじゃくる旦那さんを前に、何もできない言い訳をしていた自分が恥ずかしかった、このままじゃだめだ、と心を入れ替えた。

そして何よりこうやって日本のために一生懸命頑張ってくれている彼らの努力を少しでも認めてもらいたい、と、のちに功労者として大使館に招けないかと上司に直談判し、ついには実現にこぎつけた。

私は彼の話を聞くまでそんな事実すら知らなかった。また、そんな素晴らしい縁の下の力持ちとして仕事した彼を心の底から尊敬した。

そしてきっと彼は今、日本人としてこの戦争の真っ只中にいるのではないかと思う。

外交官として滞在する中で触れ合ったたくさんのロシアの友人たちに思いを馳せながら、日本で最もロシアに詳しい人物として。

彼が私に知らなかったロシアの顔を見せてくれたように、このnoteを読んでくれた方が新たな側面を知ってくれたら嬉しく思う。

決して現時点のロシア政府を擁護するわけではなく、ただそこにいる国民の多面的な部分を知ってほしいという個人的な思いを持つ日本人から、もうきっと二度と会えないであろう1人のロシア人と1人の外交官に愛を込めて。


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