永井均「『私』――現実を構成する虚構」

永井均「Ⅱ 利己性ーー『私』の倫理学」
『〈私〉のメタフィジックス』(勁草書房、1986年)所収。(利己性にはエゴイズム、倫理学にはエシックスとルビがふられている。)
下記の4節構成。
 一 『私』ーー現実を構成する虚構
 二 行為の正当化
 三 「道徳哲学」の問題
 四 人生の作品化
今回は、一・二・四節について、主に「行為者とは何か」という(本記事の)筆者のテーマに関連する観点から重要と思われる洞察をとりだす。
本記事では一節の内容をメモ。

一 『私』ーー現実を構成する虚構
1
・〈私〉を隠すことでわれわれの現実を成立させている『私』/『人』の本性を探究する
・『人』の外延:生物学的なヒトから幼児や狂人を除き、あるいは鉄腕アトムを含めたもの
〔理性的存在者/合理的存在者、あるいは現存在、等々と言い換えて良いか。私なら、理由に基づいて行為することが可能であるような存在者としての行為者、と表現したい。〕
・『人』の内包(定義):①自己知の主体②自己知に基づく自己利益の主体。以下、この『人』の構造を探究していく。

2
第一の自己知:自分を多数の『私』の一事例として把握しつつ、その一事例を他から分かつ特殊性(独自性)の内容を知っている(例:氏名、性別、国籍、経歴の細部……)
第二の自己知自分に起こる心的事象(感情・知覚・欲望等)と、自分が起こす心的・身体的事象(思考・意志・行為等)を、(第一の意味ですでに知られているところの)自身に起こるものとして知っている。体験の自己帰属の知

3・4
自己知に関する考察(略。主にウィトゲンシュタインの自己知に関する議論の批判的検討)

5
自己利益は、自己知を前提としてはじめて成立する
・理由①:自己利益の概念は快苦の総計という概念に基礎付けられるが、快苦の総計を云々するためには、自分の人生を対象化してとらえなくてはならず、自分がどのような存在で、いまどのような状態であるか/何をしているか、を知っていなくてはならない。
・理由②:快苦の内容それ自体が、自己知の内容に依存する。
・なお、上記はいずれも、第一の自己知にもとづく、という論点。

6
・自己利益は、第二の自己知にも基づいている。とりわけ、第二の自己知のうち、〈自分が起こす心的・身体的事象〉の自己知に関しては、自己知と自己利益のあいだに、「もとづく」という以上の内的・概念的関係がある。
・〈自分に起こる事象〉については、生起とその認識との間のギャップが可能。しかし、〈自分が起こす事象〉には、そのギャップがありえない。それは意図や行為の本質的な言語(ロゴス)性による。意図や行為のような「人が起こす事象は始めから知的・言語的でなければならず、生起と知の二段階を区別することはできない」(p.115/言語にロゴスとルビ)。
・アンスコムの「観察によらない知識」。彼女は行為が観察によらずに知られると論じたが、観察によらずに知られるのは正確には意図であろう。その意図が外的な振る舞いと一致するときに意図的行為が成立する。
・アンスコムは「行為の理由」も観察によらずに知られるものに含めていたが、意図と理由の間にも内的・概念的関係がある。
・人は自分の行為の意図と理由を確実に知っているが、これらの分かちがたく結びついている自己知は、自己利益の知と結びついている。すなわち、意図には理由がなくてはならず、そして理由は自己利益的であらざるをえないからである。自己利益に貢献しないことを意図的に行うことは、概念的に不可能である。
・つまり行為者たる『人』は、自分の行為の理由や意図を確実に知っており、なぜそうするのか/何をするつもりなのかという問いに常に答えることができるのでなくてはならない。そしてその答えは、行為者にとってその行為がどのような点で魅力的であるかを説明するものでなくてはならない。
行為者が何を自分の自己利益と見なすかは、究極的には、第一の自己知に依存する。日常的な行為は、第二の自己知に言及すれば、第一の自己知まで遡らなくても十分説明が成立するが、非日常的な、あるいは重大な決断については、第一の自己知に遡った説明が必要になる。「このとき、『私』の意図を語る言葉は、第一の意味での自己知と第二の意味での自己知とを自己利益を媒介にして結合しているのでなければならない」(p.120)。
・第一の自己知から決断・行為に至る動機付けの物語は、人々を納得させ、その限りで自身を納得させる。〔説明可能性・合理化可能性に関する、根本的なレベルでの間主観的な規範の関与。〕

ちょっと最後の方で、行為の生起や説明という脈絡において、合理性と因果性が結びつくメカニズムに関する興味深い論点があるのだが、うまく理解できない。いったん休憩。

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