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DAY5 | 私の過去について

⚠︎︎ 本ブログは一部攻撃的及び過激な表現を含みます。



私は今年の春24歳になりました。

2.3年くらい前までは話したくなかったし
聞かれたくなかった自分の過去も
最近は向き合えるようになり
部分的にだけど人に話せるようになりました。

誰かが私に悩みを相談してくれて
そこに通ずるものが何かあれば
実は私も過去にね という風に話しています。

そして本記事はそんな私の過去ついて
書ける限り、文章に残してみようと思います。

かなり長くなるかと思いますので
時間に余裕のある方はお付き合いください。


私は父と母の間に長女として生まれ
私が生まれた3年後に弟が生まれて
2人姉弟になりました。

私は小学校6年生まで特に大きな問題もなく
楽しく日常生活を送っていましたが
中学校に入ると一変しました。

中学生になってすぐいじめのターゲットにされ
私の学校生活に希望が無くなりました。

いじめにも色んな種類があり
●完全に避けられるいじめ(~菌)
●自分の体に何か攻撃をされるいじめ(暴力)
●ただ悪口を言われるいじめ(物的証拠はない)
など、その中でも私は見事にフルコンボでした。

避けられるのに何か体に攻撃されるの?
と思うかもしれませんが、日によって違いました。

書き出したらきりがないですが
私のメンタルを一番追い込んだ内容は “避け” でした。

いわゆる~菌っていうやつです。
〇〇(名前)菌。

例えば
小学校のお昼掃除って、人によって違って
皆で色んな場所を掃除すると思うのですが
私が教室以外の場所を掃除して戻ってくると
私の机だけ椅子が上がったままなんです。
しかも私の机が少しでも触れている机も巻き添いにされ
何個かの机が全て教室の後ろ側に置かれたまま。
それを知らずに教室に戻った私は
クラスの人に笑われながら椅子を動かし
配置を直す作業をしていました。

廊下を通る時も、私とすれ違うと菌が移るから と
あからさまなリアクションを取って避けられ
私が通る時には全員壁に張り付くかの勢いで端っこを歩く。

私が触ったものは誰も触らない。

私が渡したものは誰も受取らない

その行動には全て大袈裟なリアクションがあり
少人数で笑って
「 ○○菌きたねぇ 」みたいな。
(なんとなく伝わるかな笑)

当時の私はどんないじめよりもそれが一番苦痛でした。

内容も日によって違ったため
日によっては私が触ったものでも受け取られる日があり
受け取ってもらえると嬉しく感じるほど
私の自尊心というかメンタルはおかしくなっていました。

筆記用具を忘れたから貸してほしい
と言われただけで
給食当番の時に好きな給食を多くして欲しい
と言われただけで
「私が触ったものでも大丈夫なんだ♡」
と、当時はそれだけで嬉しく感じていました。

今思うとそこで嬉しく感じる感情自体
間違っている(麻痺している)んだなと理解出来ますが
当時はそれほどまでおかしくなっていました。

いつか終わると思って誰にも頼れず抱えていましたが
次第に精神を病み、保健室に行くようになりました。

担任にも恵まれず、現状の話しをしても
「 あなたの勘違い 」
「 あなたが悪い 」
と言うだけで何もしようとしない。
ただ自分の評価の事だけを考えている担任だったので
私との相性も最悪でした。

母にも相談しようとも考えましたが
私の母は元々かなり精神的に不安定で
料理用の包〇で自〇しようとする場面も見てきましたし
本当の二重人格になり
服を着たままお風呂に入って楽しむ
子供のような人格になる場面も見ていたこともあったので
到底話す気にはなれませんでした。
子供ながらに「母に話しても意味がない」と
思っていたんだと思います。

そんな私はどんどん居場所がなくなり
中学2年生になる頃には私の心は完全に荒れ果て
やってはいけないことを繰り返すようになりました。

いわゆる「自傷行為」です。

数百錠の薬を飲んだり
手首や足、肩など、あらゆる部分を傷つけてみたり。

当時はとにかく現状をどうにかしたかった。

母がこの傷に気付いてくれたら。
担任がこの傷に気付いてくれたら
私の勘違いじゃないって分かってくれるかな。

自分の言葉で誰かに助けを求める事が出来なかった私には
その方法しかありませんでした。

でもそんな願いも虚しく、結局何も変わりませんでした。

ただただ私が衰弱していく一方でした。

次第に私は学校に行かなくなり
学校に行くフリをして
近くのスーパーやお店で時間を潰したりしていました。

それが母にバレると、母親はすぐ不安定になり
私を否定するようになりました。

そんな母の状況を担任も知っていたので
担任が家にいきなり来るようになったり
当時私が持っていたガラケーを担任に奪われたりと
プライベートにまで介入してきた担任に耐えられなくなり
仕方がなく学校へ戻り始めました。
今思うと担任の度が過ぎた行動にも恐怖を感じます。
一教師がここまでプライベートに介入して
無理やりなことをして良いものなのか。

学校へ戻ったものの、もう限界だった私は
ある日の朝致死量の薬を服用して学校に行きました。
今でも覚えていますが524錠服用しました。
⚠︎絶対に真似しないでください。

そして誰もが予想出来る通り、私は倒れました。

保健室に運ばれ、泡を吹いたり震えたり
見るに耐えない私の姿を見て
保健室の先生が「 何かしたでしょ?」と私に言い
私はそこで大量の薬を飲んだことを白状しました。

すぐに病院に運ばれ、胃を洗浄してもらい
即日で退院出来ました。

それからは学校に戻らないまま2年生に進級し
クラスのメンバーが大きく変わったことを聞いた私は
少しだけ戻ってみることにしました。

ただ、1年生の時より権力を持った主犯格が
2年生のクラスには存在していました。

精神もボロボロだった私は泣きつける場所がほしく
それで意識を向けたのが教科担当でした。

私は元々英語が苦手だったので、克服したい思いもあり
一人で英語の教科担当になりました。

教科担当といっても
ただ授業前に一緒に英語の先生と準備をするだけで
一人で何かやらされるわけでもないので
大丈夫だと信じました。

もしかしたら何か変わるかもしれないと
踏み出した本当に小さな一歩でした。

なぜ英語の教科担当が気になったのか
今でも分かりませんが 、、、(笑)

そして英語の教科担当の先生と顔合わせの日。
直感で大当たりだと感じました。

とても私のことを気にかけてくれて
2人きりになる時間も多かったので
お互いのプライベートについて
よく話して共有をしていました。

そして私はある日
「 この人に全て聞いて欲しい 」と思い
全てを話すと決めました。

職員室に行き、英語の先生(以降Aと表記)を呼び
職員室の前にある横長の椅子に座って
今まであったこと、今まで自分がしたこと
今自分がされていること全てを話しました。

今でも覚えていますが
あの日は某人気ドラマのSP版が放送される日でした。

そしてその日私に味方が出来ました。
Aは私の初めての味方になってくれました。

それからというもの
英語の授業の時は私を当てないでくれたり
授業中私の様子をこまめにみて気にしてくれたり
私が皆から笑われたり避けられたりする機会を減らすよう
出来るだけ配慮してくれました。

担任ではないので英語の授業の時だけでしたが
私はとても救われ、その人が最初の恩師でした。

それから私はわざと英語の課題を期日に出さず
放課後、Aが担当するクラスまで行って提出し
2人で数時間お話をするというのが日課になりました。
Aもそれを分かっていたので
私が皆と同じタイミングで課題を出さなくても
何も言わないでいてくれていました。

毎日家にも学校にも居場所がない私にとって
放課後に話を聞いてもらえる時間だけが
本当に救いでした。
Aが私の生きる全てだった。

そしてAは何度も何度も私の担任へ
状況を説明してくれていたけど
私の担任からは
「 あの子は私の生徒だから首をつっこまないで 」
と言われてしまい
私を救おうとしてくれたAが悲しそうな顔をしていて
それが私にはすごく辛かった。

それでもAは私の味方で居続けてくれました。


そしてある日の英語の授業の時
Daniel Powter の Bad Day を流し
「 英語の歌だから聴いてね~ 」と言って
歌に続いて日本語の歌詞を読み上げている時
“And I don’t need no carryin’ on”
という歌詞の所で
Aが教卓から私の目を見て
「 そんなに頑張らなくていいんだよ 」と読み上げ
私に優しく語りかけるかのように和訳しました。

日本語訳はネットから拾ってきた言葉ではなく
Aが和訳したAの言葉だったため
とても刺さりました。私のために。



こんなに皆がいる場所でバレないように
そんな優しい言葉をかけてくれるなんて
と私はとても嬉しく思い
授業中にも関わらず号泣しました。

涙が止まらず呼吸が出来なくなった私は
黙って教室を出ました。
もうその時は皆の目なんて気にならなかったし
実際、勝手にいなくなったことに対して
Aは何も言わなかったし
そのまま授業を進めてくれていました。

そしてその日の放課後も教室に行くと
Aはテストの採点をしていました。

そして一言
「来ると思った。待ってたよ」と言ってくれました。

私はAのおかげで学校に通い続けることが出来
元々5段階中1評価だった英語の成績も4まで上がり
テストは50点満点中40点以上を取るぐらい
英語が大好きになっていました。

そして3年生にあがるタイミングで
Aが私に短い手紙をくれました。

そこには

「あなたの努力は宝物」

「あなたはずっと私の生徒です」

と書いてありました。

努力する事が宝物なんじゃなくて
私が今まで苦しみながらでも努力してきた
その私の努力が宝物だといってもらえたことが
ただただ嬉しかった。

そして3年生になり英語の担当も変わってしまいましたが
それでもAは放課後に時間を作ってくれていたので
なんとか3年生も乗り切ることが出来ました。

Aのサポートもあり、公立の高校も無事合格。

そして高校へ入学。

色んな中学校から皆バラバラに入学してきた為
いじめなんて存在していませんでした。

元々人見知りをしない性格だった私は
入学式で隣に座っていた女の子とすぐにイツメンになり
これはやり直せると思いました。

それから数ヶ月ほぼ毎日その子と一緒に過ごしました。

放課後は毎日遊びに行ってお揃いの物を買ったり
プリクラを取ったり、ご飯を食べに行ったり
同じところでバイトしたり、完全にニコイチでした。

他の女子や男子とも問題なく仲良くなり
全員がクラスの誰とでも話すような
本当に仲の良いクラスでした。

この頃の私は過去のいじめを忘れ、人間不信も直り
立ち直れたと思っていましたが

ある日

その友達に裏切られました。

朝学校に行っていつも通り話そうとすると
無視される状態で
私はあの頃の感覚が蘇りました。

そして私はもう次の日から
高校へ行けなくなりました。

過去の積み重ねもあり、人間不信な自分に戻り
精神疾患を患い、一人では立ち直れないくらい
精神的にやられていました。

そして私はとうとう後1日休んだら留年
というところまで来てしまい
まだ進級までに半年以上あったことから無理だと思い
人生を諦め、誰にも相談せず、高校を中退しました。

??


そう


高校を中退したんです。


今どき高校を出ていないと就職出来ないことは
もちろん分かっていたし
軽率な行動だと理解はしていたけど、私には無理でした。

過去のトラウマを癒すことが出来ず
そのまま積み重ねてしまった結果だと思います。



ただ本当の闇はここからでした。



高校を辞めると母の態度が急変。

「子供は学校に行くのが仕事だから
行かないならあなたの家事はしない。
ご飯も作らない」と言われました。

しかしちょうど高校を辞めたくらいから
私の肌の調子がおかしくなり
顔はタダれ、皮膚は赤く、重度のアトピーになり
一瞬で外に出れないレベルまで到達しました。

両頬とおでこ全体が真っ赤にタダれ、膿が出ていました。
ほとんど目以外の顔全部です。

マスクやサングラスをかければ
外に出れたのかもしれないですが
マスクをつけると
数時間後には頬全体の膿がくっついて固まってしまい
全体が黄色くなり、タダれた肌と張り付いて
マスクを取る時も激痛を伴うレベルだったため
外に出る事は出来ませんでした。

肌ってそんなに酷く荒れるものなの?
って思う方もいるかもしれませんが
酷い人は本当に酷いです。

それが原因で私は部屋から出られなくなり
引きこもりになりました。

私が自室から出ないことにより
宣言通り、母もご飯を作らなくなり
何日もご飯が食べられない日が続きました。

自分の娘の家事を放棄することは
立派な “ネグレクト” に該当します。

いくら顔中がタダれていてもお腹は空くので
家族の留守中に冷蔵庫を漁りご飯を食べると
母が帰宅してそれに気付いた瞬間
私の自室へ乗り込んでくるのです。

私の家は2階建ての賃貸で
私の部屋は2階にあります。

母が玄関から勢いよく階段を登ってくる音が聞こえ
私の部屋に乗り込んでくるのが音で分かるぐらいでした。

今でも階段を急いで移動する音はトラウマです。
忘れたと思っても、乗り越えたつもりでも
自分の心拍数は嘘をつかないみたいです。

そして乗り込んできた後は
「泥棒!!!!」と物凄い剣幕で怒鳴られる。
文章にしたら大したことないように感じるけど
実際その瞬間は地獄です。
何度過呼吸になったか数え切れません。

自分が買った食材を娘が食べただけで
他人どころか泥棒と犯罪者扱いされる始末。
これがあまりにも苦痛でした。

ましてや物凄い剣幕で怒鳴られる為
母の精神状態が私にも伝染しました。
怒鳴った後にはすぐグズグズ声になり
赤ちゃんのように泣いて怒る母。

ネガティブな感情や不安定な感情は人に伝染する
と言われている典型的なパターンです。
もう何もかもグチャグチャでした。

身長は160センチありましたが
ほとんどご飯を食べていなかったため
体重も36キロまで落ちました。

次第に母は食材を家に置かなくなり
私も働いていなかったためお金もなく
どうにもならなくなった結果
近くのスーパーの試食を漁り、近くのコンビニでは
“母が病気なので廃棄を分けてください”
と嘘をつき、食べ物をもらっていました。

地獄 というか 惨め 以外の何者でもありません。

その頃の私は自己肯定感どころか生きている感覚もなく
自分なんて〇ねばいいと思っていました。


そんなある日、本気で行動に移したくなり
自室の窓を開けて手すりに座り、落ちる決心をしました。

手すりに座ったところで
“所詮私の人生誰にも愛されないこんなもんだった”
と最後に自分の人生を振り返っていました。

2.3分で気が済んだので、落ちようとした瞬間
中学校2年生の頃に出会ったAの笑顔が浮かびました。

今までの時間でAからもらった言葉達が頭に浮かび
この状況で落ちるなんて私には出来なくて
思いとどまりました。

その時の私には何の未来もないのに
○ぬのをやめ、部屋に戻りました。


それからも引きこもりが続き
1年が経った頃、本当に少しずつですが
徐々に外に出られるようになりました。

人に会わなくてもいいからまず外に出る練習として
でも、昼間は怖くて無理だったので
夜中に出てみることから始めました。


そして、完全に時給目当てでしたが
近くのパチンコ屋さんでアルバイトを始めました。

アルバイトを始めると母の態度も元に戻り
家事をしてくれるようになりました。

その当時の私は無駄に突っぱねて
誰とも仲良く出来ない、働ければいいと思う性格でしたが
アルバイト先で出会った上司に事務所で激怒されて
変われた事を今でもずっと覚えています。

「俺が聞いてるのはやったかやってないか。
○ か × か、ただそれだけなんだよ。
やったつもりとかやったと思うじゃなくて
きちんと自分で堂々とやったかやってないか
〇 か × か言えないのがダメなんだよ」
と、かなーーーり怒られました。笑

最初は素直に聞く事が出来なかったので
そんな私に熱くなったって意味ないし
話すの辞めればいいじゃんとひねくれていましたが
「俺は毎晩家で酒を飲んでるんだけど
俺は美味い酒が飲みたいんだ。
俺が今ここでお前を見捨てたら
俺は今晩自分を責め、不味い酒を飲む事になる」
と言われ、この人は本当に私が働きやすくなるような
環境と人間関係を作ろうとしてくれてるんだと思い
素直に聞くことが出来ました。

言いたい事はすごくよく分かるし
頭ごなしに怒るのではなく
私のことを想って怒ってくれたことが嬉しくて
私は事務所で号泣していました(笑)
事務所で誰かが怒鳴られているという空気を察して
他のスタッフが誰も入ってこなかったのも
今思えば有難い事だと思います。

その日から私は少し殻を破る事が出来
バイト先の皆を信じ、変に突っぱねるのをやめ
気付いたら上手く溶け込めていました。

行ったり行かなかったりしましたが
カラオケに誘ってもらったり、忘年会に行ったり
仲良くなった人とプライベートで遊んだり
夜中にファミレスに行って爆食したり
ラーメンを食べに行ったり。

そして段々普通の生活を取り戻していた私は
許すことができない母と一緒にいるのが苦痛だった為
お給料13万円を初期費用にし、一人暮らしを始めました。
17歳で一人暮らしを始めたので早い方だと思います。

そこからは毎日が楽しかった。

とても楽しいバイト先だった。

でも私が自分の感情に素直になればなるほど
皆と仲良く関わりたいと思えば思うほど
弊害が出るんです。

パニック障害やうつ病を抱えていた私は
症状が落ち着いたことで直ったと勘違いしていましたが
自分の感情に素直になろうとすると
いつも体がSOSを出す状態でした。

ここのバイト先が好きで楽しいから頑張りたい
と行動すると、過呼吸になったり胃が痛くなったり
立っていられなくなったりする。

過去に負った傷は簡単には癒えないものなのだろうと
ここでも苦しさを感じていました。


そして今度は鬱状態があまりにも酷くなり
バイトに行けなくなってしまった為
辞めようと思いました。

なんでなの と何度も何度も自分を責めました。

楽しいのに、頑張りたいのに、まだ頑張れるのに
なんで体が着いてこないのか分からず
精神疾患を抱えて生きるのがただただ苦しかった。

でも過去に叱ってくれた上司や憧れの上司が
“辞めなくても休職したらいいんじゃない?”
と提案してくれたことによって
辞めずに休職することを決めました。

その当時の私にとって戻る場所があることは
苦痛ではなく有難いと思えるようになっていたし
自分から 戻りたい と思えるような場所だったので
そう思える場所があるのは本当に救いでした。

それからは精神科に通ったり、病んだり、治ったり
引きこもったりを繰り返して
約1ヶ月半くらいで仕事が出来るくらいには落ち着いて
徐々に回復していきました。

それでもいきなりフルタイムでシフトに入るのではなく
1日3.4時間の勤務を週3くらいにし
体に優しい働き方で頑張ると決め
体調を見てシフトを増減してもらっていました。

それからしばらくは鬱症状も落ち着き
約2年間パチンコ屋さんで働いた後は
新しい会社で正社員として働き始めました。

そしてそこからも鬱状態が再発しては落ち着き
また再発して落ち着きを繰り返し
色んな経験を経て、私の性格は徐々に変わっていき
メンタルはかなり強くなりました。

パチンコ屋さんでのアルバイトをやめ4年程経ちますが
私は今の自分が好きだと堂々と言えます。

私は絶対に誰かを裏切ることはしないし
絶対に人が傷付くような嘘はつかないし
ほとんどの事は全て一人で出来るし
年齢以上のしっかりした考えをモテているし
誰が相手でも自分の意見をきちんと口にする度胸も
持っています。

“元から何でも出来るんだ” と周りから思われるくらい
努力して体に定着させることも出来ます。

人に気持ちが人より深く良くわかるからこそ
その時その人が必要な言葉をかけてあげられる反面
その人を深く言葉で傷付けることも出来てしまうので
そこは気をつけないといけないところだと思っています。

今は自分の事が大好きで
それなりに自信も持っているので
今の自分ならどこでも誰とでもやっていけると
信じることが出来ています。

色んなことを乗り越えて
自分のことが好きだと言えるようになった今
この自分を無くさないよう大事にしたいし
日々色んな事を経験して、色んな事を知って
もっともっと素敵な女性になれるよう
日々精進していきたいと思います 🫰🏻

※お読みいただきありがとうございました 🌼

拝啓
中学生から成人するまでの私へ
ㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤ
“And I don’t need no carryin’ on”
ㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤ
24歳の私より
敬具


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