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エッセイが書けなかった

ここ3週間、エッセイが書けなかった。日々が走るように過ぎていって、それを追いかけるのに必死で。何を書けばいいのか、どうしてもわからなかった。ごめんなさい。

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「書きたい」そう思って、ずっと書いてきたはずなのに、いつのまにか「書かなきゃ」と思うようになっていた。移動中も眠りにつく前も、頭の片隅にはエッセイの存在がいて。そのたびに何を書こうかを必死で考えるのだけど、何も思い浮かばない。ふと思い浮かんだことがあっても、エッセイにするほどのことでもない気がして、帳消しにしてしまう。

ちゃんと日常を送っているはずなのに、社会と関わり合っているはずなのに、どうして前みたいに、書きたいことが溢れてこないんだろう。考えてみると、最近の私は、私生活で「考えること」を放棄していたような気がする。私はどうしても、忙しない日々を送ると、一瞬で私生活を放棄してしまう。うなだれるようにベッドに横たわって、スマホだけを眺めて。文章を考えることや書くことから、どんどん遠ざかってしまう。

私がエッセイを書けなかった理由。それは、「目の前の物事に自分なりの解釈をしなゃいけない」と思っていたから。今まで書いてきたエッセイが、物事に対して独自の視点から理由や想いを綴っていたものであったように、これから書くものも、自分なりの哲学を語るものでなくてはならないと思っていた。

でも、物事を掘り下げるには、考える時間がいる。でも、ほかのことで頭がいっぱいになると、考える時間をつくることがどうしても重荷に感じてしまう。そのジレンマから、私はエッセイに向き合うことができなかった。本当に、私は弱い人間だと思う。

ただこの3週間、心が揺れ動く瞬間みたいなものはたくさんあった。たとえば電車を待っているとき、隣にいた二人のおばあちゃんが世間話をしていた。「暑いわね」「子どもの頃は、こんな暑くなかったわよね」って言い合って。そしたら片方のおばあちゃんが「人間がもっともっと、って欲深くなりすぎたのかもね」って呟いた。

なんだかわからないけれど、私はその言葉にすごく胸がキュッてなって。おばあちゃんを背にして乗った電車の中で「この話をエッセイで伝えたいな」と思った。いろんな出来事にまみれて忘れてしまわないように、メモにも残した。

でも私は、エッセイにするほど自分の考えを掘り下げられなかった。考える時間と向き合えなかった。だから結局それっきり。エッセイにもできなくて、それがなんだか悔しくて、自分が情けなく感じた。

そもそも私がエッセイをはじめた理由は、ずっと続けていたら「何者かになれるんじゃないか」という淡い期待だ。「文章で生きていく」と決めたときに、自己表現の場がたったひとつでもいいからほしかった。だから毎週、思いの丈を文章にすることを決めた。

でも最近は、何者かになるために文章を書くのではなくて、心が動くことを見つけるために、そしてそれを忘れたくないために、文章を書きたいと思っている自分がいる。

「毎週書けないならいっそのこと、やめてしまおうか」と思ったこともある。だけど、やっぱり私は、心が動く瞬間を常に見つけられる自分でいたい。

「自分なりの解釈をした文章を書かなきゃいけない」
ずっとそう思ってきたし、それができないなら続ける意味もないと思ってた。でも、これからはそんな制約を外して、毎週またエッセイと向き合っていきたい。

短めの呟きや散文みたいな文章も、ちらほら書くこともあると思う。それが、言い訳や甘えに見える人もいるかもしれない。

でも「書きたい」が「書かなきゃ」にならないように。心が動いたときに、ちゃんと誰かに伝えられるように。私は、これからもエッセイを書き続けていこうと思う。

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