迫害の歴史――血の中傷
2020年07月03日(金)に書いた記事の転載です。
ノリッジのウィリアム
これは1144年にイギリス東部の町ノリッジで起きたお話です。ノリッジにアングロサクソン系のウィリアムという12歳の子供がいました。ウィリアムの父親はなめし革業の見習いをしており、この父親はしばしば地元のユダヤ人と関係をもっていました。これより少し前の1135年にノリッジにユダヤ人コミュニティができていました。
とある火曜日、母親がノリッジの大司教の料理人を名乗る男に出くわしました。この男は大司教の台所での仕事を少年に持ちかけました。
ウィリアムの母親はこれに合意し、3シリングを受け取りました。男はウィリアムとともにウィリアムの叔母のところを訪問しました。叔母はこの男の話にうさん臭さを感じ、彼女の娘にウィリアムの後を追跡するようにたのみました。
すると男とウィリアムは地元のユダヤ人の家の中へと消えていきました。これがウィリアムが生きて目撃された最後となりました。
土曜日に近くの森林でウィリアムの遺体が発見されました。発見されたウィリアムは猿ぐつわがされていました。ノリッジのクリスチャンは目撃情報からユダヤ人を非難し教会裁判所に訴えましたが、地元の保安官は彼らがキリスト教徒ではないので彼らを裁けないと忠告しました。
ユダヤ人たちはノリッジ城に保護のため連れていかれ、状況が落ち着いたのちに家に戻りました。その2年後にユダヤ人コミュニティのメンバーは全く別の問題で殺害されました。
1150年、ノリッジを訪れたマンモンのトマスが、この事件の調査を行うことを決めました。この時の証言をまとめたものが著作として残っています。この時の話をトマスはコミュニティの改宗ユダヤ人からも得ることができました。
ユダヤ人はイスラエルでの支配権を取り戻すためにナルボンヌで会合を開き、どこで生贄の儀式を行うか決めているとし、その年はノリッジのユダヤ人にその任務が与えられたとしています。料理人だった男は、生贄を誘惑することを目的として料理人として雇われたのでした。
彼らはイエスの十字架刑を模倣してウィリアムを殺害しました。トマスは調査でほかにも様々な目撃情報をとり、その結果ユダヤ人グループによる殺害は事実であると確信しました。
これがユダヤ人の「血の中傷」と呼ばれる告発がおこった最初の事件であり、この後も1290年にユダヤ人がイギリスから追放されるまで、いくつかのユダヤ人による児童殺傷事件、儀式殺人が行われたとされています。
グロスター/ベリー/リンカーン
イギリスにおける血の中傷事件は1168年のグロスターのハロルド、1181年のベリーのロバート、他には1183年にブリストル、1255年の有名なリンカーンのリトル・ヒューが挙げられます。
グロスターのハロルドは川に浮かんだ状態で発見されました。ハロルドは3月16日の儀式のために2月21日に誘拐されたと言われています。ここでも、ウィリアムと同様の痕跡が遺体から認められました。当時グロスターに割礼儀式のためにユダヤ人が多数集まっていました。ただし、この事件に伴いユダヤ人が逮捕され犯罪で起訴されたという事実はないようです。
ベリーのロバートはベリーセントエドマンズ修道院を中心としたサフォークの町での血の中傷事件をいいます。事件がどのようなものだったのか正確な記述はありませんが、15世紀に描かれた絵などでは、ロバートの遺体が井戸に投げ込まれるシーンが描写されています。
リンカーンのリトル・ヒューはジェフリー・チョーサー(1343? - 1400)の『カンタベリー物語』に描かれているため一連の血の中傷と呼ばれるものの中でも世界的に有名です。
この時代にはユダヤ人とクリスチャンとの関係は以前よりもはっきりとした形で差別化がされていました。ヘンリー3世はユダヤ人に重税を課し、ユダヤ人の賃金業者は債権の売却を余儀なくされていました。
また多くの町で教会の声明によりユダヤ人の追放が進み、ヘンリー3世も教会の要求を受け入れて法律を整えました。こうした中でリンカーンのリトル・ヒューの殺害事件が起こりました。
9歳のヒューは7月31日に姿を消し、8月29日に井戸から発見されました。殺害方法はウィリアム以後の一連の事件と類似的ですが、以前よりも残虐な描写が目立つようになっています。このような記述に対して事実としての信頼性が薄いと考える歴史学者も存在します。
ユダヤ人のコピンが殺人を自白し、90人のユダヤ人が逮捕され、18人が絞首刑に処されました。一連の事件の中で死刑判決が宣告されたのはこれが初めてでした。
現在、リンカーン大聖堂のリトル・ヒュー寺院の跡地には、ユダヤ人コミュニティによるクリスチャンの男児の儀式殺人という中世のでっち上げで多くのユダヤ人が犠牲になったという旨が書かれており、これらのでっちあげはクリスチャンの名誉に反するという趣旨の文言が書かれています。
これは1955年に設置されたもので、どういった人たちが設置したのかはわかりませんが、これらの一連の事件がすべてでっち上げであると確信しているのか、あるいはそれを隠したい人たちが書いたものであろうと推測するよりありません。
トレントのシモン
12世紀から13世紀にかけて、フランスとドイツでも同様の事件がおこり、多くのユダヤ人が殺害されました。一方で神聖ローマ皇帝フリードリッヒ2世や、ローマ教皇のインノケンティウス4世はユダヤ人を擁護し、ユダヤ人に対する迫害が起こらないようにしました。
イタリアではトレントで3歳のシモンが殺害されました。この時のトレントの司教、ヨハネス・ヒンダーバッハは1469年にトレントに移住し、トレントのサミュエルを長とする3世帯のユダヤ人コミュニティに賃金業者の許可を更新していました。
1475年3月23日にシモンが行方不明となり、街中で捜索がなされましたが、3月26日にサミュエルの家の隣の溝でシモンの遺体が発見されました。これはユダヤ人によって発見されたと言われています。遺体からは血を抜かれた形跡があり、ユダヤ人による儀式殺人ではないかとされました。
15人のユダヤ人に死刑が宣告され、火刑に処されました。ユダヤ人の女性たちは共犯者と非難されましたが、儀式には男性しか参加できないと主張しました。これに教皇が介入し、1478年に彼女たちは解放されました。
これに伴い、ヴェネト、ロンバルディア、チロル地方でユダヤ人に対する迫害が起こりました。ヴェネチアでは1479年にユダヤ人による金貸し業が禁止され、1486年にはすべてのユダヤ人が追放されました。
この事件にたいして1965年に教皇パウロ6世はシモンを殉教者から削除しました。
一連の事件は、ヨーロッパ全土に広がりを見せ、アラブ世界でもユダヤ人による儀式殺人についての非難が広がりを見せています。
ユダヤ人のヨーロッパにおける迫害は、単に彼らが少数者だったから起こったわけでも、彼らが単に金に卑しいと認識されていたから起こったわけでも、彼らが単に自分たちの生活圏を脅かす商売をしていると思われたからでもありません。
またクリスチャンがユダヤ人の頭脳や才能に嫉妬したからでもありません。ユダヤ人が異教徒であるクリスチャンの子供を誘拐し、儀式殺人を行っていると認識されていたという点が非常に大きな意味を持っていました。
これは現在もアメリカのFBIなどでも取り上げられている問題であり、エヴィデンスは相当数あります。これらを丹念に検証しつつ、何が事実で何が事実ではないのかを分析しなければなりません。
アラブの春
アメリカのユダヤ人指導者の最重要人物の一人とされるアメリカシオニスト機構会長モートン・クラインは次のようにかつてエジプトの大統領を非難しました。
この結果起こったことは、アメリカが主導する「アラブの春」でした。民主化運動によってムバラク政権が倒されましたが、これはアメリカのユダヤ・ロビーが仕掛けたものです。シオニストたちにとって、ムバラク政権は打倒しなければならなかった敵であり、その敵を倒すために、アラブ人を利用したわけです。
彼らは自分たちの手を汚す必要などはありません。旧メディアやネットメディアを駆使した情報操作と潤沢な資金によって、ムバラク政権は打倒されたのです。そしてそうするだけの力と知恵がありますが、彼らはその知恵のために延々とわかりきった嘘をつき続ける運命にあります。
彼らの嘘は実際に生存戦略の一種であり、アメリカのニュースメディアがフェイクニュースを流すのも、圧倒的少数者であるにも関わらず、彼らの聖地を確実に自分たちのものにするためなのです。
アラブでの民主化運動も、旧共産圏での民主化運動も、すべてアメリカとイギリスが主導しているものです。そしてその活動家を一人一人丹念に調べてみるとそのほとんどが、ユダヤ人か、もしくは彼らから既得権益を獲得している人間かのいずれかしかいません。
最後に
最後までお付き合いいただきありがとうございました。ご感想などありましたら、気軽にコメントください。
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