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わたしが本を読む理由


須賀敦子さんの全集をぱらぱらとめくっていたら、こんな言葉を見つけた。

平和だ、平和だとうかれている今日の社会が、人間が、われわれの知らないところで腐敗し、溶解しはじめているとしたら、それは戦争で人を殺していたときと、おなじくらい、もしかしたら目に見えないだけもっと、恐ろしいことなのではないか。

わたしは社会ということを思うと、寒々しい荒野にひとり立たされているような気持ちになる。

運よく友だちとすれ違って、一瞬抱きしめても、またすぐに去っていく。

わたしが選んだわけではない血縁たちは、もう悲しいほどに違う人生になってしまっていて、どんな言葉も共有できない。

街も、仕事場も、そこでの会話も、荒野そのものだ。

ずっと目を閉じているわけにはいかない。ずっと耳を塞いでいるわけにもいかない。うっすらと目を開けると、もしかしたらわたしの愛したものたちは根絶やしにされているのではないか、と恐れる。臆病なわたし。

本にだけは、わたしの探しているものがある。社会の中でどんな美辞麗句も空虚に聞こえていた乾いた心を、奥底から潤してくれるのは本だけだ。

言葉にはあらわせない物事を、ありとあらゆるメタファーや寓話で表現するような本に惹かれる。そこに○○べきなんていう道徳めいた言葉が無いのであれば、なお良い。

本さえあれば、わたしはいつまでもおぼえていられるだろう。世界はどこまでも深いのだということ。たとえ荒野に生きようとも、心は自由だということ。言葉は何も説明なんてできない。たったひとりの人間の精神すらどんな言葉でも説明できない。だからこそ、この世にはこんなにもたくさんの本があるのだということ。

世界を複雑に、もしくは単純にし、人間を言葉でコントロールしようとするすべてに対する、わたしなりの抵抗運動。本を読むこと。

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