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全力で頑張ることが素晴らしいわけじゃない

おはようございます.こんにちは.こんばんは.
58回目のnoteを投稿します,とろたく軍艦です.
 
以前の記事でも書いたが,現在の私は一つのことに対して打ち込むことができなくなってしまった.日本式の考え方では,目の前のことに全力で取り組むことが礼賛されるため,私の在り方の変容は退化なのかもしれない.だが本当に,この変容は進化ではなく退化なのだろうか.今一度考え直したいと思う.
 
私の知り合いに,とにかく目の前のことに全力で取り組む人間がいる.ある程度の戦略はあるだろうが,そこまで頭を使わずに一心不乱に頑張る人間だ.当然ながら,周囲からの評価は高い.話を聞くに,上司や先輩からの信頼が厚く,同期からも一目置かれ,後輩からは非常に頼られるらしい.これだけ聞くと,やはり一つのことに対して全力で打ち込める人間の方が素晴らしく聞こえる.
 
しかしながら,ここで重要なのは,彼が周囲から評価されているのは,努力や態度など,いわゆる「過程」に対してであり,決して「結果・成果」ではないということだ.つまり,まだまだ未熟な内は「過程」を評価されるが,成長するにつれて,「過程」ではなく「結果・成果」が評価されるようになる.このような状態になったとき,彼がそれでも周囲からの評価を維持できるのかはすこぶる怪しい.当然ながら,目の前のことに打ち込んだ結果として,成長し,周囲を驚かせるような「結果・成果」を残すことができるような人間になるかもしれないが,私の経験上,そのような例はあまり多くはない.
 
「結果・成果」を出すためには,熱い気持ちは第一に重要だが,同時にそれだけでは足りない.重要なのは戦略だ (ここでは言葉遊びをしたいわけではないので,戦略と戦術との意味を峻別しない).そして,戦略を立てる上で大切なのは,コミュニケーションスキルや深い専門的知識,多様な視点などがある.目の前に100%集中してしまうと,それ以外が見えなくなる.目の前のことだけをやれば良いので,ある種の思考放棄に近い状態だ.このような人間に,科学・財務・法務・トレンド・人間関係などを包括した戦略を立てられるようには思えない.さらに言うならば,戦略に基づく計画にはある種の「遊び」が必要なのだが,「遊び」の重要性をどこまで認識できているのかも怪しい.現場を無視した計画を立て,いたずらに疲労させる可能性も大だ.
 
対して,今の自分を見るとなかなか悪くないのではと感じる (まあ,自分を悪いと思う人間もそういないだろうが).専門性を体当たり式に獲得しながらも,色々なモノ・コトに目を向けることができている.このまま成長したときに自分がどのような人間になるのか楽しみでもある.
 
自分や彼が今後どのような人生を歩むのかは分からない.ひょっとしたら,余裕をぶちかましている自分が没落し,彼は極めて優秀な人間になるのかもしれない.ただ,結果は誰にも分からない.今は,自分の信じる道をただ歩くだけだ.

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