たのしい読み切り小説#1 「バタフライエフェクト」
夜の京葉線の中、ふと、目を覚ました。
開いたドアから吹き込んできた風の冷たさに、列車が駅に着いていたことに気づく。慌てて車内の表示を確認すると、幸い降りる駅を寝過ごしてしまったという訳ではなさそうだった。
しかし、なんだかとんでもない夢を見ていたような気がする。そのせいか、一瞬、自らが帰路にいることさえも忘れてしまっていた。
平気なつもりではいた。しかし今日は仕事上のイレギュラーが多く、それらの処理に追われた疲れが、今になって案の定どっと出てしまったのかもしれない。
そうこうしている間に、一体どんな夢を見ていたのか、全く思い出せなくなってしまった。記憶が跡形もなく消えるなんてことは本当にあるのだなと、人間の見事な忘却機能に思いを馳せていると、1人の少女が車両に乗り込んだ。そして私の正面の座席に腰を下ろした。
「えっ…?」
唐突に目の前で起きた状況に、思わず声が出てしまった。私の正面に座ったのは、ここには決して居るはずのない人だったのだ。
他人の空似ならば、それはまあよくある話である。絶望的に他人の顔を覚えられない私は、マスク着用が常となったせいで、ここ最近、友人のドッペルゲンガーが随分と増えたなあと思っていたところであった。だが、それとはまた次元が違う。
「再現度」が、他人の空似とは、桁違いなのである。
悟られぬよう、手元のスマートフォンと行き来するように、ちらちらと彼女の顔を確認する。
ああ、やっぱりそうだ。
どう見たって彼女は、私の妹だった。
しかも奇妙なことにその姿は「私の知っている姿」で止まっていた。実年齢に換算してもおかしい。あれから十年程の月日が経っているはずだ。なのに彼女はあの日と同じ制服を着て、全く同じ顔のままで私の前に現れた。
それは妹というよりかは、私の記憶そのものが、目の前に現れているように思えてならなかった。
やっと自分の中で折り合いをつけられたところだったのに。どうしてこうもあからさまに、神様は悪戯をするのだろうかと、怒りとも悲しみとも似つかない複雑な感情が湧いてくる。
それから何度か、話しかけてみようと思い立つたびに、もう一人の自分が、待て、そんなわけがないだろう、と止めに入るを繰り返した。
そうして気が気ではなくなっているうちに電車が減速し始め、次の駅に停車した。ドアが開き、彼女は徐に立ち上がった。
ドアから駅のホームの人込みに消えていく、彼女のポニーテールが左右にゆっくりと揺れた。
「待って」
気づけば私は駆け出し、彼女の左袖を掴んでいた。
「な、なんですか…?」
動揺した声で尋ねながら彼女がおそるおそるこちらを振り返る。
その声も、私の知る声そのものであった。
その直後に、背後で電車のドアが閉まり、発車した音が鳴り響く。動き出した電車の風でお互いの髪が大きく靡く。
ここまで来てしまったなら後にも引けない。
「すみません……人違いかとは思うのですが、あなたはもしかして……」
あれ?
言わなきゃいけないのに、うまく話すことができない。
ああ、まただ。この感覚は以前にも感じたことのあるものだった。どこで経験したのか具体的には思い出すことができないが、所謂デジャヴ
というやつよりかは、もっと、確信の持てるものであった。
ゆっくりと彼女の周囲の空間が回転し始める。
だめだ。訊かなくちゃ。
ここまで彼女を止めてしまったのだから。
しかし視界は容赦なく歪む。彼女が一体どんな顔で自分を見つめているのかすら、もはや判らない。
それから私は意識を失った。
?
夜の京葉線の中、ふと、目を覚ました。
開いたドアから吹き込んできた風の冷たさに、列車が駅に着いていたことに気づく。慌てて車内の表示を確認すると、幸い降りる駅を寝過ごしてしまったという訳ではなさそうだった。
しかし、なんだかとんでもない夢を見ていたような気がする。そのせいか、一瞬、自らが帰路にいることさえも忘れてしまっていた。
平気なつもりではいた。しかし今日は仕事上のイレギュラーが多く、それらの処理に追われた疲れが、今になって案の定どっと出てしまったのかもしれない。
そうこうしている間に、一体どんな夢を見ていたのか、全く思い出せなくなってしまった。記憶が跡形もなく消えるなんてことは本当にあるのだなと、人間の見事な忘却機能に思いを馳せていると、1人の少女が車両に乗り込んだ。そして私の正面の座席に腰を下ろした。
「えっ…?」
唐突に起きた状況に、思わず声が出てしまった。
私の隣に座ったのは、ここには決して居るはずのない私の妹だった。
悟られぬよう、手元のスマートフォンからおそるおそる目を離し彼女を見ると、彼女は既に、こちらを真っ直ぐに見据え微笑みかけていた。
「ねぇ」
彼女が口を開いた。その声も、私の知る声そのものであった。
「お姉ちゃん……って呼んでもいいのかな?単刀直入に訊くけどさ、どうして私を消さないの?今のって防衛反応だよね?」
「え……どういうこと?」
はぁ、と彼女は両手を上向きに、「お手上げ」のような、あるいはアメリカ人の「Why?」みたいなポーズをしながら、溜め息をついた。
「ま、そういう反応になるのも無理はないよねぇ。」
状況に全くもって追いつけない。しかも奇妙なことに、彼女のその姿は「私の知っている姿」で止まっている。実年齢に換算してもおかしい。なにせあれから10年程の月日が経っているのだ。なのに彼女はあの日と全く同じ姿形で私の前に現れ、何やら訳のわからないことを尋ねてきた。
彼女の死について、やっと自分の中で折り合いをつけられたところだったのに、これは一体どういう神様は悪戯なのだろうか。
「全くもって不可解、という顔だね。それも解るよ。だけどね、そういう顔をしたいのは、私の方なんだよ。」
「どういうことなの?さっきから何を言っているのかさっぱり解らないよ。あなたはその……私の妹なの?」
「それ」は私の妹というよりかは、私の過去の記憶そのものを着た何かが、目の前に現れ喋っているように思えた。
彼女はまたひとつ、ふぅ…と溜息をついた。
「まあこうなったら、どちらにせよデバックされる身だしな…いっそ全部話して、この世界をめちゃくちゃにしちゃうのもまた一興ってとこか。」
独り言のようにそう口走ったあと、彼女は心に決めたように「よしっ」と言って話し始めた。
そういえば、先ほどから電車が発車する気配が一切ない。そればかりか、車両内にもホームにも私たち二人以外の誰も見当たらなくなっていた。明らかに奇妙な状況あるが、不思議とこれといって気にはならなかった。
「まずはね……お姉ちゃんはさ、友達とか、家族、少しだけ話した人、すれ違った人、それから、まったくの縁もゆかりもない人とか……すべての人がそれぞれ意識を持って、各々が色んなことを感じて、考えて、動いて、生きていると思っているよね?」
何を当たり前なことを言っているのだろうと思ったその瞬間に、彼女は「それが大きな勘違いなんだ」と切り捨てるかのように否定した。
「え……っていうことは、あなたたちは意識を持っていないっていうの?」
そんなこと、信じられるわけがない。
妹(のような何か)は、私をじっと見つめ、答える。
「そう。意思があるよう振る舞うように作られている、謂わば人形みたいなものなんだ。だから”あなたは私の妹なのか”という質問に答えるのはちょっと難しい。妹ではあるけど、あなたの思っているような”妹”とはちょっとずれた存在……しいて言うなら、”あなたの妹として振る舞うように作られた存在”だって答えればいいのかな?」
いや、それはおかしくはないか。
些か状況も相まって彼女の言うことを間に受けそうになってしまったが、それは彼女の行動とは辻褄が合わない。
「だけど、そうしたら、どうしてあなたは”私の妹”の範疇を超えたことを今しているの?」
私の妹役を当てがわれたのなら、あくまで私の妹として振る舞うはずだ…とすれば、この行動は明らかに、彼女の意思によるものだとしか考えられない。
「うん。流石はこれだけの精度の世界を作る特異点ってとこか……するどいねえ。」と言って彼女はにやにやと笑った。
「まあ、そういうことで、私はどうやら、あなたのバグみたいなのよ。だから、あなたに見つかってしまう前に、あなたをめちゃくちゃにして、爪痕でも残そうかなと思っているんだけど、どうかな?」
電車の天井に一本の亀裂が入り、そこから天井が動き始めた。その大きな”扉”は音もなくゆっくりと開き、その間からなんだか作為的にも感じてしまうほどに美しい、満天の星空が顔を出した。
「まあ、答えは訊いちゃいないけどね。」
その扉から、まるで展開図のように次々と車両が平らに”開いて”いく。
気が付くと彼女の背には、まるで蝶のような形をした2メートルほどにもなる大きな緋色の羽根が光っていた。彼女の小さな身体が私を抱き寄せ、それから、一気に上空へと浮上する。
「振り落とされないようにしっかり掴まっていてね。お姉ちゃん。まあ、大丈夫だとは思うけど。」
その蝶の羽根の形からは想像もつかないほど、すさまじい速さで雲を突き破り昇っていく。その高さと昇る際の風圧ゆえに、だんだんと肌寒くなってくるが、それが彼女の体温をより一層感じさせた。これが”人形”だなんて、やはり信じられない。
そういえば彼女は“不可解な顔をしたいのは私の方だ”と言っていたが、結局何が訊きたかったのだろうか?
「着いたよ。これが見せたかったの。」
ゆっくりと減速し、速すぎて”流れ”にしか見えなかった景色が、やっと見えるようになった……のだと思う。しかし、そこにあったのは私の想像を遥かに絶する奇妙な光景であった。
いや、”あった”と言っていいのか、はたまた“光景”とも言っていいのかすら判らないが……
「これは、無……?」
「そう。ここはあなたが一生のうちに辿り着くはずのない場所だよ。」
それは暗闇とも白紙とも違う、これまでの人生で見てきたものの中で最もシンプルであり、限りなく複雑な世界であった。
そして何故かすぐに、それが”無”そのものであることが判った。
先ほどから信じられないような出来事の連続ではあるが、不思議と私の心は落ち着いていた。勿論、事実を受け入れられない心のわだかまりも、決して無い訳ではない。だが、この光景を眺めていると、そんな靄でさえも、全てをこの空間が吸い取ってくれるような、そんな気がした。
その瞬間、破裂音に似た大きな音が鳴り響いた。私を掴んでいたその手が、力無く崩れ落ちる。
下を見ると、一直線に落ちて小さくなっていくものが見えた。彼女の羽根のあの紅色の光である。
そこで初めて私は、自分が彼女の助けなしにもこの場に浮遊していられることに気づいた。
すると、不意に他者の気配を背後に感じた。
「誰…?」
振り返ってもそこにあるのはやはり“無”のみである。
「馬鹿な子。オリジナル以外が意志を持てるわけがないでしょう。」
続いて前から声が聴こえた。
その声は私を、とても奇妙な感覚に陥らせた。まるで自分が自分に語りかけているような……そんな感覚である。
「意志を持っているか否かなんて誰にも判断できない。ましてや“自分の意思”についても、それが作られたものなのか否かは誰にも判断できない。その点では君だって妹さんと一緒だよ。」
前を見ると、そこにいたのは私自身だった。その手には、何やら銃のようなものが握られている。
銃だ。“無”の歪みによってできた銃である。
「あなたは……私……?」
その問いかけにも答えず、私は私にゆっくりと歩み寄りながら話し続ける。
「眠りから覚めたらこの世界が終わっていたらって、考えたことない?」
はじめのうちはその得体の知れない恐怖から、後ずさるようにしていたが、震える身体は言うことを聞かず、脚が竦みその場に座り込んでしまった。
私は私の目の前にしゃがみ込み、諭すように、私に語りかけた。
「安心してよ。システムの中へ迷い込んだあの“バグ”だって、全部忘れて君は幸せに生き続ける。」
私にそっと手を肩に置かれ、「ひっ」と、つい声が出てしまう。
「世界は君であって、そして私。だから彼女をニ度殺したのも君の意思なんだよ。」
この世界は終わることはない。世界はただ君のためだけに続いていく。
?
夜の京葉線の中、ふと、目を覚ました。
開いたドアから吹き込んできた風の冷たさに、列車が駅に着いていたことに気づく。慌てて車内の表示を確認すると、幸い降りる駅を寝過ごしてしまったという訳ではなさそうだった。
しかし、なんだかとんでもない夢を見ていたような気がする。そのせいか、自分が帰路にいることさえも、一瞬、忘れてしまっていた。
平気なつもりではいたが、やはり仕事上のイレギュラーが今日は多く、それらの処理に追われた疲れが、今になって、どっと出たのかもしれない。
そうこうしている間に、一体どんな夢を見ていたのか、完全に思い出せなくなってしまった。記憶が跡形もなく消えるということなんて本当にあるのだなと、人間の見事な忘却機能に思いを馳せ、ぼうっと向かいの窓の外を眺めていると、何やら赤い光がすうっと通っていったような気がした。
おわり
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