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Vol.1 教育とは何か・どのような教育が「よい教育か」

教育に興味がある慶應SFC生5人が、様々なテーマについて議論して、その内容をもとにnoteをつくっていきます!このnoteは第1回目です!

記念すべき、第1回目は「教育とは何か・どのような教育が『よい教育』か」について書いていきたいと思います。

1.教育とは何か

まず結論から申し上げますと、まずそもそも「教育とは何か」ということについて、私たちが導き出した考えは、
教育とは「人にそうなってほしいと、意図をもって働きかけること」です。

この考えに至るまでに、「教育」と「学習」の違いについて深く話し合いました。私たちは当初、教育とは「人と人との関係の中で自然発生的に生じるもの」であると考えていました。例えば、親が子育てをしていると、子供から多くのことを学ぶことがあります。果たして、それは「教育」とは言えるのでしょうか?私たちは結論として、それは「学習」であると考えました。このケースの場合、子供が親に対して、教育を施そうという「意図」はなく、親が子供に刺激を受けて学習が行われたと考えられると思います。このように、学習というものは生活の中で広範囲にわたって発生します。人は生まれた瞬間から母語の習得を始めることからも分かるように、生涯を通じて学習し続ける生き物です。

反対に、私たちが「教育」というとき、それはどのようなときなのでしょうか。学校教育は簡単です。教師は、生徒に学力をつけてほしいと思って、授業をします。また生徒指導の際も、生徒にこうなってほしいという「思い」があると思います。逆にこうなってほしいという思いがない八つ当たりや鬱憤ばらしの生徒指導は、教育とは言えないでしょう。いや、指導とも言えないですよね。このように学校教育は、子供たちにこうなってほしいという「意図」をもって、授業をしたり指導したりしているのです。

家庭でも同様です。家庭での教育を指すとき、それは親が子どもにこうなってほしいという「思い」を持って、環境をつくったり接したりするときでしょう。社員教育も同様です。社員にこうなってほしいという「意図」をもってなんらかの働きかけをするとき、それは教育と呼べるものになるのだと思います。

このように「人にそうなってほしいと意図をもって働きかけること」といった行為・行動を教育と呼べるものにしているのだと思います。「意図」というワードが鍵となると考えました。

しかし教育を行ったとしても、学習者が本当に学習をしているかどうかは分かりません。習得した知識が、自分のものになるのか、それともすぐに忘却してしまうものになるのか、といった違いもあると考えます。以下のようなイメージで「教育」と「学習」について考えました。この点に関しては、今後も深く探究していきたいと思っています。

加えて、私たちの生活を取り巻く環境の一部として「教育環境」が存在しているとも考えました。例えば、学校、教室、授業、教材、また先生や友達などは、「教育環境」として、生徒の学習に大きな影響を及ぼします。良質な環境づくりが、より良い教育へ繋がっていくと考えました。


2.どのような教育がよい教育か

つづいて、「どのような教育がよい教育か」ということについて考えたことを述べたいと思います。この議論には、苫野一徳さんの著書「教育の力」(講談社,2014)を使用させて頂きました。

まず、狩猟・採集時代において、収穫した蓄財を奪い合うという争いが各地で起こっていました。なぜ人間はこのような争いをやめることができないのか、苫野さんはこう考えます。

「なぜ人間は戦争をやめることができないのか?それは、私たち人間が<自由>になりたいという欲望を持っているからだ!」(苫野一徳,『教育の力』,2014,p16.)

そこで、人々の自由を保障するために、が制定されました。これにより平等に人々に自由が保障されるようになりました。それに加えて、自由を実現するために、人々はが必要となりました。

「最も重要な最初のステップは、『法』を設定することです。法によって、すべての市民が平等に<自由>な存在であることを、まずは理念的に保障するのです。しかしそれだけでは十分ではありません。どれだけ法ですべての市民が<自由>である保障をされたとしても、個々人が実際に<自由>になるための『力』を得ることができなければ、法の存在も有名無実にすぎないからです。公教育はここに存在するのです。」(苫野一徳,『教育の力』,2014,p.23)

このように、人々が自由になるための力を得るために、教育というものが誕生しました。具体的には、私たちが行っている文字の読み書きや簡単な計算などを行うスキルを身につけることによって、やりたいことができるようになり、より自由度が増すといったイメージです。

それに加えて、苫野さんはこうおっしゃります。

「<自由>に生きるためには、他者の<自由>もまた認めることができなければなりません。したがって公教育は、子供たちの裡に、この<自由の相互承認>の感度もまた、重要な<教養=力能>として育んでいく必要があるのです。」(苫野一徳,『教育の力』,2014,p.25)

つまり、自分が自由に生きるためには、他者も同じ気持ちを持っているということを理解しなければならないということです。これは言い換えると、他者の多様性を認めることができること=他者と上手くやっていく能力と言えると考えます。

以上のことから教育の目的は、「各人の自由の実現」と「社会における自由の相互承認の原理の実質化」と言えるでしょう。これらの目的を満たすことのできている教育は、必然的に「よい教育」と位置づけられると考えました。

以上が教育とはどのようなものかについて私たちが話し合ったことです。以下の図はこれまでの議論を図式化したものです。教育についての多様な側面を感じていただけたら幸いです。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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