見出し画像

そして、中村憲剛はフロンターレの伝説となった。

今日の試合後憲剛自身が似たようなことを言っていたように、Jリーグ全体を見渡しても彼以上に幸せな終わり方をした選手はいないかもしれない。

川崎フロンターレ一筋18年間のプロサッカー人生で、最後の年にはJリーグ優勝、最後の試合では国内3大タイトルのうち唯一獲れていなかった天皇杯のタイトルを獲得できたのだから。

バンディエラ。ワンクラブマン。フランチャイズ・プレイヤー。
1つのクラブに貢献し続けた選手を称える称号は色々ある。
けれどそのどれでさえ、彼を称える言葉としては不足している。

中村憲剛。

彼のプレーが好きで記事を書くことにしたのだが、フロンターレでの出来事や印象深いプレーについては川崎フロンターレのサポーターの方々のほうがよほど詳しいことだろう。
また、プロのライターの方が幾度となく記事にもしている。

したがって、今回は中村憲剛という人間についてスポットライトを当てるべく、主に幼少期からプロ入りするまで、そしてプレー以外の部分を中心に描くこととした。

フロンターレのサポーター以外の方であっても、中村憲剛はいかにしてあれほどの選手になれたのかについて知ってもらえたらと思う。

サッカーを始めた小学生の頃

画像1

幼稚園の頃の友達がサッカー教室に通い始め、一緒に行くようになったことで憲剛は小学1年生でサッカーを始める。
そこは府中市の府ロクサッカークラブというチームで、元なでしこジャパンの澤穂希さん等もプレーしていた強豪クラブだ。

その当時から、上手くなるために重要な要素である「負けず嫌い」っぷりはかなりのものだった。試合に負け、悔しくて泣いたことも何度もあったそうだ。

身長は小さいながらも、憲剛は着実に実力を付けていく。5年生時には6年生に混じって試合に出場し、全日本少年サッカー大会でベスト16に進出。

6年生時には東京都少年選抜サッカー大会で大会優秀選手10名(他に高橋泰、飯尾和也など)の中や、今で言うナショナルトレセンのようなものにも選出された。

苦しんだ結果、転機となった中学生の頃

中学生になった憲剛は、部活ではなく府中に新しくできたクラブチームに所属する。しかし新規チームのためにレベルは高くなく、また体格で劣る憲剛自身も小学生の頃のようにドリブルで突破することも出来なくなっていた。

小学生の頃には全国大会に出るほどだった選手だ。チームのレベルにも自分のプレーにも納得できず、ギャップに苦しんでしまう。その結果、半年ぐらいでチームを辞め、約半年ほぼサッカーから離れた生活を送る。

勿体無い時間のように感じられるが、結果として憲剛にとってこの期間は必要なものだったように思う。

サッカーから離れたことでむしろ、自分にはサッカーしかないと分かった憲剛は、2年生になって再びサッカーを始めた。

抱いていたギャップも、自分はそれくらいの選手でしかないと思えたことでいつしかなくなっていた。
客観的に自分を見つめることができるようになったことで、プレースタイルにも変化が生まれる。


それまではすばしっこかったために自分はドリブラーという意識が強かったが、体格で勝る上級生にどうやって勝つかということを考えパスで勝負するようになっていく。

画像2

プロとの距離を感じていた高校時代

中学卒業後、東京都立久留米高校に進学しサッカー部に入部する。入学当初、部員は1年生だけで60人ほど、全学年で100人以上もいた。ところがとにかく走らされ、キツさでどんどん減少。

そんな中で憲剛は、とにかくサッカーがやりたくて仕方がなかったため、いくらきつくても辞めるつもりはなかった。

また勉強も嫌いではなく、授業中寝ることもなくノートは必ずとっていた。そこにも憲剛の性格が表れている。やれることをやらないのが嫌いで、同じミスをするのが嫌い。その性格はサッカーでの向上にも繋がっている。

3年時には都大会でベスト4まで進出するも、強豪・帝京高校に敗れ全国大会への出場はならず。それでも、ベスト4まで進んだことが次の舞台へと繋がる。

プロになれるレベルに達していないことは憲剛自身がよく分かっていたが、サッカーは続けたく大学に進学を決意。調べてみると、中央大学のスポーツ推薦の基準が「都大会でベスト4以上」だと分かり、受験。見事に合格して中央大学へと進学する。

ついに、努力が実る大学時代

中央大学のサッカー部は当時、スポーツ推薦の枠でしか採っておらず、部員は各学年15人ほど。全学年でも50人程度しかいなかった。

しかしその内訳は、サッカーで有名な高校出身や高校でエース格だった人達ばかり。
当時の憲剛のレベルからするとかなり厳しい環境だった。しかしその現実を受け入れ、まだまだ自分は上手くなれると信じて練習を積んでいく。何より、やはりサッカーが好きだから辞めるという選択肢はなかった。

3年時、憲剛はすでにレギュラーになっていたが、チームは52年間維持してきた関東大学リーグ1部で最下位になり2部へと降格してしまう。

何としても1部に上がらなければならないというプレッシャーのなか、4年生になった憲剛は主将に就任。
見事に2部で優勝し、1部復帰に導いた。

その中でついに具体的にプロを意識するようになる。Jリーグのクラブの練習に参加してみたいと思った憲剛。コーチの知り合いがフロンターレにいることを知り、お願いすると参加できることに。

この練習参加が、憲剛にとっての就職活動だった。


しかし参加後、3ヶ月ほども合否の連絡がない。一般人であれば他の企業の面接を受けても、つまりは他のクラブでの練習参加を希望してもおかしくない状況だが、フロンターレの雰囲気が好きだった憲剛はひたすらに連絡を待っていた。

画像5

結果は、合格。そして2003年、川崎フロンターレへと入団した。

プロ入り後の活躍

そこからの活躍は皆様がよく知っているように、本当に素晴らしいの一言に尽きる。
フロンターレがJ1に昇格し強豪になるドラマのほぼ全てに、中村憲剛がメインキャストとして出演してきたのだから。

成績をかいつまんで書き記すと(それでも長くなるが)、1年目からレギュラーの座を掴み、2年目にJ1昇格。

2006年にはJ1で2位となり、日本代表に初招集。クラブ史上初のJリーグベストイレブンにも谷口博之と共に選出された。
翌年にはナビスコ杯で準優勝。日本代表にも継続して招集され、アジアカップにも参戦。

2008年にはリーグ2位、次の年にもリーグ2位、ナビスコ杯準優勝。

2010年は南アフリカW杯のメンバーに招集され、パラグアイ戦に出場している。

ここからしばらくは中位に甘んじることになるが、風間体制5年目の2016年にリーグで年間2位となり、初のJリーグチャンピオンシップ出場を果たす。天皇杯でも決勝戦に進出(準優勝)。
この戦績と9ゴール11アシストという数字が評価され、憲剛はついにJリーグ年間最優秀選手賞を史上最年長となる36歳で受賞した。


さらに2017年にも、ナビスコ杯から名前の変わったルヴァン杯で準優勝。

素晴らしい経歴だが、そんな憲剛にもどうしても手が届かないものがあった。それは、タイトル。2位や準優勝になること、実に8回。フロンターレはシルバーコレクターとも揶揄され、あと一歩での悔しい結果が続いた。

どこかで方向性を変え、勝つことを最優先にしていればもしかするともう少し早くタイトルを獲得できていたかもしれない。それでも憲剛とフロンターレは、内容を大切にしながら優勝するという二兎をブレることなく追い続けた。

それがついに報われたのは、2017年のリーグ戦。最終節に勝利してそれまで首位だった鹿島を得失点差で上回り、クラブ創設21年目にしてついに初タイトルに輝いたのである。
優勝が決まった瞬間、憲剛はピッチにうずくまって人目もはばからずに泣いた。その涙にはフロンターレと共に歩んできた長年の想いが籠もっており、本当に美しいものであった。

これでプレッシャーから解放されたフロンターレは2018年にもリーグ優勝し、2連覇。
翌年もルヴァン杯で優勝。前身のナビスコ杯を含め5度目の決勝進出でついに掴んだ栄冠だった。

これらの過程で憲剛は2005〜2018年まで毎年Jリーグ優秀選手賞を受賞し、そのうち8回はベストイレブンにも名を連ねてみせた。
そのことが示すように何歳になっても安定したプレーを披露していたのだが、2019年の11月2日、39歳となった直後の広島戦で左膝の前十字靭帯の損傷という大怪我を負ってしまう。

怪我に対して下した決断

画像3

年齢を考えると、選手によっては引退を決意してもおかしくないほどの大怪我だった。しかし憲剛は復帰を目指してリハビリに励むことを決意。

過酷なリハビリを乗り越えて2020年第13節の清水戦でメンバー入りすると、その試合で早速得点を決めて復活を結果で示す。


その後も出場を重ね、10月31日、40歳の誕生日に行われた多摩川クラシコでは、バースデーゴールを決めてチームを勝利に導いた。

必死の想いで復活を果たした中村憲剛の、フロンターレでの物語はまだまだ続くと思われた。
しかしその翌日。会見を開いた中村憲剛は、2020シーズン限りで引退することを表明したのである。

そこには、35歳になった時点で40歳で引退をすると決めていたこと、そして戦力になれているまま引退したいという思いがあった。

それでも、2020シーズンが2020年内では終わらない所がフロンターレの強さを表している。

最後の舞台は2021年、1月1日。今日行われた天皇杯決勝。フロンターレはこの試合に内容で圧倒しての1-0で勝利。

ベンチ入りしていた憲剛に出場機会は訪れなかったが、チームメイトが引退への花道を飾ってくれた。最後の試合で国内3大タイトルの最後の1つを獲得するという、本当に素晴らしいプロサッカー人生だった。

中村憲剛という人間

なぜ中村憲剛は、日本代表やJリーグでMVPを獲得する選手にまでなれたのだろうか。
経歴を見ると、小学生の頃に全国大会には出場したが、その後は大学で主将として2部優勝するまでプロ入りする選手としては目立つような成績は収めていない。

エリートではなかった男が日本でも有数の選手になった。
夢物語のようだが、根底にあるのは特別なことではない。子供の頃からずっと変わらない姿勢だ。

キーワードは、「サッカーが好き」ということと、「考える」こと。

画像4

ボールを蹴るのが好きで、サッカーが誰よりも好きで、しかし子供の頃周りの子より身長が小さかった憲剛は、大きい相手に勝つためにひたすらに考える必要があった。

そして好きなことだから今日よりも明日のほうが上手くなるために練習をし試合をし、自分を分析して、コンディションを整える。
そうやって、常に考え方とやり方を突き詰めてきた。
それを、子供の頃から地道に続けてきたのである。

その中では、大学入学時やフロンターレへの入学時のように、最初は自分と周りとの実力差に愕然としたこともある。

それでも、自分に出来ることと出来ないこと、試合に出るためにどうしたらいいかを考えながら練習することで、次第に出場できるようになった。

次はチームの中心になるために、その次にはチームが勝つためには、と1つずつ先のことを考える。
それを繰り返すことで、自然と立ち位置が変わっていったのである。

そしてもう1つ。自分を諦めないこと。憲剛はプロになるのは難しいかなと思ったことはあっても、なれないと思ったことはない。諦めたらもう、伸びしろはなくなってしまう。

改めてになるが、大好きなサッカーがより上手くなるために常に考え、どんな状況でも諦めずに目の前の目標を1つずつクリアしていく。

子供の頃からずっと、プロになっても変わらず続けてきた。
そこに、中村憲剛の凄さがある。

そして、今日ピッチ上に憲剛がいなくても内容を求めつつ天皇杯を制したように、中村憲剛のDNAは間違いなく川崎フロンターレというクラブへと受け継がれている。きっと、これからもずっと受け継がれる。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?