【随想】「消費者市民社会」ってなんだ!?#4−「市民社会」と「市民としての資格」は同じか?(4/5)
先月指摘したように、わが国で「消費者市民社会」ということばが使われだしたのは、消費者庁の設置など消費者行政のあり方に注目が集まっていた『国民生活白書(平成20年版)』においてであった。欧米発の新しい考え方としてここで紹介されたのが最初である。欧米発の概念だから、当然、英語等からの翻訳である。
ここに一つの興味深い事実がある。
それは、「消費者市民社会」ということばの元をたどってみると、英語では「コンシューマー・シティズンシップ(consumer citizenship)」となっていることである。「消費者市民社会」といえば、「コンシューマー・シビル・ソサイエティ(consumer civil society)」などが当てられそうなものだが、そうはなっていない。「シティズンシップ(citizenship)」とは、市民としての資格とかその性質といった社会を前提にしながらも個人に資質に還元されるものであって、「社会」それ自体とはまったく異なる代物である。
では、なぜあえて「シティズンシップ」を「ソサイエティ」と訳したのだろうか?推測の域を免れないが、わたしは日本人における(「市民性」よりも)「社会」ということばに対する馴染みやすさ、親しみやすさ、そして受け入れやすさにあるのではないかと考えている。日本人にとって、社会や政治的な共同体としての国家は所与であり、国際化によってずいぶんその様相は変わってきたものの、いまだ移民を受け入れず、「市民としての資格」ないし「市民性」というものを問われることがきわめて少ない。生まれた時からその中で存在していることが前提となっている。市民であることを問われることよりも、すでにある社会。日本人にとって、圧倒的にこちらの方が受け入れやすい。
ただ、それを「市民社会」という思想史的にかなり重量級の概念を文脈を考えずに無前提に持ちだしてしまったところに問題を複雑にしたところがある。
日本人にとって、馴染みのない考え方だからこそ、それを翻訳するときには細心の注意を払わなければならず、明治以来先人たちが頭を悩ましてきた翻訳の難しさがある(2015年7月5日記)。
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