【読書雑記】会田誠『カリコリせんとや生まれけむ』(幻冬舎、2012年)、同『美しすぎる少女の乳房はなぜ大理石でできていないのか』(同)

 現代美術(コンテンポラリー・アート)は嫌いではない。いや、最近わざわざ出かけるのはむしろこっちの方が多いかもしれない。
 先日、やっとのことで森美術館で開催中の「会田誠展−天才でごめんなさい」を見にいくことができた。なかなか時間が取れなかった上に、しかもこの展覧会、一部作品を展示するギャラリーは18歳未満が入場できない。したがって、家族や子連れではちょっと出かけにくい。結局、年始のちょっとした時間に足を運ぶことになってしまった。
 たまに眺める『美術手帖』誌が、年末、会田誠の特集をしており、そのエッセイが面白かったので、同氏のエッセイ集2冊を買い込み、正月の間読んでいた。2010年に刊行されこのほど文庫化された『カリコリ〜』と、この展覧会に併せて刊行された『美しすぎる〜』。いずれも、基本的に幻冬舎のPR誌『星星峡』に連載されていたエッセイをまとめたものである。よしもとばななも絶賛する文章のうまさと、鋭い批評性に引き込まれ、その延長線上で彼の作品にも興味をもった。
 エロ・グロ、悪趣味など、会田誠作品は、現代美術にありがちなあらゆる毀誉褒貶が常につきまとう。だが、「芸術とは触媒」と彼が述べるように、作品が先鋭的で、その題材や表現手法がショッキングであればあるほど、社会は快感、いや彼の場合多くは不快感をもってこれに応ずることになる。そして、この反応こそが、いまの社会の有り様を示しているのである。時代が芸術を生み出すのではなく、芸術が時代を問う。会田作品を見ていると、彼のメッセージを受け取るというのどかな気分よりも、同時代に生きる彼の切羽詰まった感情の匕首がわれわれに突き立てられているようで緊張する。
 とはいいながら、エッセイは、ある意味不真面目でとてもユルい。ときおり見せる批評性の鋭さは、読者が後になって気づくような天然ぶり。この手の人にありがちなモノゴトへの執着ぶりは異常といってもよく、殊にファンであったらしい大場久美子の先進性についてを語る部分は出色である。
 わたしは、会田誠の大場久美子に対する思い入れについて書かれたこの部分を読んだとき、万城目学が『鴨川ホルモー』で鉤鼻の女性の麗しさについて数頁(?)にわたり述べていたことを思い出した(2013年1月7日記)。

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