【随想】ガイドライン行政への違和感#5−ガイドラインに見る性格の変化(5/5)

 ガイドライン行政の定着にともない、ガイドラインの性格が変化したということを縷々述べてきた。象徴的にいえば、行政庁が法令を適用する際の解釈の方向性や一定の判断をする際の考慮要素やロジックを説明する「指針」ないし「考え方」から「違法性判断基準」ないし「マニュアル」としてのガイドラインへの変容。
 こうした変化には、いくつかの理由が考えられる。まず、ガイドラインの内容それ自体を司法の場で争われる機会がほとんどないということである。つまり、司法のチェックが働きにくい。通常は、ガイドラインにもとづく具体的な法の適用をまってガイドラインの内容についての等不当を争う訴訟が提起されることになる。訴訟へのハードルが非常に高い。企業は、ガイドラインの策定段階では数多くの意見を述べる割に、いったん「ルール」として定まると口をつぐむ。司法のチェックが働かず、多くの法令の解釈・適用の議論が行政止まりとなっていることが、ガイドラインの「法律」化に助長している。また、こうした傾向が、経済状況の変化にもかかわらず、ガイドラインの見直しにつながらない、ガイドライン行政の硬直性を生み出す土壌にもなっている。
 近年の規制立法においては、事業者に対する一定の措置を義務づけるものが増えている。具体的には、単なる禁止規定にもとづく義務ではなく、企業自ら自主的に法令を遵守するための仕組みをつくり、ハードな法の適用をせず、各企業のコンプライアンスの一環として法令遵守を行わせようというものである。この措置を各企業のとらせる場合のマニュアルとしてガイドラインが多用される。企業が事業を行う分野はそれぞれであり、当然、企業ごと事情も異なり、その企業に求められる社会的な役割も異なる。法令遵守という一点をみれば、汎用性の高いマニュアルもできそうだが、コンプライアンスは単なる法令遵守を意味するものではない。社会との「折り合い」を図るものであり、企業ごとそれぞれ対応は千差万別であるはずのものである。行政がお仕着せのマニュアルをガイドラインとしてつくることが、企業の法の担い手としての自覚を奪うものにならないだろうか(2017年11月7日記)。

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