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お花を選ぶということ

 先日,“いつものお花屋さん”で花束を購入した.友人の卒業式で渡すものである.並んでいる花を見渡し,チューリップとかすみ草を指差して,『ラッピングは透明のフィルムだけで,リボンはお花と同じ色のものをお願いします』と店員に声をかけた.彼女は少しだけ眉をひそめて,(ここまで厳密な注文をする客はあまり居ないのか?),私のオーダーを承諾した.お会計を済ませて,花束を受け取り,自宅に帰った.母は私の花束を覗き込んで,素敵とだけ言ってまた家事に戻る.

 友人に手紙を添えた花束を渡し,私は代わりに彼女の笑顔を受け取る.一緒に写真を撮ったあと,袴を着た友人の後ろ姿を眺めて,少し寂しくなった.今日は人生の節目であるんだと.きっと花が枯れる頃には,彼女の新生活が始まる.

 思えば,物心ついたころから,“いつものお花屋さん”で花を選んできた.母の日が近づけば,祖母に送るお花を買う母について行ったし,友人の誕生日や先輩のお祝い事に贈る花を,私は“いつものお花屋さん”に選びに行った.良い事があった日には,帰り道にそこに寄り,自分のための花を買った.私は特に詳しい訳でもないのに,そんな事は隠して,花を選ぶ.自身のセンスに間違いはないと思っているから.

 1度友人と,互いに花と本を選び,交換した事がある.“いつものお花屋さん”はなぜか休みで,違うお店で花を選んだ.花屋に入る時の匂い,陳列された花々で心が踊るのはなぜなのか.女の子はみんなそうである気がして,でもきっとそうではない.誰かが,別にお花もらってそこまで喜べないと言っていたような.花が好きな自分が好きなだけなのか.
 私はくすんだピンクのバラを1輪選んだ.それだけで私には大層な娯楽の様に思えたし,きっと彼女も同じである.彼女はくすんだ黄色のバラを私にくれた.

 私が小さい頃父は,母に花束を贈る時には必ず2つを用意していた.私と弟にそれらを渡し,私たちが母に渡す.母はありがとうと言って花瓶にさし,それは数日の間,リビングを明るくする.父はきっと,私の様にオーダーの詳細には拘っていなかったと思う.でも私はそうする.選ぶ工程の段階で,それを楽しいと捉えているから.前向きな選択は楽しいのかも.

 結局のところ,花に癒されるのは勿論のこととして,花屋に行くこと,選ぶことで自身の高揚感を獲得できる.落ち込んだ時には“いつものお花屋さん”に寄って,多少怪訝そうな顔をされても納得のいく選択をして,左手に持つ花を見て笑みをこぼしつつ帰路に着けば良い.(これから火曜日には,落ち込む事がありませんように.定休日って一体?)


 それはそうと,花によってこんなにも心を浄化する事ができるのに,どうして花粉症になる事を拒む選択はできないのだろう?本当に痒い,いろんなところが.


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