「好きな相手が同性だっただけ」という違和感
こんなツイートがバズっているのを見た。
ツイ消しされる可能性もあるので論旨をまとめておくと、同性の恋人がいる人物が同性の友人宅に泊まることについて、「同性が好きというわけではなくパートナーが好きだから付き合っている(ので同性と宿泊するのは問題ない)」と語り、それを聞いた発信者が内容を絶賛するというものである。
数多くの賛同や称賛が寄せられており反応の多数は好意的なものだったが、批判も寄せられていた(SNSの性である)。
たしかに一見すればハッピーなストーリーのようにみえるが、その批判の中には共感できるものがあり同性愛者である私自身もこの投稿には疑問を持ったため、今日はこの投稿をめぐる違和感を主に2つの観点から検討したい。
まず、本投稿のはらむ2つの違和感について明らかにしておく。
1点目は「異性愛者が異性の友人に対して同様のことを言ったとしても賛同や称賛は寄せられるのか?」という点である。
この点は引用リツイートやリプライでも多く言及されていた。
一般的に異性愛者が婚姻や交際の関係下にない異性と宿泊することは大手を振って歓迎されることではないといえるだろう。場合によっては異性の家に行くというすらタブー視される。
それは「性的対象である他者との宿泊(あるいは2人きりになるということとまで言い換えられるかもしれない)はなんらかの性行為を伴うものである」、「性行為を行う相手は一対一のパートナーシップを結んだ者でなければならない」という規範意識がないまぜになったものから帰結すると考えられ、それ自体も大いに検討の余地があるが、今回はここまでにしておく。(この規範へのカウンターとして、近年は「セフレ」や「ソフレ」という言葉が一般化してきたことは大変興味深い)
2点目は「同性に性的指向は向かないが、現パートナー(同性)だけは恋愛対象である」という違和感である。「好きになった相手が同性だっただけ問題」とでも言い換えておこう。
この点について検討する前に強調しておきたいのはこれを主張することで第三者のセクシュアリティを否定するつもりはないということである。
他者のSOGIEがどうであろうが誰かにそれを否定する権利はまったく存在しない。
そのことを踏まえた上で「好きになった相手が同性だっただけ問題」について私が疑問に思うのは、「なぜ同性を性的対象とすることを自己のアイデンティティとして受け容れられないのか?」ということである。
異性との交際経験のある同性愛者やその逆もまたごまんといるだろうし、生涯を通じて一貫した性的指向を持っている必要性があるとは思わない。
あるときは異性愛者であり、あるときは同性愛者であり、あるときはパンセクシュアルであり、あるときはアロマンティックである…etc…それが無理のない在り方であると思う。
しかし、ここで浮き彫りになるのは「好きになった相手が同性だっただけ問題」がもつ「私は同性愛者ではないですが~」という透明な前置きである。
「好きになった相手が同性だっただけ」と主張するとき、その言外にあるのは「今のパートナー(同性)が好きだけど、自分は同性愛者ではないし同性だけに性的指向が向くというわけでもない」という守りだと思う。
この主張によって得られるのは、「この人は特例として同性を好きになっただけであり普段は異性を愛するノーマルな人である」という担保、お守りだろう。
このお守りの持つご利益は「一時的に同性を好きになった人」を「同性愛者」という肩書、レッテルから守ってくれるということである。
では、なぜこのお守りは必要とされるのだろうか。
「好きになった相手が同性だっただけ」と主張するとき、本人やその周囲がご利益に意識的であるかどうかは分からないが、無意識的にであってもお守りを必要とするのは、「同性愛者としてのアイデンティティが受け容れ難いものであるから」だろう。
もう一度、本ツイートをみてみよう。
本来ならば「女の子が好きってわけ」でもいいし、「彼女だけが恋愛対象」である必要もない(別の女性と付き合うかどうかとか複数のパートナーシップを結ぶかとかとはまた別として)。
しかし、この親友は自然に、本当に自然にお守りをかざし、投稿者もそれを尊んでいる。16.1万人のいいね(2022年9月28日現在)がそれを支えている。
ここに出てくる登場人物は誰も悪くないのだろう。
親友とそのパートナーの愛にどうこういう権利もない。
しかし、もしこの前置きがいらない世界だったら。
「彼女が大好きだから付き合っているんだよね(だから宿泊にも問題はないよ)」で済む世界だったらどんなに良いのだろうかと、お守りを捨てようとしている同性愛者は思うのである。
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