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山手の家【第48話】

夕方の子供向けの番組を見ずに、真珠はリビングで寝てしまった。
まさか、また体調不良だろうかと熱を測っても36.7度しかない。
(このまま様子を見るしかないのかしら)
玄関から、金属がこすれ合うような甲高い音がした。
廊下に出てみると、真が今にも崩れそうな足取りで「ただいま」と、リビングに向かってきた。
「早かったね」
真は何も言わず、ただ小さく頷くだけだった。
仕事の疲れもあるのかもしれないが、だいぶ体がしんどそうだ。
荷物を置いて、手洗いとうがいを済ませた真は、いつもの席に座ると背もたれにぐにゃりと体を預けた。
「昼間、親父から連絡があって。介護の認定結果が出たんだって」
真は遠い昔のことを思い出しているみたいに、ぼんやりと天井を仰いでいた。
「結果は?」
「親父も母さんも、要介護1」
「えっ、2人とも?」
真は「あぁ」と、力なく漏らした。
義人と幸代を比べたら、幸代の方がかなり認知症が進んでいるような印象があるのに、2人とも要介護の等級が同じことが驚きだった。
「親父は『なんで私が要介護1なんだ』って、ずっと文句言ってた」
(やっぱりそう言うと思ったよ。でも、要介護よりも軽い要支援でも文句言うんだろうな)
瑠璃は腕を組んだ。
「正直言って、お義父さんは要介護1で妥当だと思う。でも、お義母さんの方は甘いというか、要介護2くらいつくかと思ってた」
「そうか。親父は妥当、か」
真は目を閉じた。
「僕は親父と同じで、要介護なんかつかないと思ってたし、せいぜい要支援かと思ってた」
時計が9時を知らせようとしたその時、かすかに目覚まし時計の鳴る音が聞こえてきた。
(上の人かしら?)
瑠璃が天井を見上げると、目覚まし時計のアラームが鳴り止む代わりに、床を踏み鳴らすような力強い足音が降ってきた。
リビングの天井に取り付けた照明が小刻みに揺れている。
真が目を開けて「なんだ? 上の部屋、人入ったの?」と、天井を指差した。
足音が玄関の方に遠ざかると、玄関扉を力まかせに開け閉めする音と振動が伝わってきた。
「今日からお住まいみたい。引越しのトラック来てた」
「警察に許可もらったのかな」
「ふふ。同じこと思った」



ひと晩寝て、真は「ちょっとマシになったから」と、マンションの真裏にある和食の料理屋でランチをとろうと誘ってきた。
夜は割烹料理を出すけれど、昼は親子丼や焼き魚定食を日替わりで出しているらしく、昼ならベビーカーに乗った真珠を連れて気軽に入れる雰囲気だった。
真珠は熱こそ無いものの、明らかに食欲が落ちていて、笑顔もいつもより少ない。
真はベビーカーを支えにして、ゆっくりと歩いている。体のだるさが残っているのだろう。
瑠璃は真に真珠と一緒に帰るように伝えて、坂を上がった先にあるスーパーに買い出しに向かった。
店に入ってすぐのところにある上りのエスカレーターに乗ると、真後ろに大きな影が立った気がした。
(なんか、いやだな)
結婚する前、何度か付きまといに遭ったことがあった。その時と、なんだか似たような感じがする。
2階に着いて、瑠璃が早足で通路を進むと、影も同じスピードで追いかけてきた。
瑠璃はさらにスピードを上げて買い物客やカートの隙間を縫いながら進んでいく。
影の大きさからして、追いかけてきているのは男のようだ。
(気持ち悪い。これじゃ、買い物できないよ)
よそ見をしながらカートを押している女性の目の前を横切る。
次の瞬間、瑠璃の背後で女性の悲鳴と、カートが何かにぶつかる音が上がった。
瑠璃はエスカレーターを一気に駆け下り、店の外に脱出した。
そのままの勢いで坂を下る。目の前の、片側3車線の大きな通りの歩行者用信号が点滅を始めた。
(がんばれ、私!)
瑠璃が横断歩道を渡り切る少し手前で、信号が赤になった。それでも構わず走り抜け、マンションのエントランスに着く頃には膝から崩れ落ちそうになった。
よろめきながら家に入る。ロックとドアガードをかけて、瑠璃は「あぁっ」と、靴を履いたまま玄関先に倒れ込んだ。
ぼんやりする頭の中で、真珠がいなくて良かったと思うと同時に、もしも真珠が一緒だったら、どう対処すればいいのだろうと思った。
リビングの扉を開けた真が慌てた口調で「瑠璃さん、どうした?」と、寄ってきた。口では慌てていても、体を引きずるようにしている様子からして、やはり本調子ではないらしい。
瞼を開けると、玄関の天井を小さくすばしこい何かが横切った。
「久しぶりに全速力で走ったら、疲れた」
「買い物は?」
「振り返ってないからわからないけど。多分、男の人に、追いかけられて。買い物どころじゃなかった」
真が「僕らも変なことがあってさ」と、切り出した。
「このマンションに住んでいる人で、派手な色のジャケットを着たおばあさんって知ってる?」
「派手な色も、色々あるよ」
起き上がると、目の前の景色が大きく歪んで、ゆっくりと見慣れた玄関の風景に戻った。
「蛍光の黄緑っていうか……」
瑠璃は靴を脱いで、壁を支えにして立ち上がった。足が、重い。
「前に、そこの百貨店で鮮やかなピンク色のジャケットのマダムに話しかけられたことはあるけど、同じマンションの人かはわからないなぁ」
真が瑠璃を先導するように、時々振り返りながら廊下を進む。
真は瑠璃がリビングに入ったのを確かめると、扉を閉めて、口を開いた。
「初めて会うおばあさんと、エレベーターで一緒になったんだけどさ。『あなたたちは7階ね』って、7階に住んでるなんて言ってもないのに、7階のボタンを押したんだ」
「なんで知ってるんだろう? その人、何階の人?」
座ろうとして、ダイニングテーブルにとまった小蝿を見つけた。瑠璃はテーブルに手をつくように、小蝿を手で潰した。
「8階。同じ7階ならまだしも、別の階の人だからなんか変だなぁ、って」
瑠璃は手を洗おうと、重い足を引きずった。
「信子さんの友達? まさか、なぁ?」
年配の人なら、信子の友達の可能性もあり得るだろう。
瑠璃は、自分たちの知らない間にお隣さんと会っていた信子を頭の片隅に思い出した。
真はコーヒーを淹れると言って、対面キッチンのカウンターに置いていたマグカップに手を伸ばした。
「真さん、このマンション、変なこと多くない?」
瑠璃は勢いよく流れる水の中に入れた両手をこすり合わせた。
真が「たとえば?」と、瑠璃に背を向けた。
「色々あるけど、こないだ廊下の清掃入ってから、吹き抜けにハトがいないんだよ」
「そういや、最近、ハトの羽根落ちてないよね」
真はちょっと安心したような、明るい口調で言葉を返した。
瑠璃は「あと……」と、言いかけて、問題のコンセントを見た。
バッグに入れっぱなしにしていたスマホを取り出して、メモ帳アプリを立ち上げた。
<この部屋、盗聴されてるかもしれない>
瑠璃が差し出したスマホの画面を見て、真が「またまたぁ。気のせいだろ」と、笑った。
「私だって気のせいだと思いたいよ? でも……」
「瑠璃さん、疲れてるんだよ。君はどうかしてる」
真は突き放すように言うと、瑠璃に冷たい視線を向けた。

















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