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山手の家【第46話】

真が出勤で自宅を不在にする平日の5日間、瑠璃は朝・昼・夕、特に時間を決めずに、盗聴器発見機の反応があったコンセントに向かって般若心経を流した。
般若心経を流すと、なぜか決まってどこかの部屋から物音が激しく聞こえてきたが、数日繰り返すと聞こえなくなった。
ゴールデンウィークの前半が始まる直前、般若心経を聞き飽きた瑠璃はデスメタルの曲を流してみた。
デスボイスのシャウトが始まったと同時に、どこかの部屋から、誰かがイスから転げ落ちたような音がした。
(上下は住んでいないから、お隣さん?)
コンセントが702号室との間の壁にあるならまだしも、どこの部屋とも接していないマンションの外壁側にあるのに、どうしてお経や音楽を流すと隣が騒がしくなるのだろう。
瑠璃は不思議でしょうがなかった。
連休の前半が終わって、平日を迎えた。
ゴールデンウィークだからといって特別休暇のない真は、朝早くから出かけていった。
数日ぶりにコンセントに向かって何かを流してやろうとスマホをタップすると『4月30日火曜日』と、日付が表示された。
10時から14時にかけては共用廊下の清掃と修繕作業が入ると、案内の文書が投函されていたことを思い出す。
(あと30分くらいで作業が入るのね)
真珠と一緒に散歩に出かけるなら、廊下の作業が終わってからにしよう。
瑠璃は音楽アプリを立ち上げる。アプリがお勧めするデスメタルのヒットメドレーを流そうと再生ボタンを押そうとして、指を空中で止めた。
(今日は小川家の宗派のお経にしよう。って、お経、あるのかな?)
小川家の菩提寺の宗派には戒名がないと聞いたことがある。社会の授業で「南無阿弥陀仏を唱えれば極楽浄土に行ける」とは習ったけれど、お経があるかどうかまでは知らない。
宗派と『お経』の2つのキーワードで検索をかけると、検索結果にいくつか候補が表示された。
よくわからないが、1番上に表示されているお経を再生させて、スマホのスピーカーがコンセントに向くように置いた。
静まり返った部屋に、聞き慣れない読経が響く。
瑠璃はタブレットの画面に表示されているアイコンの1つをタップした。
(あ、賃貸情報が消えてる)
今まで801号室の賃貸情報に代わって、『該当物件の賃貸情報はありません』と、端的な文言が表示されている。
上の部屋、801号室に借り手がついたのだろう。
見ているサイトを閉じようと、画面に指を伸ばしたその時、玄関の方から何か音が聞こえた。
廊下に出てみると、玄関の扉についている郵便受けの隙間から白い紙が入っているのが見えた。
取り出し口を開けて紙を引っ張り出すと、『電気使用量のお知らせ』と、印字されていた。
何気なくお知らせを眺めて、瑠璃は思わず「はぁっ、19000円?」と、叫んだ。
何度まばたきしても、お知らせに打ち込まれた金額が変わることはなかった。
こんな金額を電気代として請求されたのは初めてだ。
「なんで? なんで?」
瑠璃がおろおろしていると、玄関扉の向こうから、ザッ ザッ と、重たい何かを引きずるような音が聞こえてきた。
瑠璃は電気使用量のお知らせを握りしめたまま、ドアスコープから玄関の外を見た。
掃除のおじさんらしき人が、今、瑠璃が覗いている玄関扉のすぐ目の前の廊下を柄の長いブラシで磨いている。
ガタンと重い金属がぶつかるような音が聞こえた。間髪入れずに702号室の扉が開いて、掃除のおじさんが開いた扉にぶつからないように、瑠璃のいる701号室の扉の至近距離に避けた。
おじさんに気づかれないように、瑠璃は息を潜めた。
702号室から出てきたのは、先日、1階のエントランスで見かけた淡いグレー色の髪を束ねた男性だった。
(そうか、お隣が出入りするとこういう音がするのか)
関心していると、702号室から出てきた男性、坂田さんが掃除のおじさんに気がついて、こちらを向いた。
「おはようございます」
先に口を開いたのは、掃除のおじさんだった。
「おはようございます。今日は、あれ、やるんですか?」
坂田さんは玄関の鍵をかけずに掃除のおじさんに話しかけ始めた。
「えぇ。夜から雨が降るらしいんで、迷ったんですが、昼間は天気がもつようなので」
「少しでも雨の時間が遅くなるといいんですけどね」
そう言うと坂田さんはとうとう玄関に鍵をかけずに「では」と、エレベーターホールの方に向かっていった。
「いってらっしゃいませ」
掃除のおじさんも、特に気に留めることなく再びブラシを握る手を動かし始めた。
鍵をかけずに出かけるということは、702号室に誰かいるのだろうか。
瑠璃は音を立てないように玄関扉からそっと離れた。
振り返ると、足元すぐに真珠がおすわりをして瑠璃を見上げていた。
どうやらリビングの扉がちゃんと閉まっていなかったらしい。
「すごいね。ここまで来たの」
瑠璃は電気使用量のお知らせの紙を持ったまま、真珠の両脇に手を入れて抱き上げた。
真珠が白い歯を見せて「あー」と、笑う。
この家で不可解なことが起きていても、真珠は着々と成長している。
(この子の笑顔を守りたい)
瑠璃は真珠をしっかりと抱え直して、リビングに戻った。
(明日から5月か)
5月1日といえば、信子が新居に引っ越す日だ。
(信子さんが落ち着いて、新しい生活を送れますように)
瑠璃は続けて、小川家のみんなが穏やかな日々に戻ることを願った。


4月最後の夜を迎えて、雨が降り出した。
雨は時間の経過と共に勢いが増していく。
日付が変わって少し経った頃から、雨の音に混じって金属のスコップで土を掘っているような音が702号室のベランダの方向から聞こえてきた。
(こんな雨降りの夜中に、土いじり?)
寝ている真を起こそうと、呼びかけたり揺すったりしたが、3連休明けの仕事で疲れてしまったのか、真は起きなかった。

















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