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山手の家【第21話】

生まれ育った北国ではあまり経験することのない蒸し暑さが堪えたのかもしれない。
瑠璃は山手の家の内覧から帰宅すると、すぐにシャワーで汗を流して、真珠の世話を真に任せて昼寝をした。
とにかく、体がだるくて仕方なかった。
気がつくと時計は夜の7時を過ぎていて、明かりのついたリビングで真と真珠が寝そべってテレビの録画を観ていた。
軽い夕食を取り終えて、瑠璃は仕事の原稿書きにも使うタブレットで調べ物をしていた。
(不審者情報もナシ、と……)
瑠璃は不審者情報マップの画面を閉じて、あらかじめ立ち上げておいた事故物件情報サイトを開いた。
「おぉ、さすが瑠璃さん。ちょうど、調べてもらおうと思ってたところだったんだよ」
瑠璃の背後を通りかかった真が、冷蔵庫に冷やしていた緑茶のペットボトルを片手に瑠璃のタブレットを覗き込んだ。
「あの家、事故物件情報は出ていないよ。不審者情報も、なし」
「周りにも出てない?」
「うん。何も出てない。気持ち悪いくらい、何もない。繁華街に近いと色々あっても良さそうなのに」
山手の家の1ブロック隣にはライブハウスが数軒あり、5分も歩けばガールズバーやクラブが立ち並ぶエリアに辿り着く。
さすがに繁華街と言われるエリアには事故物件情報がいくつか表示されているが、それでも、繁華街のわりに少なく感じた。
地図を1段階、広域に設定してみる。街の中心部と呼ばれているエリア全体が画面に表示されたが、事故物件情報は、よその街の中心部と比較しても少ない気がした。
「あの家、段差が多いの気になるよな」
真が瑠璃の手元のグラスに冷えた緑茶を注ぎ足した。
「キッチンの段差、あれ、めっちゃ怖かった」
「あれ、わかんないよね。僕、あそこでコケたもん」
「汁物の入ったお椀持って、あそこでコケたら最悪だなぁ」
真が自分のグラスに緑茶のペットボトルを傾けながら、「まったく」と、笑った。
「大体さ、この家よりも面積広いはずなのにリビング以外、全部狭いと思わなかった?」
「うん。リビングだけ、めちゃくちゃ広いよね」
なんとなく感じていた、あの家に対する印象を、真も同じように持っていたことがわかって、瑠璃は安堵した。
「収納が全然ないのも気になるし、浴室乾燥もないし。親父、リフォーム業者にカモられたんじゃないのか」
「え、浴室乾燥ないんだったっけ?」
「そうだよ」
「うわー、見落としてた」
真珠が激しくぐずり続け、自分もあまりの暑さに身の危険を感じて、「早くこの家から出なくては」と、瑠璃は玄関からリビングを正面に見て右手側の、トイレや浴室、洗面といった水回りのチェックを軽く眺める程度にしか見ていなかった。
真と結婚してから住んだ家には浴室乾燥がもれなくついていて、瑠璃は「最近のマンションにはこんな素敵なものがついているのか」と、感動した覚えがある。
結婚するまで住んでいた家は、建築士をしていた父が病に倒れる前の現役時代に設計して建てた家だった。
洗濯物は日当たりの良い南側に設けられたドライルームに入れておけばすぐに乾くし、特に洗濯物の干し場に困ることはなかった。
「洗濯物、外には干したくないんだよなぁ」
「リビングに干すしかないね」
「うーん。あの家、ただでさえ湿気がすごいのに、部屋干しかぁ」
湿気も気になるが、洗濯物をリビングに干してしまうと、せっかく広くなったリビングが狭く感じるのではないかというのも、瑠璃は気になった。
「無駄なリフォームしやがって」
真はグラスの緑茶を喉を鳴らしながら流し込んだ。
(狭いといえば、あのキッチンも)
瑠璃はタブレットを閉じて、頬杖をついた。
「ねぇ、今、お義父さんたちが使ってる冷蔵庫って、信子さんが持ってきたものでしょう?」
「あぁ、そうだったね」
「あの冷蔵庫、あの家のキッチンに置くのは無理だと思うんだけど」
真は、何かを考えるような素振りで一瞬だけ黙り込んで、すぐに瑠璃を見つめて笑みを浮かべた。
「てか、信子さんのことよりも、僕たちがあの家で暮らしていくことを考えようよ」
「真さん、あそこに本当に引っ越すの?」
瑠璃の質問に真は「そりゃ、そうだよ」と、笑顔で即答した。
「マジで?」
瑠璃は絶句した。


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