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山手の家【第39話】

日曜の昼下がり、瑠璃はスマホを片手に、キッチンのシンクを覗き込んでいた。
ランチの後片付けをして、最後にトマトソースがこびりついたフライパンをお湯で洗っていると、急に排水が流れなくなった。
シンクに溜まっていた水はゆっくりと時間をかけて少しずつ流れているらしい。さっきまで、ぷかぷか浮いていた排水溝のゴミ受けが、ようやく定位置に収まった。
今までいろんな家に住んできたが、ここまでひどい詰まりは初めてだった。
「ほら、大輝くんが言ってたじゃない? 油で汚れたものを洗う時はお湯を流した方がいい、って」
瑠璃は故郷にいる妹の瑞希と電話で話していた。
会話の合間にノイズが走ったり、瑞希の声がプツプツと途切れたり、この家はあまり電波の状態がよろしくないらしい。
「それに、別に変なもの流した覚えないのに。急に詰まったの」
幸代から回収した薬を流したわけではない。
一昨日、義人と幸代の介護の認定調査に立ち会って、幸代の薬の管理が全くできていない現実に直面した。飲み合わせてはいけない薬が、別々の病院から処方されて幸代の手元にあった。
本来なら、病院や薬局でお薬手帳を見るなりして確認するところを、チェックが漏れていたらしい。
重複して服用すると心臓に負担がかかって命の危険もあるらしいが、幸代が片方の薬の存在を忘れて全く服用していなかったので、ことなきを得た。
瑠璃は双方の病院に確認して、服用を停止するように言われた薬を、間違えて幸代が飲んでしまわないようにと家に持ち帰った。
「大輝が『パイプが痛むから、アレは使うな』って言ってる」
瑞希は「あと」と、付け加えた。
「築40年で、排水管自体が古くなっている可能性もあるから、業者さん呼んだ方が確実だってー」
通話を終えると、真珠と遊んでいた真が顔を上げて、瑠璃に視線を注いでいた。
「大輝くん、何て言ってた?」
「やっぱり、アレは使うなって」
「ほうっ」
真は驚きの声をあげると、どこか一点を見つめて微動だにしなくなった。何か、考えているらしい。



少し水を流しただけでも流れなくなってしまうのは翌日も変わらなかった。
真から「アレじゃない薬剤を注文したから、業者を呼ぶのは待って」と、言われている。
(お皿1枚洗うのも気を使うだなんて……)
急にめまいに襲われて、瑠璃はしゃがみ込んだ。
近くに置いていたスマホが震え出した。画面に『小川優子』と通知が上がっている。
瑠璃はしゃがみ込んだまま、スマホを耳にあてた。
「瑠璃ちゃん、元気になった? ところで、今日って暇?」
(優ちゃんに風邪引いたこと、言ってたっけ?)
真や義人、幸代の誰かから聞いていたのだろうか。
瑠璃の注意を逸らすように、耳障りなノイズが走った。
通話相手が遠方だろうと、市内で近距離だろうと、ノイズには関係がないのかもしれない。
「これから遊びに行ってもいい?」
瑠璃は我に返った。
「あ、うん。いいよ。今日は真さん出勤日で帰り遅いけど、私と真珠だけで良いなら」
「じゃあ、これから行くね」
優子の後ろで、マロの鳴き声が聞こえた気がした。
今、優子が家にいるとなると、早くて10分程度で到着することになる。
瑠璃は昼寝に使った毛布を綺麗に畳んで、寝室に運んだ。
気になって、寝室の窓から街を見下ろすと、隣の駐車場の出入り口付近に白いワイシャツと黒いスーツのズボンを着た男がスマホらしいものを眺めながら立っていた。
(駐車場に車は1台もないのに、なんであの人はあそこにいるんだろう)
前にも、あの駐車場でスマホを眺めていた人がいた。
(歩きスマホをする人のオアシスなのかしら)
インターホンが鳴った。
優子が到着するにはまだ少し早いはずだった。
配達の人だろうかとインターホンのモニターを見ると、そこに映っていたのは優子だった。
「こないだは、父と母の認定調査に立ち会ってくれてありがとう」
優子は「お土産に」と、優子の家と瑠璃の家の中間地点にあるドーナツ屋のロゴが入った紙袋をテーブルに置いた。
「君にはまだ、ここのドーナツは大きすぎるかなぁ?」
優子は、子供用のチェアに座ってボールで遊ぶ真珠の顔を覗き込んだ。
瑠璃がお茶を用意していると、背後から優子の声が飛んできた。
「ここの向かいに、美味しいケーキ屋さんがあったんだけど、もらい火で営業再開の目処がたたないらしくて。本当はそこのケーキを食べてもらいたかったの」
「あら、残念」
「火元の店とお金のことで揉めてるらしくてさ」
瑠璃が紅茶の入ったカップを優子に差し出すと、優子は「ありがとう」と受け取って、話を続けた。
「火元の店の人と信子さんが友達で、火事の一報聞いて、信子さん駆けつけたんだって」
「え、わざわざ駆けつけたの?」
優子は紅茶をひと口飲んで、苦笑いした。
「うん。心配で、いても立ってもいられなかったんだって」
瑠璃はニュースアプリを立ち上げ、検索窓に住所と『火事』というキーワードを入れた。
「……その火事、先月11日の13時頃に出火って言ってるんだけど、私、火事の直前までここでネットの工事の立ち会いしてたよ」
「えー、すごい偶然」
工事の業者さんと、掃除のおじさんが揉めた、あの日だ。















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