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山手の家【第37話】

晩ご飯はいらないと言っていた信子も、「あら、私もご一緒しようかしら」と、すき焼きを頬張った。
みんなで囲んだすき焼きの鍋をキッチンに運び、幸代に頼まれてダイニングテーブルをふきんで拭いていると、信子が肩がぶつかるほど近くに寄ってきた。
信子は「ほほほ」と、甲高い笑い声を上げると、平手で瑠璃の背中を叩いた。
(痛っ)
瑠璃は信子から1歩、離れた。
「いやぁ、今日はあの人の機嫌が良くて、美味しいご飯も食べられてよかったわぁ」
信子はしつこく瑠璃に擦り寄ってきた。離れようとする瑠璃の背中をもう1度、平手で叩く。乾いた音が部屋に響いた。
(何、このおばさん)
瑠璃は「やめて」と、言おうとしたが、咳が込み上げてきて、言えなかった。
激しく咳き込むと、信子がニヤニヤしていた顔をしかめて、1歩引いた。
キッチンにいたはずの幸代が「大丈夫?」と、華奢な手で瑠璃の背中をさする。
「明日は優子が晩に来るし、なんだか毎日賑やかだわぁ」
幸代の言葉に、瑠璃は笑顔で頷いた。
なんとなく視線を感じて顔を上げると、信子がこちらを鋭く観察するように見ていた。
「新しい家は、今日申し込みしたんですか」
真に話しかけられて、信子は取り繕うように笑顔を作った。
「そうなの。来週には審査の結果が出るみたい」
「家が決まったら、引っ越し業者決めたり、忙しいですね」
言い終えて、真はくしゃみした。
瑠璃の背中をさすっていた幸代の手が離れた。
「引っ越し屋さん手配するのもお金かかるしねぇ」
「僕ら、こないだ山手の家に引越しした時は業者さんを比較して、割引効かせて10万円でやってくれるところにしましたよ」
「10万円? 家族3人で? うそぉ。私、山手の家からここに引っ越すのに30万円かかったわよ」
「はぁっ? 30万円?」
(なにっ? 30万円ですって?)
真が声を上げるのと、瑠璃が心の中で叫ぶのは同時だった。
「そうよ。30万円」
信子は驚く真を不思議そうに見つめている。
それくらい、かかって当然でしょ、と、言いたそうだ。
「あ、ヤバ。もうこんな時間」
咳が続く。
気づけば、時計の針は9時を回ろうとしていた。来客用駐車場の使用期限も迫っている。
もう少しのんびりとしていたいような気もするが、明日は月曜日で、真は朝早くから出勤しなくてはならない。
「本当だ。僕、明日早いから帰るわ」
「え、今、食べ終わったばかりなのに?」
幸代が慌てた様子で洗い物の手を止めて、リビングに戻ってきた。
「お茶ぐらい、飲んでいかないか?」
「今度、ゆっくりと、父さんの淹れてくれるコーヒーをいただきます」
真がお座りしていた真珠を抱える。
(忘れ物は、ない、よね?)
瑠璃は自分のバッグと、真珠のお世話グッズが入ったトートバッグを手に取った。
「では、お邪魔しましたー」
玄関を開けると、少しひんやりとした風が家の中に流れる。
「真珠、ジィジとバァバに『またね』って」
真は抱っこしている真珠の手首をつかんで、無理やり手を振らせた。
「もう、真ったら、真珠が嫌がってるじゃないの」
ふと、鍵がぶら下がる棚に目が留まった。
(あれ? ゴールドのキーホルダーが、ない?)
瑠璃は自分の目を疑った。たくさんの鍵がぶら下がる中に、どう見てもあのゴールドのキーホルダーが見当たらない。
「じゃあ、金曜の認定調査の時に僕ら来るから」
「なんだかよくわからんが、お待ちしてます」
義人が笑いながら手を振った。
「じゃあ、行こうか」
瑠璃は真に背中を押されて、外に出た。
せめて、鍵をちゃんと片付けたか、義人に確認したかった。
エレベーターホールで、瑠璃は足元に目をやった。短い咳が出る。
「お義父さん、ここでイヤホン拾ったんだよね?」
「あぁ、なんか言ってたね」
「片方だけ落とすなら『よくあるよね』って思うんだけど、両方いっぺんに落とすものかなぁ、って」
「さぁ。落とす人は落とすんじゃない?」
(そんなものなのかな)
到着したエレベーターが開いた。



月曜の1日が、あっという間に過ぎていく。
すっかり日が暮れ、空の青はいつの間にか暗い色に染まっている。
昨日、美味しいお肉を食べたからか、咳がだいぶ楽になった。
仕事から帰ってきた真は仕事用のバッグを床に転がして、真珠が遊んでいるそばに大の字に寝そべった。
(週明けの月曜から、かなりのお疲れみたいね)
真には早めに休んでもらった方が良いかもしれない。
瑠璃はチキンを焼くフライパンの火力をほんの少し強めた。
「信子さんがわけのわからないことを言っててさ」
真がゆっくりと瞼を閉じた。
「混乱系? それとも、激怒系?」
瑠璃の問いに、真は「うーん」と、言葉に詰まった。
「具体的になんて言ってるの?」
「んーとね。昨日、僕たちが帰った後、しばらく母さんの機嫌は良かったらしいんだけど、夜中寝ている時に枕で殴られたらしくて」
「へぇ?」
「で、朝になってリビングで食事しようと思ったら、母さんから暴言吐かれた、って」
(前にも聞いたことのあるような話だな)
瑠璃が思い出そうとしていると、真が起き上がった。
「『お母さんのこと、どうにかなりませんか』だって。どうにか、って、何だよ」
「自分の思い通りにお母さんをコントロールしてください、ってことでしょ?」
真の反応が、無い。見ると、真はスマホをいじっていた。
「今、優子からメッセージ来たんだけどさ。母さん、晩メシにすき焼き作ろうとして、信子さんが『また今日も、すき焼き?』って、言った途端、ケンカが始まって」
油のはねる音がうるさい。瑠璃は真の話を聞き漏らすまいと、ガスコンロから離れた。
「優子が間に入ったんだけど、さすがに2日連続ですき焼きはないだろうと思って、信子さんの意見にちょっと同調したら、母さん『もう、いい』って部屋に篭っちゃった、ってさ」
真の「やれやれ」という呟きと、瑠璃の溜め息が重なった。
瑠璃はキッチンから出て、おもちゃで遊ぶ真珠の頭を優しく撫でた。
「お義母さんはショックだったんだよ。実の娘が信子さんの肩持つから」
「……そうか」
真はスマホを片手に持ったまま、腕を組んだ。
「昨日、ちらっと聞いたけど、やっぱり信子さん金銭感覚ちょっと変だよ」
「親父の家に引越しするのに30万円かかった話?」
瑠璃は大きく頷いた。
「瑠璃さん前から言ってたよね。や、僕もあの引越し代聞いて、納得したわ。おかしいって」
(金銭感覚だけじゃないけどね、おかしいのは)
真に背を向け、少しだけ静かになったフライパンの元に瑠璃は戻った。



時計はもうすぐ夜の6時を指し示そうとしている。
子供向けのテレビ番組を真珠と一緒に観ようとテレビの前で待ち構えていると、玄関から扉を開け閉めする大きな音が響いた。
「ただいまー」
真は浮かない顔をしている。今日も仕事で相当疲れたのだろうか。
義人と幸代の介護の認定調査に備えて早めに帰宅すると宣言していたから、その分、忙しかったのかもしれない。
「お帰りなさい」
「信子さんから手紙が来てる」
瑠璃の目の前に白い封筒が差し出された。
切手も消印も無く、宛名に『小川真様』、その隣に『ルリ子様』と書かれている。
(あの人、私の名前覚える気、全くないでしょ)
込み上げてくる笑いを我慢したら、鼻から勢いよく空気が漏れた。
「先に、僕が読んでみるね」
真はダイニングテーブルのいつもの席に座って、開封した手紙に目を通し始めた。
テレビから聞きなれた音楽が流れて、真珠が小さな手でパチパチと拍手した。
振り返ると、真は眉間にシワを寄せていた。
「真珠、1人で見ててくれる?」
瑠璃は真珠の両肩に軽く乗せた手を離した。
「信子さんが、また、わけのわからんこと言ってる」
真は呆れたように笑った。
「また?」
「うん。手紙、読むね」
瑠璃も、ダイニングテーブルのいつもの席についた。


『真様、ルリ子様
突然のお手紙、失礼します。先日は、楽しい晩御飯の席に同席させてくれて、ありがとう。
久しぶりに楽しい時間を過ごせて、真珠ちゃんにも会えて、とてもうれしかったです。
ただ、3人が帰った後、夜中に幸代さんに寝ているところを暴言を吐かれながら殴られ、翌朝リビングに降りていくと、私の化粧品や洗濯して干していた服や下着がゴミ箱に捨てられていました。
朝食を食べようとしていたら、「部屋から出てこないで」と、幸代さんに殴られながら部屋に戻りました。
その日は夜に仕事帰りの優子ちゃんが来てくれて、何とか幸代さんの機嫌も戻るかと思いましたが、ちょっとしたことで私と幸代さんがケンカになり、食事会どころではなくなってしまいました。
今まで、幸代さんからは「ブタ」「デブ」「ブサイク」「腐ったイモみたいな顔して」など、たくさんの暴言を浴びてきましたが、ここまで耐えてこれたのは、義人から「姉さん、一緒に暮らそうよ」と、初めて優しい言葉をかけてくれたからです。
でも、もう限界です。申し込んだ家の審査は通りましたが、入居できるのが5月1日からだそうで、それまでは友人のところに身を寄せることにしました。
義人と幸代さんの支えになれたらと思って一緒に暮らし始めましたが、こんなことになって申し訳ありません。小川家の皆さんの幸せを願っています。
藤原信子』










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