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山手の家【第32話】

真が手配した鍵屋さんが到着する頃にはすっかり日が暮れていた。
「今日はシリンダー交換と、ドアガードの設置。それから、ドアロックについてご相談とお聞きしています」
鍵屋さんは挨拶もそこそこに、台車に積んだ大きな工具ボックスを開け、頭にライトのついたバンドを巻いた。
(これでやっと、知らない間に誰かが家に上がっている恐怖から解放される)
瑠璃は安堵すると同時に、誰ともわからない相手に対して勝利をおさめた気持ちで心満たされた。
鍵屋さんが玄関扉のドアノブをライトで照らした。
「鍵のシリンダー交換は簡単にできますよ」
鍵屋さんは工具ボックスから小さな箱を取り出した。
「交換にあたって、今使っているカギが必要になるんです。お借りしても……」
鍵屋さんのすぐそばにいた真が上着のポケットに手を伸ばし、続けてズボンのポケットをまさぐった。
もたつく真を尻目に、瑠璃はバッグからゴールドのキーホルダーについた鍵の束を出した。
「ごめん、瑠璃さん。鍵、すぐ出せる?」
「えぇ、もうとっくに出てます」
「悪い、貸してあげて」
鍵屋さんが瑠璃から鍵の束を受け取ると、吹き出すように笑った。
「それにしても、ずいぶんありますね」
「えぇ、この玄関を外から開ける鍵と、中から開ける鍵、ゴミ捨て場の鍵だそうです」
「あぁ、ここか」
家の中側の鍵穴を工具の先で軽く叩いた。
「実はこの家、元々は僕のおばあちゃんが住んでいて、認知症で徘徊がひどくなって、こんな風にしたらしいんです」
「あぁ、なるほどね。たまに、ありますよ」
鍵屋さんは特に驚きもせずにシリンダーを交換する手を動かし始めた。まるで手品を見ているみたいに、手早い。
真が鍵屋さんの背中にためらい気味に声をかける。
「そこなんですけどね、普通の家ってツマミをくるっと回してロックをかけるじゃないですか。ああいう風に交換することってできるんですか」
「できますよ」
鍵屋さんは手を休めることなく、「ただ」と、付け加えた。
「これって、防犯的には最強なんですよ。こういう、郵便受けのついたドアなんかだと、そこからワイヤーとか差し込んでドアロックとかドアガードを外そうとするヤツがいるんですけど、これだと、ロックをかけた後に鍵を抜いておけば、ワイヤー入れてもツマミみたいに引っかかるところがないから開けられないんですよ」
(そんな使い方があったなんて)
感心していると、真と目が合った。
「瑠璃さん。ドアロックはこのままで、いいよね?」
「うん。そういう使い方があるなら、このままにしておこうか」
鍵屋さんが電動ドリルを手に取って、ドアガードを取り付けようとしている。
「で、ご主人さん、どうします? この内鍵」
「このままでお願いします」
「じゃあ、内鍵はそのままってことで」
鍵屋さんはドアガードをどの位置につけるか慎重に見極めながら、独り言のようにつぶやいた。
電動ドリルの甲高い音と、ゴリゴリっと扉に金具がめり込む音が薄暗いフロアの廊下に響いた。


山手の家の玄関の鍵を交換して、新しい鍵と安心を得た。
(全部で鍵が4つかぁ)
以前の玄関の鍵はオートロックを開錠するために必要で、山手の家に関連した鍵は全部で4つに増えた。
とはいえ、前回山手の家のトイレで見た物体のインパクトは強く、瑠璃は時々、思い出しては怒りに震えた。
例の物体は今も、撤去できずにトイレにそのままになっている。
「水道とか電気は引越し直前の開通でいいだろ」
真がそう言って譲らなかったのでトイレの水を流せる状態になかったというのと、玄関の鍵の交換で精一杯だったというのが、撤去できていない理由ではあるが、あの日もうちょっとできることがあったんじゃないのかと、瑠璃は後悔していた。
(せめてビニール袋があったら、犬のフンを拾うみたいに撤去できたのにな)
次に家に入った時には何かしらの方法で撤去すると瑠璃は心に誓った。
義人と幸代の認知症専門クリニックでの初診があと1週間後にまで迫っていた。
今回の初診を義人も受けることになるとは、義人自身には話していない。
そんなことを話してしまえば、義人は初診をボイコットするどころか、激怒して「お前たちとは縁を切る」なんて言い出しかねない。
義人を騙すことにはなってしまうが、今回は幸代の初診の付き添いという名目で義人を連れ出し、あくまで『ついでに』というスタンスで義人にも初診を受けてもらう段取りをクリニック側とすでに打ち合わせていた。
義人は「年を取ったらこうなるのは当たり前だ」と、言って、幸代に寄り添ったり向き合ったりすることから逃げているように見えた。もしかしたら、認知症そのものを恐れているのかもしれないが。
とにかく、今回の初診で失敗するわけにはいかなかった。
2人が診察を受けるのであれば、その分付き添いも必要だろうと、瑠璃も真珠を連れて付き添いをするつもりでいたが、小さなクリニックに大勢で押しかけるのはどうかと真が言い出し、結局、真が1人で義人と幸代の付き添いをすることになった。
2人の様子を先生に知ってもらい、先生から2人に適切なアドバイスをしてもらうには、付き添いの真の振る舞いも重要だと瑠璃は考えていた。
(真さん、説明するの下手だからな……)
言葉が足りなかったり、筋道立てて話すのが苦手だったりする真のために、瑠璃は、義人と幸代のプロフィールを資料としてまとめていた。
自分の父親が働き盛りに認知症の診断を受けた時のことを思い出して、学歴や職歴だけではなく、生まれ育った町のことや子供の頃の家庭環境、性格、既往歴、最近の様子などを資料に盛り込んである。
「真さん、来週の付き添いに向けて、こんなの作ってみたんだけど、チェックしてもらえる?」
瑠璃は資料を作っていたタブレットを真に渡した。
真は「すげー」と、感嘆の声をあげ、資料にひと通り目を通して「ありがとう。助かる」と、笑った。
(よかった、本当に喜んでるみたい)
時々、真は口元だけ笑って、目は笑っていないことがある。
今はちゃんと、笑っていた。
急に真の顔が真顔になった。鈍い音がかすかに聞こえる。スマホが鳴っているらしい。
真は充電器につなげていたスマホを手に取った。
「優子だ。こんな時間になんだろう」
真はスマホをテーブルの上に置くと、スピーカーモードで通話を始めた。
「兄ちゃん? 今、ちょっといい?」
スピーカーから漏れる優子の声は、どことなく焦っているようだった。
「明日から市営住宅の申込開始になるけど、あれ、実際に入居できるのが6月だって知ってた?」
「知ってるよ。ネットの募集要項にも書いてある」
「あのさ、6月まで山手の家に信子さんに住んでもらって、兄ちゃんたちは信子さんが市営住宅に移ってから住み始めるって、できないの?」
(優ちゃん、急に何を言い出すの?)
瑠璃は真のスマホを遠目に眺めつつ、テーブルに頬杖をついた。
真が両腕を組んで、顔を上げた。
「もう会社には3月末に社宅扱いの今の家を出て、4月からは山手の家に住むって言ってるし、引っ越し業者だって手配したんだから、今さら変更はできないよ」
「そうか。……だよね」
声色だけ聞いていても、優子は落胆した様子だとわかった。
「『お母さんの様子が落ち着いてるから』って、お父さんに言われて、一昨日、信子さんは父と母の住んでる家に戻ったんだけど、信子さんにまた何かあるんじゃないかと気が気じゃなくて」
(どうして自分のお父さんとお母さんの心配をしないで、信子さんの心配をするんだろう)
瑠璃にはよくわからなかったが、信子のことを幸代が攻撃していると何度も聞いて、それで信子の心配をしているのだろうと察しがついた。
でも、信子の訴えがあるばかりで、認知症の症状で忘れているとしても、幸代や義人からは一切話に上がったことがない点が瑠璃にとっては奇妙に思えた。





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