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山手の家【第36話】


空が白み始めている。
瑠璃は小さなビルの群れと、その向こうに顔を覗かせるタワー、そして雲が埋め尽くす空をリビングから眺めていた。
考え事をしているうちに、眠れなくなってしまった。
(掃除のおじさんの話も、01号室ばかりリフォームするのも、結局そういうことだったんだな)
901号室、801号室、601号室と、瑠璃たちの住む部屋の上下階で今年の同じ時期にリフォームが入ったのも、年末の投身自殺が原因だとしたら納得できる。
ましてや下の601号室なんて、この701号室と同じ時期に売りに出されていたのを買って住んでいた人がいたはずなのに、リフォームが終わっても住人が戻ってきた気配がない。
801号室はネットに賃貸情報が出ていた。
(きっと、この真下の601号室のベランダに誰か1人、落ちたんだろうな)
601号室のベランダは、701号室から上の階のベランダよりもひと回り広い作りになっている。マンションを横から見ると、ちょうど601号室のベランダが飛び出しているように見える。
6階を除く、01号室のベランダから転落すると、601号室のベランダに落ちることになる。
もしかしたら、転落した人を搬送する時に、601号室の部屋の中を通った可能性だってある。
(そんな家、住み続けるのは厳しいよな……)
しかも買ったばかりのマイホームが、自分たちの力の及ばないことが原因で事故物件になるなんて夢にも思わなかっただろう。
瑠璃は目を閉じた。



ひと晩寝ても、真は自分の住んでいるマンションに事故物件情報が3件あったショックを引きずっているらしかった。
「引っ越し完了の報告に、親父のところに行こうか」
真の声は弱々しかった。
瑠璃は無言のまま頷いて、ジッパー機能のついたのど飴の袋と、義人から借りたままになっていたゴールドのキーホルダーがついた鍵の束を真珠のお世話グッズが入ったバッグにねじ込んだ。




義人と幸代が出迎えた家に、信子の姿はなかった。
「姉さんは帰りが遅くなるそうで、晩メシはいらないそうです」
義人はぶっきらぼうに答えた。
瑠璃はこみ上げそうになる咳をこらえながら、「お義父さん、お借りしていた鍵をお返しします」と、ゴールドのキーホルダーの鍵の束を義人に差し出した。
義人は鍵を受け取ると、何も言わずに玄関の方へ行き、少し経って戻ってきた。どうやら玄関脇にある、鍵がいっぱいぶら下がっている小さな棚に収納したらしい。
「今、返してもらったあの鍵が、姉さん曰く原本らしいから、原本は私が持って、合鍵は真たちに渡そう」
前にも見たことのある、2本の鍵がぶら下がったキーホルダーを義人は真に押し付けるように渡した。
「そういえば、お義父さん。エントランスの脇のところにゴミを集めてるって話でしたけど、あそこ、昔から掃除道具を入れる場所だそうです」
「そーじどーぐ入れ?」
義人は「信じられない」と、言いたげに、見開いた目を瑠璃に向けた。
「毎朝、僕が散歩がてらゴミ捨てに行ってます」
「散歩がてら、って。真、あのマンション、そんなにゴミ出しが不便なの?」
幸代が心配そうに真を見つめた。
「姉さん、間違ったところにゴミ出してたのか」
「知りませーん」
真はオーバー気味に首を横に振った。
「ところで瑠璃さん、これ、どうやって使うか教えて」
義人はファックス機能付き電話の横に置いた箱の中から、薄汚れたワイヤレスイヤホンを引っ張り出して瑠璃の目の前に置いた。
「これ、どうしたんですか?」
「このフロアのエレベーター乗るところで拾ったんだ」
瑠璃は「ええっ」と声を上げたいところだったが、咳が先に出た。
(もしかして、これ)
もしかしてと、瑠璃はイヤホンに小さく刻まれた型式らしい英数字の羅列をスマホで検索した。
(やっぱりそうだ。これ、マイク機能ついてる)
「誰かの落とし物かよ」
真が汚いものを見るかのように顔をしかめた。
「お義父さん、落とし物ならコンシェルジュに届けてきますね」
咳を我慢したせいか、声がかすれた。
「え? 瑠璃さん、なんで?」
「落とし物だからだよ」
「前にも同じようなの拾ったけど、うんともすんとも言わないから捨てたんだが……」
「他人の物、勝手に捨てるなよ」
瑠璃はイヤホンを持って立ち上がった。
「真さん、ここのおうちの鍵貸して」
瑠璃は真からこの家の鍵を預かると、早足で駆け出した。



マンションのコンシェルジュに「落とし物を拾った」とだけ伝えて、ワイヤレスイヤホンを託してきた。
みんなの待つ家に戻ると、真珠と幸代の楽しげな声に混じって、義人と真の会話が聞こえてきた。
「何っ? 事故物件だって?」
「父さん、知らないのかよ。昨日、瑠璃さんがたまたま調べたら、去年の末に2件、それ以外に時期不明でもう1件、投身自殺とか転落の情報が出てたんだから」
「管理会社からは何も連絡入ってないぞ」
リビングに入ると、真珠を抱っこしていた幸代が瑠璃を見上げた。
「あらあら、瑠璃さん、息上がっちゃって」
義人と真も瑠璃を見上げた。
「いやー、焦りましたよ。あれ、ただのイヤホンじゃないですよ」
瑠璃は深呼吸しようとして、こらえきれずに大きな咳をした。
「スマホとリンクしてたらGPSでイヤホンがどこにあるかわかる場合があるんですよ。ただ拾っただけなのに泥棒扱いされても困りますよね?」
義人は小さく唸って、腕を組んだ。
「それに、単なるイヤホンじゃなくてマイク機能がついてるから、設定の仕方とか使い方によってはこの家の会話、知らない人に聞かれるんじゃないかと」
幸代が眉間にシワを寄せた。
「あら、怖いわ。お父さんったら、変なもの拾ってこないでください」
玄関の扉が開く音がした。この時間には聞こえるはずのない音だった。
足元の揺れがさざなみのように迫ってくる。そして、クセのある香りが少しずつ濃くなっていく。
「こんにちは」
やはり、信子だった。
「マコちゃんたちのおかげでね、あの家、無事に申し込み済ませられました」
信子は上機嫌で、自室のある2階へ上がっていった。










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