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山手の家【第31話】

比較的、冬でも温暖なこの街に、2日連続で雪が降った。
近所の店のあちこちが、臨時休業したり、営業時間を短縮したりしていた。
『雪』と、ひと口に言っても、この街に降る雪は瑠璃が生まれ育った北国の雪とは違い、粒が大きくて、手のひらに乗せれば、あっという間に溶けてしまう。
もう1つ、雪にまつわる違いがあるとすれば、北国では時に厄介者扱いされる雪が、ところ変わって温暖なこの街では珍しいものとして扱われるという点だった。
(良かった。週末はお天気持ち直しそう)
夕方のニュース番組で紹介されている、週間天気予報を眺めていた瑠璃は安堵した。
土曜日は引っ越し業者の訪問見積もりの約束が、日曜日は延期になったエアコンの設置が予定に入っている。
人の動きが増える、俗に言う『繁忙期』に引っ越しを考えている手前、そろそろ引っ越し業者を決めておきたいところだったし、エアコンの取り付けもずるずると先延ばしにしたくはなかった。



日曜の昼下がり。瑠璃たちは山手の家にいた。
今日も室内にいながら寒くて、コートを脱げそうにない。
真のスマホに業者から「あと5分後くらいに到着します」と、連絡が入ったので、もうすぐエアコンの設置工事が始まるはずだ。
拭き上げたリビングの床に毛布を敷き、フードにクマの耳がついた厚手のつなぎを着せた真珠を寝転がした。
何も敷かないよりはマシだろうと軽く考えていたが、真珠は気に入ったらしい。
厚手のつなぎを着ているせいか、体を動かしづらそうではあるものの、寝転がったり、座ったり、真珠なりに楽しんでいるようだった。
真は引っ越しの見積もりで、50万円の節約ができたと喜んでいた。
去年の引っ越しの時に、真の勤務先が手配した業者は「市内の引っ越しですが、繁忙期なので60万円です」と、言ってきかなかったが、他社では「副支店長の男気割引を適用して、10万円ジャストでいかがでしょう」と、提案があった。
瑠璃が「この業者さん、安いけど大丈夫なのかしら」と、不安を感じているのを知ってか知らずか、真は「副支店長さんの男気に惚れました」と、独断で即決してしまった。
瑠璃は、追加で買ってきた、お掃除万能ウェットシートをシンク下の収納に入れようと、キッチンに入った。
(そういえば、この前来た時には窓に手形がついてたんだよな)
窓に目をやって、瑠璃は「嘘でしょ?」と、口元を手で覆った。
足元から頭の先に向かって勢いよく、鳥肌が立った。
綺麗に拭き取ったはずの手形が、また、そこにあった。
瑠璃はしまいかけたお掃除万能ウェットシートを持って、手形の前に立った。
手形は、細部まではっきり、くっきりしている点は前回の手形と同じだが、前回のものより明らかに小さい。
子供の手形なのだろうが、子供がこんな高い位置に綺麗な手形を残せるのか、瑠璃は疑問に感じた。
ウェットシートで手形を擦る。が、シートは窓ガラスの上をなめらかに滑るだけで、手形は消えない。
瑠璃はまさかと思って、玄関から自分のスニーカーを持ってくると、窓を開けてベランダに出た。
乾いた風が瑠璃の髪や頬を撫でていく。
瑠璃はもう1度手形の上にウェットシートを重ねて、力いっぱい擦る。
手形は、前回の手形と違って、すんなりと消えた。
「瑠璃さん、着いたみたいだから迎えに行ってくる」
真の声が部屋の中から飛んできた。



エアコンの設置業者が帰ると、瑠璃たちも帰り支度を始めた。
真はエアコンの動作確認のために上げたブレーカーを落とし、瑠璃はいつものように各部屋を指差し確認しながら回っていた。
瑠璃は最後にトイレに入って、便器の蓋を開けた。
暗くてはっきりとわからないが、いつもはうっすら白く見えるはずのところが黒っぽく見える。
瑠璃はスマホをライト代わりにして便器の中を照らした。
スマホの明かりに照らされて、茶色の何かが、封水の溜まる場所に詰まっているのがわかった。
よく見ようとしゃがみ込んで、便器を覗き込む。
「うげっ」
それが何なのか、認識した瞬間、瑠璃は反射的に顔を背けた。
「ねぇ、真さん。ちょっと来て!」
「どうした?」
真の呑気な声が返ってきた。足音が近づいてきて、止んだ。
「何?」
「誰かのうんこがある」
「はぁ? 嘘だろ?」
真は瑠璃の背後から便器を覗き込もうと、身をかがめた。
「グロ注意」
瑠璃は真に注意を促したが、遅かったようだ。
「……あ、本当だ」
真の声はトイレの薄闇の中に溶けていく。
瑠璃は便器の蓋を閉めた。
「ねぇ、いい加減、玄関の鍵変えようよ」
真はうつむいたまま、微動だにしない。
「知らない間にこんなことまでされてさ、なんとも思わないの? こんな、知らない間に誰かがしれっと上がり込む家なんて、私、気持ち悪くて住めないよ」
今までに瑠璃は何度も引っ越しを経験したが、こんなことは今までに1度もなかった。
自分の腹の中が熱を帯びていくのを、瑠璃は感じた。
真が、何かを思い出したように両手を叩いた。
「前に水道管の掃除に入った業者の仕業、じゃない?」
真はおどけてみせた。
瑠璃の腹の中がさらに熱くなった。
「あのね、あなたは知らないかもしれないけど、私、この家に来るたびに異常がないか、指差ししながらちゃんと確認してるのね」
瑠璃は大きく息を吐いて立ち上がった。
トイレは廊下よりも1段高くなっている。トイレの中で瑠璃が立ち上がると、廊下に立っている真と目線の高さが揃った。
「それに、水道管の掃除っていつの話よ? 去年の話でしょう? 去年ここに入ったかもしれない業者が腹痛に耐えかねてここに出したなら、ずっと前に見つけてるわ」
瑠璃の勢いに押されたのか、真が怯えるように後ずさりした。
「だいたい、今年に入ってから何?」
瑠璃は目を見開いて、腕を組んだ。
「8日に来た時には窓に手形がべったりついてて。まぁ、それは年末にこの家を見に来た小川家の誰かの手形かもしれないからいいとして、今日来てみたら、綺麗に拭き取ったはずのところに今度は子供の手形が、しかも外からつけられてたんだから」
真はぼんやりしていて、ちゃんと話を聞いているのか、よくわからなかった。
「小川家のメンバーで子供は真珠しかいないけど、真珠はベランダになんて出てないし、ましてやその手形、真珠の手より少し大きいのよ? ここのマンションはベランダにネットを張ってるから、外から誰かが上がったならネットが破れるはず。そうなると、玄関開けて入らないと手形はつかないって思わない?」
「……もう、わかったよ。鍵を変えよう」
真は面倒臭そうに声を絞り出したが、瑠璃の視線に気づいて、慌てた様子で「今すぐ変えよう。そうだな、そうしよう。僕、近所の業者さん探すよ」と、付け足した。
真は逃げるようにリビングに消えた。
瑠璃はもう1度、トイレの蓋を開けて、中を覗き込んだ。
スマホのカメラで便器の中を撮って、トイレの蓋を静かに閉める。
今、撮ったばかりの画像を拡大する。瑠璃は目を細めた。
茶色とも黒とも言えない塊に、まるでトッピングのように白いつぶつぶがついている。
(この、白くて丸いツブツブ、なんだろう)
もう1つ、妙な点に気づいて瑠璃は首を傾げた。
(これが人間のものだとして、お尻、拭かなかったの?)
濃い茶色の物体はあるが、使用済みのトイレットペーパーらしいものが一切見当たらない。
「気持ち悪っ」
瑠璃は、お掃除万能ウェットシートで丁寧にトイレのドアノブを拭いた。



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