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山手の家【第34話】

山手の家を正午頃にあとにして、瑠璃は駅に向かう途中で見つけた1ピースピザを数種類買い込んで帰宅した。
掃除のおじさんに言われた通りに管理会社に連絡を入れると、受付の女性から「わざわざ、ご連絡くださり、誠にありがとうございます」と、丁重にお礼を伝えられた。
「ここだけの話、中には勝手に住み始める方や、勝手に部屋を又貸ししてしまう方もいらっしゃいますので……」
受付の女性はそれ以上何も言わなかったが、女性の口調から察するに、管理会社も住人の管理に手を焼いているのかもしれない。

引っ越しまであと1ヶ月を切って、山手の家には以前にも増して足を運ぶ頻度が増えた。
自分たちの手で運べそうな荷物を少しずつ車に積み込んで運んでいる。
休日の昼下がり、山手の家で家具の配置を考えていると、だだっ広いリビングで真珠と一緒に寝転ぶ真が急に跳ね起きた。
「もしもし?」
しばらくは真の通話相手が誰かわからなかったが、真の話ぶりからして相手は優子のようだった。
通話を終えた真は大きなあくびをして、ごろりと横になった。
「信子さんの市営住宅の申し込みの件、落ちたんだってさ」
瑠璃は自分の耳を疑った。
「次の受付開始まで、信子さんはあの家にいてもらうしかないのか?」
真が両腕を枕にして、独り言とも、瑠璃に対して意見を求めているともともとれるようなつぶやきを口にした。
瑠璃は真の足元に座った。
「よく、同居家族からDV受けた人が一時的に避難するために住む『シェルター』っていうのがあるんだけどね。それのお年寄りバージョンもあるはずなんだけども」
真は上半身を起こして「そうか、そんなのがあるのか」と、食いつき気味に言うと、何やらスマホで調べ物を始めた。



とうとう瑠璃たちの引っ越しの日がやってきた。
瑠璃はここ数日、荷造りに追われてあまり眠れずにいた。
テレビもネットニュースも、「午後から天気は下り坂」と口を揃えて言う。
(なんとか荷物の搬入まで天気が持ってくれたら)
瑠璃の願いも虚しく、山手の家に引っ越し業者が到着する頃には雨が降り出していた。
荷物の搬出を見届けた真と真珠も、まさしく今、この雨の中こちらに向かっている。
最初にインターホンを鳴らしたのは、お揃いのつなぎを着て、引っ越し屋さんのロゴが入った帽子をかぶった若い男性たち数人だった。
彼らは部屋やマンションの共用部分を保護するための資材や、軽めの荷物を台車に積んでやって来た。
「マンション前の道路って、こんだけ広いのに引っ越しのトラックすら停められないんですね」
リーダー格っぽい、片耳にピアスをつけた細身の若い男性が埃のついた毛布を廊下に敷きながら苦笑いした。
「そんなことないはずですよ。向かいとかにも、よく停まっているの見ましたよ」
「そうなんですか? いや、僕らトラックを停めようとしたら警察が来て『警察署に行って駐車許可証もらって来い』って」
「え、いちいち許可取らないとダメなんですか?」
「しかも、許可証もらいに行ってる間にそこにトラック停めたら、駐禁切るって言うんですよ。しょうがないんで、ドライバーがトラックごと警察署に行って、許可証もらってます」
(なんだか面倒臭いところに来ちゃったんだな……)
瑠璃はベランダに出られる窓のそばに立って、レースカーテン越しに街の象徴であるタワーを眺めた。
「ちょっといいですか……」
いかにも春休みのバイト風の男の子が、慌てた様子でリーダー風の男性に耳打ちする。
「マジか」
耳打ちされた彼の顔色が変わった。どんな話をしていたのか、瑠璃には全く聞こえなかったが、リーダー格の男性は大股で玄関から外に出て行った。
(トラックが到着したのかしら)
ドアストッパーを挟めて開けっぱなしにしている玄関扉の向こうから、雨の音が聞こえる。
突然、雨の音が大きくなった。
リーダー風の男性が戻ってきた。
「お客さん、こんなことお話しするもんじゃないかもなんですけど」
男性は瑠璃のそばに立つと、ヒソヒソ話をするような声量で話を続けた。
「隣の隣に住んでるガタイのいい男、要注意です」
「どういうことですか? 何かあったんですか?」
「エレベーターから降りてきた男と、うちのスタッフが廊下ですれ違ったんです。相手はにこやかに挨拶してきたらしいんですが、男が703に入る直前に、急にぶつぶつ文句を言ってスタッフを睨んできたそうで」
引っ越し前に挨拶しておくべきだったか。
「表と裏でだいぶギャップがある人みたいなんで、要注意です。こちらはまだお子さん小さいし、気をつけた方がいいと思います」
「わかりました。教えてくださって、ありがとう」
703号室の人には早めに挨拶をしておいた方が良さそうだ。

引っ越しの翌日。この街に、みぞれの混じった雨がもたらされた。
寒さを見越して暖房をつけていたが、入り込む隙間風はとても冷たく、暖房の効き目は弱かった。
真と真珠の冬物はすぐ見つかったのに、瑠璃の冬物のパジャマや家着は荷物のどこかに入り込んでしまったようで、見つからない。
仕方なく、瑠璃は薄着で寝た。
これがどうもまずかったらしい。
瑠璃は見事に風邪を引いた。
(ヤバい、肺が痛い)
特に痛い、右側の肺に手を当てながら、瑠璃は深く息を吐いた。









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