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育児のつらいことって本当にそれ、育児なん?

やあ、僕だよ。
ここ2ヶ月、制約がある中でしか書いていなかったから、自由に書けるってこんなに気持ちがいい!

自由に書けることは、思いっきり大きな声を出すことに似ているね。
喋る相手すらほとんど夫と息子氏だから、大きな声で喋ることもめったにないし、なんというかその辺りの不足が満たされる感じがするよ。

さて、そんな自由に書ける喜びみたいなものにどっぷり浸っている記事(ここ3日のもの)を読んだら、筆舌に尽くし難い惨憺たる有り様だった。
これはインターネットで公開してもいいのだろうか?と思うほど、「違和感」があり、文脈の破綻と飛躍が過ぎるなと顔をしかめてしまった。

今回はその「違和感」を通して、僕なりの「育児」を定義づけしてみたよ。
もしかしたら「育児」つらいってなってる人の助けになるかもしれないし、より一層嫌な気持ちになるかもしれないね。ふふ。

じゃ、始めようか!

いくら読み返しても違和感がある

いくらと言うほど読み返せてもないのだけれど、ふとここ3日の記事を反芻してみると、奥歯になにか挟まったような、「こういうことが書きたかったんだっけ?」と首を傾げるような記事群だと思うに至った。 
基本的に自分の記事をつまらないと思わない性質だが、あまりに支離滅裂でとっ散らかりすぎていて、文章の流れが破綻している。

2ヶ月間、自由文や随筆を書かなかったせいではないか? 確かにそれはある。一切書かずに過ごしていたかというと、実のところ仕事は超スローペースで続けていたので少しばかりは書く筋力の衰えに待ったをかけたと言えるが、それでも見劣りはする。
時間をかけて推敲しなかったからではないか? 確かにそれもある。元々4時間かけて一つの記事を仕上げていたのだから、またそのくらいかけていればこれよりはマシだろう。そう、マシ、、ではあるのだ。

では、一週間でも続ける、あるいは時間をかければこの違和感を拭えるか? 否、それは断じて否。文章がまずくてとっ散らかっているのは元々の僕であるし、毎日投稿してた時だってそうだった。けれど、ここまでの根本的な破綻は少なかった(まったくないとは言いきれない)。そう、これは根本的なのだ。丁寧な推敲だの、文章の巧拙だのとはほとんど関係がない。

では、何故こんなことが起きたのか?

面白くて楽しい部分、つらくて苦しい部分

僕は育児を面白いと思っている。が、赤子爆誕からストレスを感じたり、寝不足になったりもしている。
前者は、動物飼育にも通ずる未知に接する楽しさと、ヒト一人の成長や行動のゆらぎの面白さである。後者は、赤ちゃんと生活していて直面したあれこれに僕の体力が追いつかなかったり、僕自身の能力不足が起因していた。

「結局、ストレス源は自分」の見出しがこの2ヶ月間を総括した考えであることは確かで、これがヒントになって違和感を解消する気がする。

要するに、ここで言いたかったのは「育児」のつらくて苦しい部分とは、果たして本当に「育児」なのだろうかということだった。僕がこの疑問を突き詰めずおざなりにしたために、数日違和感がある記事を書いていたようである。

では、ここで「育児」の定義づけをしてみよう。
僕が思う「育児」とは、子どもが健全に過ごせるよう保護者(主に大人たち)がサポートすることだ。健全の程度は、食事を満足に摂れるようにしてやり、病気にならないよう清潔かつ快適な空間を整備すること。命の危険にさらされるものも遠ざけるべきだ。
また、人間は大脳が発達しているかしこい、、、、動物である。赤ちゃんたちが「大脳を使いたい欲」を満たせるような何か(個体差があるため、試行錯誤する必要がある)を用意してあげるのも、ヒトの「育児」だと思う。

これ以外を「育児」ではないとするならば、なるほど、僕が言っていることもあながち破綻してはいないのだ。つまり、僕はこの「育児」を面白くて楽しいと言っているわけで、これ以外の、「育児」を装ってはいるがこの定義に沿えば「育児」ではない雑事に、ストレスを感じているのである。

寝返り遅いって言われて気にするのは育児じゃない

息子氏は僕の権限でいろんな所に連れていかれる。彼自身、家にいて転がされたままだと飽きた顔をするし、延々抱っこするより外に出た方が楽である(僕が息子氏に触りたくて結局すぐ抱っこするのだけれど)。

それでこの間、母と妹とちょっとした小旅行をした。息子氏はそれなりに周囲を見渡し、しかし自身の睡眠ルーティンからは逃れられず、ほとんどの時間を静かに過ごした。そんな折、母から姪たちと比べ「寝返りが遅いのでは」と言われた。
「寝返りが遅いだと?こいつが寝返りが必要になったら寝返りするんだ!遅いも早いもあるか!だいたい僕に至ってはずいぶん後まで寝返りしなかったらしいじゃないか」等と口の端に泡をつけて怒鳴り散らしてやろうかと思ったが、甘えてくる姪たち(すこぶる可愛い)の手前、ぐっと黙った。僕の妹は困ったような苦笑いのようなとても変な顔をしながら、「その子それぞれだから」ときっぱり言った。ちなみに彼女は保育士である。

例えばこれを「育児」の嫌な面としてカウントするか否か、と考える。
否、これは「育児」の嫌な面ではない。母の無遠慮は今に始まったことではなく、別に「寝返りが遅い」でなくとも嫌なこと(しかし母にとっては気にもとめないこと)は結構言われてきた。今、僕が「育児」をしているから共通話題としての「育児」なだけであって、単なる人間同士の合う合わないの話である。

「育児」のつらさって、言い方が雑なんだよなあ

しかしながら、保育士プロである妹が「寝返りが遅い」発言に変な顔をしてしまうほど、「育児」は雑事との区別が付きづらい、あるいは「育児」をしていることで雑事が大事になりやすいのは確かだ。

それでも僕は声を大にして言いたい。何か言われて気にするのも、自分の時間がなくなるのも、それは「育児」のつらさではない。人間関係と夫婦間オペレーションの問題だ。
ちなみに子どもが可愛くない問題も、厳密にこの定義に沿えばほとんどの場合、「育児」のつらさではなくなると考えている。例えば泣き声が大きくて苛立つのも、他の部屋に行くか、他の人に預けるか、いかようにも対策が取れるはずだ。

つまるところ、対策を取れない自分の無力さがつらいのであって、「育児」のつらさとして十把一絡げにするのはいただけないなと、僕は思うのである。概ね大人が悪いのだ。

僕が「育児」楽しいのは無意識に区別していたからかも

初めての予防接種は出産した病院とは別の小児科専門病院に行った。滞りなく3本(!)の注射を済ませ、息子氏を落ち着かせていたら看護師さんから「2人目ですか」と聞かれた。僕は例のごとく、どもりながら否定する。次の質問は「そういうお仕事してますか」。

実はこの質問をされたのは初めてではない。新生児室でも何人かの助産師さんに同じような質問をされていた。母子保護の観点からコミュニケーションが必要とかそんな感じで、助産師マニュアル(?)か何かに書いてあるのかと勘ぐったくらいである。

「えー…あー、動物の飼育は仕事でしてたので、それで、ですかね」
「え!保育関係じゃないんですか?落ち着いてますね!でも確かに赤ちゃんも生きものですもんねー」

看護師さんは一人で納得したように息子氏や僕ににこっと笑いかけた。
思い返すとこの会話が、言語化してなかったにしろ、すでに僕の中に「育児」の定義が存在していたことを示唆しているかもしれない。
僕は経験則としてあらゆる生きものが訳のわからないものであり、特に赤ちゃんはすぐ死ぬものだと知っていた。であれば、生かす「育児」とはどういうものか、もしかしたら僕の知らない僕が考えてくれていたのだろうと思う。

そもそも昨日の投稿からして、寝不足でつらかったらしい、、、時もアルバム2枚分歌って楽しんでいるし。僕が忘れっぽいのもあるけれど、無意識に定義に沿って区別していたから「息子氏と一緒にいて一日たりともつまらない日や辛い日はない」と言いきれたのだ。

そして、「育児」の定義はきっと変化する。僕の息子氏はあっという間に赤ちゃんじゃなくなり、子どもになり、大人になる。一個体がこんなに変化し、「育児」できる生きものは他にいない(いたら飼育してみたい)。
正直、元々好きとは言えない人間を「育児」するのだから、きっとつらいことは死ぬほどあるのだろうなと震えてもいる。
それでも、それは本当に「育児」のつらさなのかと自分の中の定義に照らし合わせれば、つらさを解消する糸口にはなりうると、今の僕は考えているのである。

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