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世界を変える有能は本当に幸せか『劇場版魔法少女まどか☆マギカ』

※こちらは『[前編]始まりの物語』『[後編]永遠の物語』についての記事です。

やあ、僕だよ。飽き性ちゃんだよ。
昨日、ワクチン二回目打ってから腕と喉がかすかに痛かったのだけれど、まどマギ観て痛みがほぼなくなってきたんだ。
副反応軽め体質だったのかなと思って、念のため全部見終わった後に体温を計ったら三七.五度あったよ。うーん、これは副反応?それともまどマギのせいで号泣したから?
ところで、今日は『魔法少女まどか☆マギカ』のキャラクター、鹿目まどかの誕生日なんだ。それで選んだのがこちらの映画。
さあ、僕と契約して、このnoteを楽しんでよ!

映画あらすじと感想①

『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[前編]始まりの物語/[後編]永遠の物語』新房昭之
Netflixで視聴。今年十周年を迎える「魔法少女まどか☆マギカ」シリーズ(以下まどマギ)の劇場版である。「それでも町は廻っている」「化物語」のシャフトが製作、脚本は虚淵玄、音楽は梶浦由記と見る人が見ればおや、となる布陣ながら、キャラクターデザインの原案が「ひだまりスケッチ」の蒼樹うめであることで色んな人が騙された(もちろん僕も騙された)。
テレビシリーズ放映時は衝撃の三話以降、「血だまりスケッチ」などと揶揄され(愛され)つつ、最終的にはここまで息の長いコンテンツとなった。

以降の文章はまどマギのネタバレを多分に含んでいる。
十年越しに初めて観ようという気になった諸君はぜひ視聴後にこの先をご覧になっていただきたい。

映画あらすじと感想②

希望と絶望が交差する少女たちの、リリカルマジカルで残酷な現実。簡単に主要キャラクターが脱落するのに一向に希望は見えず、物語が進めば進むほど事態は悪化していく。シナリオ上救いようのない死が必須だと悟った時、僕らはもうまどマギの虜になっている。
そんな僕はこの十年、まどマギを繰り返し観続けてきた。
震災の時不安な心を支えてくれたのもまどマギ、元カレのモラハラに絶望した時もまどマギ、病んで会社を辞めた時もまどマギ初代(パチスロ)を打って回復した(以下の記事は僕が病んだ時の話)。

それ以外にも事あるごとに僕はまどマギを観ている。掃除したくない時もまどマギ、料理する時もまどマギ、何もなくてもサムネイルを見たらまどマギ、だ。
しかし、巴マミ脱落回、今までとは違うエンディング「magia」が流れたあの演出に痺れた僕である。実は何度も繰り返し観たのはテレビシリーズで、劇場版は映画館で一度観たきり観ていない。

九年ぶりに観た劇場版は、素晴らしかった。

四千カットにも及ぶ書き直しとテレビシリーズを経た声優陣のキャラクター解釈の深さ、椅子やさやかのブローチ、杏子のお菓子、追加演出など変化は枚挙にいとまがない。
いや、変化ではない確実な進化、だ。
他の人に布教する時、テレビシリーズでも劇場版でもどちらでもいいなんて勧めていたが、これからは絶対に劇場版をおすすめする。
何度見てもさやかがまどかに迫るシーンや杏子の殉職シーン、ほむらの過去、「絶望する必要なんて、ない!」は号泣してしまうんだよなぁ。

何を犠牲にしてその願いを叶えるのか

鹿目まどかはその因果が彼女に絡みついた結果、魔法少女としての莫大な素質をその身に宿していた。
最終的には世界を根本から変化させる概念と成り果てるわけだが、それは彼女の存在を犠牲にしての変革である。
彼女以外にとっては「救済」であったとしても、暁美ほむらにとっては「絶望」でしかない(だから新編は『叛逆の物語』)。
こういったケースは現実でもあるだろう。命を削って会社に尽くし成功した経営者が、家族との時間が取れず、健康を害して短命だったり、保護猫ボランティアで実績を残している団体の活動資金が賄えず、スタッフが困窮しているとか。
そんなに大げさでなくても、仕事のできる人ばかり仕事が溜まるのはよくあることで、それに対して文句を言ったり追加の仕事を断るならいざしらず、こなしきってしまう「有能」もたくさんいる。
遠巻きの人間はこういった「有能」さに恩恵を受けるが、ごく近い人間(家族や恋人)は「有能」さなどどうでもよくて、その本人が十分に幸せで豊かであることが何より大事だと思っている。
だからこそ、社会で成り上がる人には冷徹さが求められることが多いのかもしれない。冷徹で嫌な奴であってほしい、僕は特にそう思っている。
概ね「嫉妬」であるこの感情の中には、成功することへの憐みが無意識に混じるように思う。その憐みは、成功するために引き換えにした「犠牲」が垣間見えるからに他ならない。

願いを叶えたら幸せになるに決まってる

僕は努力した人がきちんと評価される世の中になればいいと常々思っているのだが、それと同じくらい、努力をやめてしまった時も息が詰まらない世の中になればいいと思っている。
ライフワークバランスという言葉が馴染んでから久しい。むしろわざわざ持ち出すことも少なくなった(それくらい当たり前になったのだ、これはとても良いことだ)。
さらに時代が進んだら、(僕ごときが傲慢にも)憐みを持つこともなくなるだろう。大きな時代のうねりが、有能な人だけを「犠牲」にして利益を得ることを許さなくなりつつある。
そうしたら大手を振って「嫉妬」出来る。いいな、あの人成功してるんだって。僕もああいう風になりたいなと素直に思うことが出来る。

だって世界を変えた鹿目まどかは言っていたじゃないか。
「本当にそれが叶ったんだとしたら、私だってもう、絶望する必要なんてない」と。

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