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マゴソスクール in キベラスラム

ケニア・ナイロビには、ナイロビの約6パーセントの面積にもかかわらず、約200万人から250万人と言われるほどの人口を抱えるスラムがあります。そこはキベラスラムと呼ばれ、東アフリカでは最大の規模です。そしてこのスラムの一角にマゴソスクールという学校があり、日本人の早川千晶さんが、創設者であり親友のリリアンさんを支える形で運営されています。

マゴソスクールでは4月3日にファッションショーが開催されました。それに合わせて、キベラスラム・マゴソスクールのスタディツアーにも参加したので、その様子をお届けしたいと思います。

〇小さく大きいキベラスラム

(住人の生活環境にあたる部分は撮っておりません。文章から想像していただけたらと思います)
冒頭にてお伝えしたように、ケニアの首都に広がる大きなスラムがKibera slum(キベラスラム)です。キベラスラムの歴史は植民地時代に遡ります。現在のケニアと呼ばれる場所はイギリスに植民地支配を受けましたが、この地にはイギリス人だけでなく、ヨーロッパ各国から新開地を求めた白人たちがやってきました。彼らがケニアにやってくると、標高が高く農業のできる場所をホワイトハイランドとして、換金作物などをつくる彼らのための農地としました。

ここでやってきた白人たちの多くは没落貴族であり、そのほとんどは母国で労働などしたことがありません。開拓を楽に進めたい彼らは、地元住民を安価な労働力として使います。ケニア人たちは自由な行動を禁止され、税金制度が作られ、納税や労働を強要されます。その際、植民地政府と市民の間に立ち、徴税などを強制的に行う存在(=支配者層)が作られ、格差も生まれます。その構造を残したまま独立したため、独立時点ですでに貧富の格差があり、土地を失った農民も多かったそうです。

ケニアを統治するために、イギリス政府はエジプト軍を連れてきますが、実際はスーダンのヌビア人(スーダンのナイル川沿いに住む民族)達でした。彼らが住まわされた兵営宿舎が建っていたのが、現在のキベラスラムがある場所です。

その後彼らは英軍として世界大戦にも利用されますが、戦後も元の場所に連れて帰してもらうことはできず、当時何もなくブッシュだったナイロビに住むことになります。他に行き場所もない彼らは、かやぶき屋根の長屋を建てて、そこで生活を始めます。これがキベラスラムの原型です。

そこからさらに後、イギリス政府はケニアで都市計画を始めます。白人と黒人の住み分けを進め、標高が高く広大な土地に白人、標高が低く狭い土地に黒人が住むよう求められました。

地元の人々やヌビア人を使って鉄道も作られ、その中間に現在のナイロビが、都市として人工的に作られたのです。都市計画の一環として、キベラスラムも黒人居住区に強制移動させられそうになりましたが、無理やり連れてこられた上、再度追い出されそうになったヌビア人たちは「やっと安定してきた生活なのに…!」と抵抗を始めます。都市計画の犠牲になった人々や生活に困窮している人々をキベラに受け入れて人数を増やし、長屋をたくさん作りました。これにより、イギリス政府は手を付けられなくなり、なんとかキベラスラムは生き延びることができました。その後も貧困者などを受け入れながら、独立直前の1992年には2万人程度だったキベラは、現在約250万人も抱えると言われる、東アフリカ最大規模のスラムとなりました。現在は、ヌビア人の末裔たちが、政府に土地の権利を求めて訴訟を起こしているのだそうです。

キベラスラムを丘の上から見た様子

スラムであるためもちろん政府から認可されていませんが、この歴史あるスラムでは、スラム内で経済が巡回しつつも、スラムの外とも関わりを持つことで経済が成り立ち、公共サービスは政府から提供されていないため、自分たちで行っています。特徴的だったのは、廃棄物から再生させた様々な道具たちです。集めてきた不燃ごみを再利用し、全く新しいものを作り出します。例えばリモコンや壊れたラジオなどは、再利用するための部品として販売され、そしてその部品を使って作り出した子ども用のおもちゃなども販売されているのです。キベラスラムの再生品はレベルが高く、ウガンダなどの隣国でも評判だそうで、歩いて売りに行くこともあるようです。

不文律ではありますが、住民たちはルールを共有し秩序を保っています。スラム内でコミュニティが成り立ち、互いに助け合って彼らは生きているのです。キベラスラムを案内してくださった早川さんによると、彼らはコミュニティの中に生き共に生活しているからこそ、キベラ内でビジネスをすることができ、例え外からビジネス上手な人が来て商売を始めても、続けることは難しいのだそうです。

現在のキベラスラムも、たくさんの長屋によって成り立っています。一つの長屋に何家族も暮らしており、訪問した家庭には3部屋で17人も生活していました。ほとんどの長屋は賃貸で、一部屋約6畳当たり3000円ほどで借りています。電気はプリペイド式で購入して得ているようですが高いため、電線を引っ張ってきて自分の家に電気を通しています。キベラの元々の家は土壁にトタン製の屋根、といったものでしたが、土を入手することが難しくなり、現在一番安いトタン製の家が多くなっています。そのため、配電の関係で壁を触ると感電するという、とても危険な家に住んでいる家族も少なくありません。火事を引き起こすこともしょっちゅうだそうで、そうなると、沢山の家族の家がつながっている長屋では、一軒から始まった火事によって何十軒も被害に遭ってしまいます。(火を消すための大量の水を得られないため、江戸方式「家を壊して回る」ことで被害を最小限にとどめるという手法を用いており、より多くの家が被害に遭ってしまいます)土製であれば感電や火事は免れますが、前述したように手に入りにくくなっており、また雨により崩れる心配もあります。そういった諸々の心配のいらない石製は、トタン製の4倍の価格であるため、住民が新しく家を建てる場合トタンを選ぶ事が多いのです。キベラスラムは人口がどんどん増えているため、限られた土地の中で平屋を作り続けることは難しくなり、現在は2階、3階建てと縦に増築しています。新しい住人や火事で家が無くなった住民は、日本で言う敷金・礼金を支払えるようになるまで、誰かの部屋に居候するので、その間は一部屋が大渋滞するそうです。そうなってでも困っている人がいれば助けようとする彼らの優しさ・寛容さは素敵だなと思います。

キベラにはたくさんの子ども達がいますが、彼らが夢中なのがサッカーです。スポーツ奨学金で学校に通っている子がいたり、Jリーグに抜擢された選手もいたようで、子ども達にとっては、サッカーは大好きなスポーツであると同時に夢のあるものでもあります。空腹を紛らわせるためにシンナーを吸う子が多いという大きな問題がありますが、それを解決するのにもサッカーが使われています。サッカーをすることで、シンナーを吸わなくても別のことへの集中によって気がまぎれ、また運動によって健康にもつながります。空腹を満たすことはできなかったとしても、夢を持つことで前向きに頑張ることが出来るのです。子ども達を見守る大人たちもその効果に気づいており、自分のチームを結成し、監督をしたりスポンサーを見つけてきたりするなどして、子ども達を支えています。

女性たちも活発に活動をしています。ビジネスをする女性も見かけましたが、チャマと呼ばれる貯蓄グループを作っている方々も多いようです。チャマ自体はキベラだけでなく、ケニアで一般的(規模も様々でお金持ちもする)ですが、ここでは、特にメリゴランドと呼ばれる貯蓄方法をとっています。それは、メンバーが定期的に定額を貯金して、その合計をその週の担当者がもらい、それを順番に回していくことで定期的にまとまったお金が入る、という仕組みです。貯蓄が難しく、得たお金はすぐ使ってしまいがちな貧しい生活の中でも、これによって計画的なお金の使い方がしやすくなります。

このように、キベラスラムという狭いながらも大きいコミュニティの中で沢山の人が工夫を凝らしながら巧妙に生活しています。

〇大好きな親友とキベラのために働く早川千晶さん

そんなキベラスラムにいち早く魅了された日本人が、早川千晶さんです。早川さんは1987年から陸路で世界中を旅してまわり、アフリカの、ケニアの、キベラスラムに出会います。キベラスラムの人々の、あの手この手で生きる姿が面白く、みんなと友達になったことで、彼らと関わって生きていくことを決めました。今ではケニア人の旦那さんをもち、ケニアに30年以上住むジャパニーズケニア人です。現在はマゴソスクールでの活動の傍ら、旅をしてきた経験を使って、テレビの取材や旅行をコーディネートする仕事をしていらっしゃいます。

リリアンさんと早川さん(洋服はもちろんリリアンさんの手作りです)

〇大きな家族「マゴソスクール」

そして早川さんの親友であり、キベラスラム出身のリリアン・ワガラさんが1999年に始めた寺子屋がマゴソスクールの始まりです。彼女は19歳の時に両親を亡くし、長女として18人の兄弟姉妹たちを育てていましたが、その同世代の子ども達を見捨てることは出来なかったのです。当時20人ほどだった子ども達は、現在では幼稚園児から小学8年生までの約500人の規模へ、建物も長屋の一角から、2階建ての建物が2つという大きな施設へと拡大しました。

子ども達は孤児やストリートチルドレン、虐待を受けた子ども達などで、帰る場所のない子ども達はマゴソスクールで生活しています。リリアンさんが母親として携わりながらも、大きい子が小さい子を世話し、家族のように暮らしていました。

地域のコミュニティセンターの様な役割も果たし、避難場所になったり、大人たちも食料がないなど困っているときは、マゴソスクールにやって来ます。しかし、さすがコミュニティが支え合っているキベラスラムの住人たちは、どんなに困っていても子ども達を押しのけてまで助けを乞うことはないそうです。私の訪問時も、大人たちが子ども達の給食の様子を静かに見守りながら自分たちの順番を待つ様子が見られました。

マゴソスクールは8年生で卒業だそうですが、その後はマゴソOBOG(高校生、大学生、社会人)として活動を始めます。23年たった現在はジェネレーション15までいるそうです!彼らはとても自立していて、マゴソスクールの重要な電気供給システムである太陽光電池や、新しいITの授業のカリキュラムなどは彼らが自ら作ったそうです。早川さんやリリアンさんが指示を出したりせず見守っているだけでもOBOGを中心に、上の子が下の子を守る形で、日々が動いているようです。

分かりづらいですが、赤丸内ソーラーパネルです

〇家庭訪問

マゴソスクールが奨学金を支援しようとしている子どもの家庭も訪問させていただきました。2か所訪問しましたが、そのうちの一つ、今度高校に進む女の子を紹介します。

妹(左)、お母さん(中央)、女の子(右)

彼女はキベラスラム中でもトップクラスの成績だそうで、勉強のモチベーションを聞くと、「お母さんが苦労していることを知っている。お母さんを助けたい」と話してくれました。その女の子は、将来ジャーナリストになりたいという夢を持っていました。得ることの難しい遠くの情報をケニア中に届けたいのだそうです。中でもテレビに出るジャーナリストになりたいようで、それはキベラの生活や様子を知らない人に見せたいからだ、と言っていました。同じ夢を持つ同志として凄く共感しましたし、とても刺激を受けました。彼女の様な若い世代が、活発ながらもたくさんの問題を抱えるキベラをより良くしていってくれるのだろうと思いました。

〇華やかなファッションショー

準備はなんと朝4時から始まり、片付けは次の日まで続くという、大規模なファッションショーでした。しかしここでもマゴソOBOGが大活躍しており、彼らが率先して仕事や作業を進めてくれていました。リリアンさんが当日までに150着の洋服を全て手作りし、マゴソスクールの子ども達とその保護者、近所の子ども達がその素敵な洋服を身に付けます。当日は日本人訪問者とマゴソOBOGも加え、約1000人もの人々が大集合しました。

参加者みんな楽しそうで、誇らしそうで、嬉しそうで、日本でいう体育祭の様な、みんなで作り上げて一致団結できる日なのだなと思いました。彼らにとってはこの日は晴れの舞台で、非日常であるとともに、普段はなかなかない多くの人に注目され認められる日でもありました。早川さんも「この日を境に、またさらに前に進めるようにと思って、1年に1・2回開催しています」と仰っていました。

ファッションショーのほかにも伝統ダンスや楽器演奏、各代表スピーチがあり、最後はケーキカットで締めでした。今回のケーキはなんと早川さんとマゴソスクールの写真入りケーキのサプライズで、早川さんはとても嬉しそうでした。

〇感想

この3日間はとても楽しく、子ども達はとても可愛かったです。しかし、ぱっと見普通の子ども達でも、やはり小さいころから大変な思いをしている子が多いのが現実です。そのバックグラウンドを知らないで、もしくは見ないで関わるのは失礼だと思うので、私はその状況をきちんと理解した上で、でも色眼鏡なく接したいと思いました。笑顔だからといって「彼らは幸せなんだ、現状に満足してるんだ」というわけではないし、かといって「可愛そう、助けなきゃいけない」というのも違うと思います。大変ながらも、人々が協力しながら工夫しながら生きている、その中にある家族の様なコミュニティに日本人が関わっていて、それを日本人に伝えてくれているのはとても有難いことだなと思います。これからもキベラスラムとマゴソスクールは、一つの大きなコミュニティとして続いていくだろうし、同時に人々にとってより良い場所になっていくと思います。マゴソスクールを支える会を中心に、私も含めた日本人がそこに関わっていけたら素敵だなと思います。

早川千晶さん(マゴソスクールの情報)
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