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主人と奴隷の弁証法

0.推論としての弁証法とその背景について

何かを考えるとき、または因果関係などを推論するときに、様々な推論形式がある。一般的にはロジックや形式論理などでいうと、演繹法や帰納法などが真っ先に思い浮かぶ。弁証法もそれらの推論方法ではある。しかしそれらとは趣の異なってはいるものの、大切な推論方法であるといえよう。簡単に言ってしまえば、対立・矛盾する2つの概念から、それを解消してより高次の概念に発展させるという考え方である。推論の結論は必ずしも正しいものになるとは限らないが、様々な結論を導く可能性のある強力な推論でもある。

まずこのような思考形式の背景としてヨーロッパの哲学について眺めてみることにしよう。一般的に英仏独の思想の潮流があげられる。フランスの合理論、イギリスの経験論、そしてドイツの観念論がそれである。前2者を総合的に発展させたのが18世紀のドイツの哲学者イマヌエル・カントである。そしてそのカントの哲学的功績を19世紀に批判・発展させることで形成されたのが、ドイツ観念論German idealism;Deutscher Idealismusである。ここでいう観念とは、対象についての意識・考えを意味し、したがって、ドイツ観念論は、意識や精神的な働きと、それによる世界の理解を考える思想の流れであるといえる。ドイツ観念論の代表的な哲学者には、フィヒテ、シェリング、そしてヘーゲル等がいる。

このドイツ観念論の中で、ヘーゲルによって打ち立てられたのが、弁証法dialecticだ。その萌芽は、古代ギリシアの哲学者プラトンやアリストテレスの時代から既にあった。ヘーゲルが、それをより洗練して理論付けたと言えよう。こうした背景からも察することができるが、弁証法は、推論方法というよりも、世界の理解の仕方といった意味合いが強いかもしれない。とは言え、弁証法の発想方法は、非常に強力で、論理的思考でも活躍する有用なものでもある。また、思想や世界の理解の仕方といった意味合いが強いが故に、本来、弁証法は演繹法にも帰納法にも分類されない。しかしながら、正しい推論だとしても結論が必ずしも正しいものになるとは限らないという意味で、演繹法ではなく広義の帰納法に分類される場合もあるようだ。
さてそれらの背景を眺めたうえで、早速、弁証法そのものについてみてみるようにしよう。弁証法は、簡単に言うと、正―反―合の止揚過程をたどる推論方法である。これだけではどういうことかさっぱり分からないので、弁証法を構成している、「正」、「反」、「合」、そして「止揚」の4要素についてそれぞれ詳しく見て行くことにしよう。

1.弁証法の一般的な理解

まず正は、定立とも言われ、ドイツ語ではテーゼthese、英語ではthesisであり、一般的には、「論文」や「命題」と当てられる。つまり、正は、正しいとされているある1つの考えという意味になる。今まで使って来た用語に即して言えば、正しいとされた命題といったところだ。次に反は、反定立とも言われ、ドイツ語ではアンチテーゼantitheseだ。英語では、antithesisで、anti- が「逆の」とか「反対の」といった意味を持つので、「antithese」は「反対の」「these」という意味になる。それで日本語において「反」の字があてられ正の反対の意味になる。要するに、反・アンチテーゼは、正・テーゼに反する別のもう1つの考えという意味になる。つまり、正しいとされた命題を否定するような命題ということになる。そして、合は、総合とも言われ、ドイツ語ではジンテーゼsynthese、英語では、synthesis となる。syn- が「共に・同時に」「類似の」「合成の」といった意味を持つので、「synthese」は、「合成の」「these」という意味になる。「A と B 共に」「A と B が類似して」のように、「共に」「類似の」といったものは対象が2つないと成立しない言葉だ。2つの事物は対等な位置づけでないと、「同時性」や「類似性」は見つけることができない。2つの事物の対等だと考えることは、異なる2つを「合成して」考えているとも言える。すなわち、合・ジンテーゼは、正・テーゼと反・アンチテーゼが両立できるように統合することが可能な1段進んだ本質的な考えという意味になる。換言すると、正しいとされた命題とそれを否定する命題を合せた命題と言える。

最後に、止揚とは何かについて考えてみよう。正―反―合のそれぞれの意味を説明したが、正と反が統合されて合になることが分かった。そこで、正と反の関係をよく観察して、どのように合に統合されていくかを分析してみよう。正が、正しいとされているある1つの考えであって、そして、反がその正しいとされているある1つの考えに反する別のもう1つだ。定義から分かる通り、この正と反の両者は対立するものであり、お互いに矛盾する関係にあることが分かる。この対立して相互に矛盾する正と反は、その対立関係にあることを以って、相互に結びついている。対立するということは、何かしらの関係が必要になるから。何の関係もなければ、対立すら生まれない。そして、正の中には、自己を否定する要素が元々存在している。その結果、正しいとされているある1つの考えを否定する反が生じる。それ故に、正と反は対立関係にあることになる。この対立と矛盾の関係によって、正と反は相互に否定し合うことになる。

その結果、正と反の相互対立と矛盾を解消して、正と反の両方の本質を含んだような考えが生まれ、これが合であり、ジンテーゼである。合は、正と反が「両立」できるように「統合」することが可能な1段進んだ本質的な考えを意味した。確かに合は、正と反の対立と矛盾を解消している点と、正と反の両方の本質を含んでいる点で、「両立」と「統合」を達成している。そして、「両立」と「統合」が達成された考えであるために、「1段進んだ」考えで、正と反よりも「本質的な」考えと言うことができる。また、否定の否定は二重否定で、二重否定は肯定になるのが論理学の約束事であることを思い起こそう。正は反を否定し、反は正を否定している。つまり、正は「反ではない」ということであり、反は「正ではない」ということになる。二重否定は肯定という論理学の約束事を守れば、正は「『正ではない』ということはない」となり、結局のところ「正である」ことになる。

しかし、弁証法では、この相互の否定を、二重否定で単なる肯定と捉えず、高次の肯定と捉える。単なる二重否定の肯定ではなく、高次の肯定だから、正と反が本質を含んだ形で「両立」するように「統合」され、1歩進んでいるわけである。この正と反から合が生まれる過程を止揚aufhebenと言う。止揚は、正と反が相互に対立と矛盾が解消され否定し合うことを「止」め、正と反を両立し統合する1つ進んだ本質的な考えに「揚あ」げることだと言えよう。なお、注意点として、正と反には価値の優劣は基本的にない。正だから優れているわけでもなく、反だから劣っているわけでもない。正と反は相互に対立関係にあるだけである。また、正と反の対立関係は、正自体に矛盾する要素があることから、反が生じていることである。やや強引に記号化すると、
まず正として「A は B である」が存在。これに対して、反として「A は C である」が現れる。<正> A は B である、<反> A は C である。この正と反は、相互に対立して矛盾した関係にある。この場合、「B」と「C」がお互いに対立している。したがって、お互いに否定し合う。しかし、定義から分かる通り、「A」は「B」であり、「C」でもあるので、正の「A は B である」とは、「A は C を内包する B である」と言え、反の「A は C である」とは、「A は B を内包する C である」と言える。この相互に対立・矛盾する正と反をアウフヘーベンすることで、合が導かれる。合は、正と反が両立し統合する本質的な1歩進んだ考えなので、「A」が持っている「B」と「C」の両方を併せ持つことになる。つまり、合は「A は B であり、同時に C である」ということになる。

 ヘーゲルは、このように事物は変化を続けて発展していくものと考え、そして、この変化の法則を弁証法と呼んだ。事物は変化を続けて発展していくので、合が1度できれば終わりということにはならない。その合を正と再度捉えなおして、それと対立する反が新たに現れ、再びアウフヘーベンされる。そして、新たな合が生まれることになる。この変化がいつまで続くのかは、分野や学者によって争いがある。ある均衡点、つまりバランスがとれた状態まで行くと終わると考える人もいれば、いつまでも際限なく永遠に続くと考える人もいる。ある均衡点まで続くということは、いわゆる理想的な状態が達成されることになるので、そこには矛盾も対立もなくなるわけである。このようにある均衡点で変化・発展が終わると考えた人が、社会主義や共産主義で有名なドイツの経済学者マルクスである。マルクスは、資本家つまり金持ちと、労働者つまりは貧乏人の対立関係が解消され、共産体制に至ることで、すべての矛盾や対立がなくなる理想郷ができると考えた。逆に、際限なくいつまでも続くというのは、常に対立・矛盾し続けるため、永遠に変化を続けていき止まることはなくなる。これは、ポスト構造主義や脱構築主義のフランスの哲学者デリダが有名である。デリダは、事物の構造は人の価値観が入り込んでいるが、その構造について新しい見方を示すことで既存の価値観を相対化することで、新しい価値を提示すると考えた。意味が分からない人は、「事物の構造」を、「事物の関係」と捉えてもらえば若干わかりやすくなる。「既存の価値観」は、「固定観念」とも言い換えられる。

つまり、私達は、固定観念の下に事物の関係を理解しているが、事物の関係の新しい見方を提供することで、その関係は別に正しいことであったり、優れたモノであるわけではなく、本質とは特に関係がないものだということを示すわけだ。これを脱構築と言う。こうして脱構築されると、固定観念とも言える既存の価値観の正当性は揺らぎ相対化される。そして、事物の構造、つまり、関係は、常に変化し続けていくわけである。いずれにしろ、事物それ自体に、あらかじめ対立や矛盾を持つ要素が存在しており、その対立と矛盾によって発展すると考えるのが弁証法と言えよう。

2.さらに次元をメタから降ろして

まさに観念的な話をしてしまっているので、弁証法の定義の説明だけを聞いてもよく分からないかもしれない。そこでこの項においては、具体例を使って、弁証法の理解を進めていきたい。実際にヘーゲルも、「蕾つぼみ」と「花」と「果実」を使って弁証法の説明をしていた。どういうことかと言うと、まず「蕾」が存在する。その「蕾」は「花」が咲くことで消える。そして、その「花」も「果実」がなることによって消える。ヘーゲルは、「蕾」から「花」へ、「花」から「果実」へというこの一連の変化を弁証法として理解した。では、弁証法に当てはめて考えてみよう。
正・テーゼは、「蕾」。
しかし、「蕾」はやがて花開くことになるのは誰もが知っている。
やがて「蕾」は「花」が咲くことで消えることになる。
つまり、反・アンチテーゼが、「花」。
このとき、正である「蕾」と、反である「花」との関係は、相互に矛盾し対立したものである。「蕾」の存在は、「花」の存在を否定。また「花」の存在も、「蕾」の存在を否定している。
両者の対立は、「花」が咲くことで「蕾」を否定して捨て去ることで解消するのではなく、「花」もやがて「果実」となり消え去る運命にある。
つまり、「果実」が、合・ジンテーゼ。
これは、合の「果実」が、「蕾」と「花」の対立・矛盾関係を解消し、両者の本質的部分を含みながら発展していると考えられる。つまり、止揚・アウフヘーベンだ。

「蕾」―「花」―「果実」は、その見た目は全く変わっているのに、同じモノが変化して姿を変えたのだと私達は理解できる。これは、「果実」が「蕾」と「花」の本質を保ちつつ、その矛盾を解消したモノだからと説明できるわけである。このように、弁証法は、正―反―合の発展的な変化の法則を表している。もう一回記号化しつつ当てはめてみよう。

<正> 果実は蕾である
<反> 果実は花である

この正と反が相互に対立し矛盾するため、否定し合うことになる。その結果、正は「果実は花を内包する蕾である」に、反は「果実は蕾を内包する花である」に修正される。

<正> 果実は蕾である
<反> 果実は花である
↓<正>と<反>は相互に対立・矛盾
<正> 果実は花を内包する蕾である
<反> 果実は蕾を内包する花である
合・ジンテーゼは、正と反が両立し統合する本質的な1歩進んだ考えなので、「果実」が持っている「蕾」と「花」の両方を併せ持つことになる。つまり、合・ジンテーゼは「果実は蕾であり、同時に花である」ということになる。そこで、

<正> 果実は蕾である
<反> 果実は花である
↓<正>と<反>は相互に対立・矛盾
<正> 果実は花を内包する蕾である
<反> 果実は蕾を内包する花である
↓止揚
[合] 果実は蕾であり、同時に花である
こうして、「果実」がどのように現れるかが分かると同時に、「蕾」の本質と「花」の本質を併せて持っていることが分かる。だから、蕾―花―果実という外見上は全く違うモノを、同じモノが変化した結果だと統一的に理解できることになる。この弁証法の考え方は、色々なものを統一的に理解するのに役に立つ。例えば、人間も弁証法的に成長していくと見ることができる。今現在、自分がいる。何かしら自分なりに価値観を持って生きている。この自分が、正・テーゼである。しかし、今現在の自分の価値観を否定するような出来事が起きたとする。この自己否定が、反・アンチテーゼである。自分の持っている今現在の価値観と、それに反するが見逃せない価値観が対立・矛盾し合う。この両者が止揚・アウフヘーベンされることで、今現在の価値観とそれに反する価値観の本質を保ちつつ、1歩進んだ新たな価値観を形成していく。この新たな価値観が、合・ジンテーゼになる。図式化してもう一度見てみよう。

<正> 自分の価値観は今ある
<反> 自分の価値観を否定するものがある
↓<正>と<反>は相互に対立・矛盾
<正> 自分の価値観はその否定を内包して今ある
<反> 自分の価値観は今あるものを内包して否定する
↓止揚 価値観の修正・進歩
[合] 自分の価値観は、今あるものであり、同時に否定されているものである
 = 今とそれを否定する価値観を両立する新しい価値観

いわゆる、今の自分は、過去の自分の積み重ねである。過去の自分が、今の自分とは違っていても、決して無関係のものとしては切り離すことができない、といった考えである。このように、人間の成長も弁証法的に理解できる。

他にも、物理学でも弁証法的な見方ができる。17~18世紀から整理されたニュートン力学は、明快で簡潔な法則によって世の中の運動を説明できると思った。ニュートン力学が、正・テーゼであるといえよう。しかし、19世紀に大きく発展してきた電磁気学が、ニュートン力学での説明と矛盾するようになった。電磁気学が、反・アンチテーゼになる。そこで、アインシュタインに代表される20世紀の物理学者達は、ニュートン力学と電磁気学を統合し、相対性理論を構築した。これは、正のニュートン力学と反の電磁気学を止揚・アウフヘーベンしたと言える。そして、相対性理論が、合・ジンテーゼになる。つまり、

<正> ニュートン力学は運動法則を説明できる
<反> ニュートン力学は電磁気学を説明できない
↓<正>と<反>は相互に対立・矛盾
<正> ニュートン力学は説明できない電磁気学を内包して運動法則を説明できる
<反> ニュートン力学は説明できる物理現象を内包して電磁気学を説明できない
↓止揚 ニュートン力学の修正・進歩
[合] 相対性理論は運動法則を説明でき、同時に電磁気学も説明できる

しかしながら、その合である相対性理論も、20世紀の前半に確立してきた量子力学と対立することになる。ともかく。このように、科学の発展を見ても、正・テーゼの中に予め矛盾する要素が存在し、反・アンチテーゼによって否定されることになり、正と反を止揚・アウフヘーベンすることで、両者の本質を保ちつつ1歩進んだ合・ジンテーゼが成立しているのが見て取れる。

また、歴史を見ても、弁証法的な見方ができる。21世紀の今となっては古い考えに思えるかもしれないが、20世紀まではかなりの影響力を持った考え方が、先程紹介したマルクスの唯物史観と呼ばれる階級闘争である。王は市民を使って生産させていた。これが正・テーゼである。技術や産業の発達で生産力は増大し、これが反・アンチテーゼになる。王と市民との生産関係は固定されている。王はずっと王であり、市民は市民である。しかし、生産力が増大して来ると、市民が力をつけることになる。ここに、対立と矛盾が生じる。王と市民という階級が争うことになるため、階級闘争と呼ばれる。つまり、王は、市民が自分を打倒しないように抑え込もうとする。市民は、自分が生産したものを王に無理やり奪われるため、王を打倒しようとする。そして、力をつけて来た市民は、王を打倒することに成功する。これが止揚・アウフヘーベンである。その結果、支配者たる王はいなくなり、皆が平等で、自らが自らを統治するという市民社会が到来する。これが合・ジンテーゼである。市民が市民として生産する関係にあり、市民が市民として生産力を向上させていく。つまり、

<正> 王は市民を使って生産する
   (生産関係の固定)
<反> 市民は生産力の向上で力をつける
   (生産力の向上)
↓<正>と<反>は相互に対立・矛盾
<正> 王は生産力の向上を内包して生産関係の固定をはかる
<反> 市民は生産関係の固定を内包して生産力の向上をはかる
↓止揚 支配者の変化=市民による王の打倒
[合] 市民は生産関係を固定すると同時に生産力の向上を行う
= 市民社会の到来(自らが自らを統治)

しかし、マルクスはこれで終わらせず、弁証法的に未来を大胆に予測してみせた。よく考えてみると、市民社会の中でも支配と被支配の関係が残っている。皆が平等に見える市民も実際には、生産手段を持ち金持ちである資本家と、労働力を提供するしかない貧乏人である労働者がいる。資本家が労働者を使って生産する。王と市民の生産関係から資本家と労働者の生産関係になっている。これが、正・テーゼである。労働者は、自分の生産した物を資本家に必要以上に奪われている。しかし、ここでも技術の向上と共に生産力は向上していく。これが、反・アンチテーゼである。労働者は、資本家を否定、つまり打倒しようとする。資本家だって倒されたくないので、労働者を否定、抑圧する。こうして資本家と労働者に対立・矛盾関係が生じる。いわゆる階級闘争が起きる。やがて、この階級闘争は、市民が王を打倒したように、労働者が資本家を打倒することで止揚・アウフヘーベンされる。その結果、合・ジンテーゼとして共産体制へ移行する。この共産体制は、自分が生産したものを他人に奪われる搾取がなく皆が平等に暮らせる社会である。そして、労働者が資本家を打倒した結果として、金持ちと貧乏人といった区別も無くなり、皆が真に平等になる 。つまり、

<正> 王は市民を使って生産する
   (生産関係の固定)
<反> 市民は生産力の向上で力をつける
   (生産力の向上)
↓<正>と<反>は相互に対立・矛盾
<正> 王は生産力の向上を内包して生産関係の固定をはかる
<反> 市民は生産関係の固定を内包して生産力の向上をはかる
↓止揚 支配者の変化=市民による王の打倒
[合] 市民は生産関係を固定すると同時に生産力の向上を行う
= 市民社会の到来(自らが自らを統治)
↓内実を見ると…
<正> 資本家は労働者を使って生産する
   (生産関係の固定)
<反> 労働者は生産力の向上で力をつける
   (生産力の向上)
↓<正>と<反>は相互に対立・矛盾
<正> 資本家は生産力の向上を内包して生産関係の固定をはかる
<反> 労働者は生産関係の固定を内包して生産力の向上をはかる
↓止揚 支配者の変化=労働者による資本家の打倒
[合] 労働者は生産関係を固定すると同時に生産力の向上を行う
= 共産体制の到来(真の意味で自らが自らを統治)

このマルクスの予言は、社会主義の旗頭のソ連が崩壊して久しく、共産主義を真面目に守っている大国もなくなった今では荒唐無稽にしか思えないが、ほんの20~30年前くらいまでは、かなり影響力を持った考え方であった。このように、弁証法は、多様な事物を統一的に理解するために役に立つ。一見すると矛盾し対立するように見える複数の事物を、上手く統一的に発展させるための発想を得るときなどに活躍する。しかし、気を付けておかなければならないのは、マルクス史観の階級闘争で分かるように、一回聞いただけだともっともらしく聞こえるけど、かなり論理的に飛躍のある発想方法だということである。そして、弁証法を帰納法に分類した意味はここにある。仮説推論のように、検証なしには、その正しいか否かが分からないということだ。だから、弁証法による推論は、仮説を形成する段階では役に立つが、その仮説を検証しなければ論理的とは程遠いモノになりかねない。このように、弁証法は、発想の第一段階や、物事を後で統一的に理解するときには役に立つ思考法と言える。そして、必ず検証を必要とする考え方であることも忘れずに。

3.弁証法のさらなる展開について

弁証法によって、統一的理解が進むと話したが、そのついでに、統一的理解がどのようにできるかを、分析・総合・直観と絡めて一般論を説明しておきたい。分析は、英語で analysis である。analysis の動詞形である analyze は、「分析する」という日本語でもよく使う。ただし、analyze は、「分析する」という意味だけでなく、「分解する」という意味もある。このため、「分析」を理解するには、「分解」の意味を理解する必要もある。ちなみに「分析」の「析」は、「細かく分かつ」や「込み入ったものを解きほぐす」といった「分ける」ことと似た意味である。換言すると、分析とは、複雑な対象をより単純な要素に分解して明らかにすることである。複雑な対象を眺めただけでは、何が何だか分からない。そこで、訳が分からないモノを理解するために、対象を構成する要素に細かく分解していく。「分解」としての analyze である。そして、細かく分解された各要素を、それぞれ調べて行く。そうすると、各要素が一体何なのかが明らかになり、理解できるようになる。これが「分析」としての analyze である。つまり、分析とは、全体ではよく分からないものを、部分へと分けることで、対象を理解することである。


まず右の図を見て、どのように書けばいいのかを考えてみてください。 おそらく、これをそのまま描ける人はいないかも、いや別に描けないと言っているわけではなく、何も「分析」することなく描くことができないのではないか、ということである。この図を描くとき、おそらく、まず円と六芒星に「分解」していると思うことができる。その六芒星も2つの三角形に「分解」しているはずだ。そして、以下の図のように、1つの円と2つの三角形から成り立っていると「分析」ができれば、この図がどういった図形なのか理解できることになる。このように分析は、対象を理解する上で重要な方法になる。対象が複雑になればなるほど、見ただけで何なのかを理解することは難しくなる。そのため、要素ごとに分解して、各要素が何なのかを明らかにすることを積み重ねて、全体へと近づいて行き、最終的に全体を理解していくことになる。

分析を終えて改めて図を再現してみようとするとき、バラバラにされた要素を組み合わせていくことになる。これが総合である。総合は、英語では synthesis である。弁証法の合・ジンテーゼと同じ名詞が使われている。 syn- が「統合の」といった意味であること、また、thesis が「論文」や「命題」といった意味であると冒頭で説明した。したがって、 synthesis は「統合された」「理論」や「命題」ということになる。また、synthesis を動詞化した synthesize は、「統合する」「総合する」「合成する」という意味になる。楽器のシンセサイザー(synthesizer)と言えば、音と音を合成する楽器のことを言うことからも分かりやすいかと思う。つまり、総合とは、分析の結果として得られた要素を統一して構成することである。分析では全体を部分へと分解して、各要素を明らかにしていくものであった。その逆に、総合は、分解され明らかになった部分を全体へと統一して再構成することになる。部分だけではなく、全体を理解することができる。

上記の図を描く例で言えば、分析によって1つの円と2つの三角形から成り立つことが分かったので、この1つの円と2つの三角形を総合、つまり、上手く統一的に再構成して描くことになる。2つの三角形を組み合わせて六芒星をつくり、その六芒星と1つの円を組み合わせることで元の図を復元できる。

論理的思考では、複雑なモノを考えやすくするために分析して、それを統一的に理解するために総合することになる。分析と総合は表裏一体である。そして、今まで説明して来た推論方法は、この分析と総合の過程であった。各前提の命題が何を意味しているのか分析して、相互の関連性を特定して、隠れた前提を見つけ出して、論理的に総合して結論を導いている。また、学問では論理的思考がモロに必要になるので、分析と総合の考えが多く出てくる。そして、分析していくことで色々なことが分かってくる反面、色々なことが分かり過ぎて、総合化が困難になるという事態にもなる。いわゆる専門分化によって、専門外のことについて素人同然になるという問題である。いずれにしろ、自分が理解できないときは分析してみるといいだろう。

さて、分析と総合に加えて、直観というものにも触れておきたい。直観については、「観る」ではなく「感じる」の直感を同じ意味で使う人もいるが、ここでは区別しておきたい。感じる方の直感は、「感」覚的に対象を「直すぐ」に捉えるといった意味である。観る方の直観は、対象を「観」察することで「直」に捉えるといった意味として捉える。これだけでは違いがよく分からないので、「感覚的に対象を直に捉える」直感では、対象について感じたことに重点が置かれている。「対象を観察することで直に捉える」直観では、対象を観たときに本質まで把握していることに重点を置く。つまり、感じる直感では、感じたことなので、そこに対象の本質が含まれているかどうかは問題にならないが、観る直観では、対象の本質まで把握していることになる。したがって、ろくに勉強しておらず、何となく勘で答える場合は、感じる直感になる。直観なら本質まで把握しているので、正しい答えが通常は導けるはずだから。とは言え、直感も直観も両方とも、論理的思考による分析・総合や推論を使わずに、感じたまま、観たまま即座に対象を捉えている点では共通している。

さて直感と直観の区別がすんだところで、直観の定義も自ずから見えてきたと思われる。
直観は、論理的思考を介在させずに、観察することで、対象の本質を直接把握することであり、英語では、intuition と言う。論理的思考を介在させないとは、推論がないことを意味する。例えば、「A は B、B は C、よって、A は C」といった思考もなしに、いきなり「A は C だ」と本質を理解することになる。上記の図でいえば、図を1つの円と2つの三角形にバラバラにしなくてもそのまま認識してパッと描ける人ならば直観的に理解できていると言えるだろう。また、複雑な問題の解決策を模索していて分析してみてもダメで困っているときに、論理的思考とは別の所である時パッと閃いて解決できるということがある。この閃きは直観と言えよう。論理的思考によらずに、問題の本質を捉えるからだ。もちろん、直観によって導かれた考えは、閃いた人にしか理解できないので、それを筋道立てて説明する必要がある。これは論理的思考の範疇に入ってくる。このように直観と論理的思考は対立するものではなく、相互に補う関係にある。そして、特に直観的な思考が活躍する推論は、仮説推論、類比推論、弁証法であると言えよう。これらの推論は、分析的な論理的思考の前提の最初の段階では、思い付き的な面が強く現れるからだ。

この他にも、何より直観が最も活躍するのは、芸術の分野かもしれない。もちろんケセラセラの制作などをも然りに。例えば、絵画で考えてみよう。対象を分析して総合しても、ある程度上手い絵は描けるかもしれない。しかし、分析していき、各パーツを細かく書いて、積み重ねて全体を描いてみても、傑作にはなり難い。直観的に本質を捉えて描くことが求められることが多い。また、芸術の制作だけでなく、鑑賞にも直観は重要と言える。分析して各パーツの素晴らしさを説明しても、絵画の全体の良さは説明し尽くすことはできない。全体をパッと観て直観的にその本質である美しさを把握することが重要になってくる。

なお、直観がまるで無から有を生み出しているように感じるかもしれないが、直観も結局はその人の経験に頼ることになる。経験によって獲得してきた知識や習慣、思考法によって直観力が変わってくることになる。直観も言ってみれば、帰納法により蓄積された経験が、無意識の内に観念連合し、ある仮説を導くといった具合である。だから、素人の直観は大体外れる。本質を捉える観念と結びつくための観念がないからだ。したがって、直観力を磨きたいのならば、色々なことを学び、知り、思考することで経験を増やしていくのが近道だと言えよう。歴史に残る芸術家も天才ではあるだろうが、そもそも膨大な分析と総合の過程を通じて経験を積み重ねており、直感的に素晴らしい作品を残しているわけだ。類比推論的に言って、論理的思考を補うための直観でも、いかに論理的思考を積みかねてきたかが、ものを言うわけである。

さて、分析・総合・直観を簡単にまとめておこう。「α」を観察したとき、これがよく分からないとしよう。それで分析をすることにしよう。「α」をよく観察してみると、「α には要素として、a、b、c がある」ことに気付く。しかし、「a、b、c」が一体何なのか分からない。さらに、「α」全体から、部分要素「a」「b」「c」へ分解する。部分要素「a」「b」「c」をそれぞれ別個に観察してみると、「a は A」「b は B」「c は C」だということが理解できよう。ここでは、「A」「B」「C」はよく知っているモノとする。これを総合すると、「a は A」「b は B」「c は C」であるから、「α には要素として、a、b、c がある」ので、「α は、A、B、C である」であると再構成できる。これで「α」の理解ができたことになる。分析も総合もせずに本質を捉える直観では、「α」を見たら、即座に「α とは、A、B、C である」と本質的に理解することを意味する。このように直観では、分析する過程、つまり、「α には要素として、a、b、c がある」ことに気付き、「a」「b」「c」へと分解し、「a は A」「b は B」「c は C」だと調べる過程がない。また、総合する過程、つまり、「a は A」「b は B」「c は C」であるから、「α には要素として、a、b、c がある」ので、「α は、A、B、C である」であると再構成する過程もない。「α」の観察から、いきなり「α とは、A、B、C である」と理解していることが分かる。

4.エピローグ

弁証法の正―反―合の止揚による事物の統一的理解の思考方法について話してきた。弁証法の推論自体は、必ずしも個別の事象を正しく解明するとは限らない。推論を開始するにあたって、発想の第一歩としては役に立っても、それは仮説であり検証が必要なことは注意しなければならない。しかし、事物の関係性を統一的に体系的に理解するのに役立つ思考法であるに違いない。また、統一的理解に関連して、対象を部分に分解して解明する分析とそれを統一して再構成する総合が論理的思考で重要になることと、それを補う論理的思考を介さず本質的な理解を行う直観についても解説した。

 いずれにしても、物事を考えるとき、または何かを創造していく際に、このような考え方を理解して行うことと、まったくロジックを持たず直感によって行うことはその説明力において甚だ異なることになる。また、直感にしても、長年の分析や理解を通じてしか生まれないので、常にこのような考え方に基づき事物をそして社会現象について考えることは、何かを創造する時だけでなく、一般的な社会世界を住まう上でも強力なサポートになる。

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