遂に戦時の感覚すらも喪失してしまった「ONE PIECE」とスーパー戦隊シリーズがつまらなくなった理由

そういえば、noteを書き始めた時に「ONE PIECE」で描かれる仲間の絆がどこかSNSやYouTuberのそれと類似しているというようなことを以前指摘した。

ふとそのことが頭によぎったので最近の「ONE PIECE」を読んでいると「ワノ国」編が終わった後ルフィはナミから「仲間の命を危険に晒した」としてボコボコにされていた。

この1コマを見た時「ああ尾田先生、遂にあなたそこまで落ちてしまいましたか……」と思わざるを得なかったのだが、その理由はナミがこんな瑣末なことでルフィを責めているからである。
正直、新世界に入ってからの「ONE PIECE」は読み応えがあまりないなあと思っていたのだが、その理由は単なる覇気のバーゲンセールになってしまったというパワーバランスの問題だけではない。
新世界に行く前は「戦って死ぬなら別にいい」くらいの覚悟を決めていたはずのルフィたちが今この段階になって死を過剰に恐れてしまっているからであり、思わず鼻で笑ってしまった。
俺がもし船長だったらこんなことを言い出した時点でナミを船から降ろすだろう、戦いに際して命を賭けることを怖がっていて海賊なんてやれるわけがないことを散々思い知ったのではなかったか?

新世界に入る前までの、エース処刑までの「ONE PIECE」は少なくともこういう時ナミがどれだけ叱ろうとルフィはそんな簡単に説得されるようなタマではないだろう。
何せビビ王女に対して「だったらオレたちの命ぐらい一緒に賭けてみろよ!」と言い放ち、また「野望のために戦って死ぬんなら別にいい」とルフィは当初から覚悟を決めていたはずだ。
ところが、段々と話が進めば進むほどルフィは幼稚化していき話は段々と単調になっていったのだが、何がそうせたのだろうか?果たしてエースの死がルフィの死生観を変えてしまったのか?
まあナミが怒ったのはあくまで「命を投げ出して戦うこと」に対してではなく「仲間を巻き込むルフィの無神経さ」に対する怒りなのだろうが、それも込みでルフィを認めてついて行く覚悟を決めたんじゃないのか?

ルフィに絶大な信頼を寄せながら背中を預ける気立てが良くサバサバしていたナミはもうここにはいない、今ここに居るのは自分の都合どおりに行かないとヒステリックに喚き散らす女の腐ったような奴である。
こういう「仲間の命を無用に巻き込むな!」という「命を大切に」という倫理観はあくまでも平和な日常生活だから通用するものであって、命を賭けて戦っている時に通用するものではない。
ましてや海賊ともなれば、そういう一般社会の常識や安全保障といったものは全て捨てていつ死ぬかもわからない世界で生きることになるわけであり、ナミがそのことを今更知らないとは言わせんぞ。
なぜこんなに甘い作品に成り下がってしまったのかとも思うわけだが、同時に最近の「ONE PIECE」の体たらくを見ていると最近のスーパー戦隊シリーズがなぜつまらないのかが良くわかった気がする。

今のスーパー戦隊シリーズは、例えば「キラメイジャー」がそうであるように「今日は部活の試合があるからヒーローとして活動できません」なんて軽々しく言う奴が最初から出てくるのだ。
ヒーローとして世界の運命を背負った戦いの筈なのに、とんでもない緊張状態に置かれている筈なのに葛藤・苦悩の1つを見せることもなく私用でヒーローの使命を拒絶してしまう
これはどういうことかというと、スーパー戦隊シリーズの作り手にとって「戦い」というものがレジャーランドというか一種のファッションと化してしまっているのではないだろうか。
もちろん私用を優先するなとは言わないが、それならそれでなぜそうしなければならないのかというドラマをきちんと描かなければ単なる「辛いことから逃げ出すダメな奴」でしかない。

こちらの記事でも書いたが、『鳥人戦隊ジェットマン』以前と以後は戦いというものが「日常の側にある」ものなのか「対岸の火事」になってしまっているのかも大きく影響している。
冷戦が終結して日本に仮初めの平和が訪れた時、世界全体を覆う脅威や巨大な悪は確かになくなったが、それはあくまでもなくなった「ように見える」だけで「なくなってはいない」のだ。
実際に海外ではテロや紛争が続く毎日にも関わらず、ほとんどの人は我関せずの態度で遠巻きに眺めているだけである。
そしてそれはスーパー戦隊を作っている今のスタッフ・キャストもそうなのではないだろうか?昔に比べてヒーローや悪の組織がその存在感に説得力を持ちにくくなったのも1つはここに原因があるだろう。

「命が大事」だなんて言っていられるのはあくまでも平和な時だから通用する理屈であって、これが一度戦争となれば人の命など所詮は消耗品としてしか扱われなくなるのである。
横山光輝版の三国志で龐統が劉備に言い聞かせたように、戦場という火事場で日頃の礼儀・マナーなんて守っていたら後れを取って焼け死んでしまうだけであり、命が軽く扱われることにいいも悪いもない。
しかし、戦争というものが何たるかを皮膚感覚で知らないとこのあたりの「戦時中のルール」と「平和時のルール」の違いや対応の仕方の差がわからなくなってしまうのではないだろうか。
思えば小林靖子が脚本を担当した「シンケンジャー」でも殿が「俺がついた嘘のせいでお前たちを危険に巻き込むかもしれなかったんだ」と言い出すが、これも結局似たようなものだろう。

これは先日、私の知人と話し合っていたが、今のスーパー戦隊シリーズは昔に比べるとメンバーが幼稚で高校や大学の部活・サークルのような感覚に近いのではないか?
「ゴーオンジャー」の1話で軍平が「ゴーオンジャーはガキばっかか!」と突っかかっていたが、その軍平だって蓋を開けて見たら中身は走輔たちのことを批判できた義理ではない。
00年代の「ガオレンジャー」「ハリケンジャー」以降を通してスーパー戦隊シリーズは段々と「命をかけた殺し合い」をしているという感覚が失われ、戦いがただ玩具販促の手段でしかなくなった。
昔のスーパー戦隊がその辺りを十二分に描き切れたとは言えないが、少なくとも「タイムレンジャー」までの戦隊はこの辺りのことを決して蔑ろにしてなかったように思う。

もちろん戦時中だから命を粗末に扱っていいとは言わないが、命を預けて一緒に戦っている状況で仲間の命が危険に晒された程度でヒステリックに喚き散らしてどうする?
昔のスーパー戦隊シリーズは傷を負うようなことがあっても、戦いとなれば男も女も年齢も関係なく命を共に預けて戦うという結束がきちんとあった気がするのだ。
まあ流石に昔の軍人戦隊のような古臭い正義なんてやっても「オーレンジャー」みたいなのができるだけなので安易に真似したからいいというものではないのだが……。
おそらく「戦うとはどういうことか?」をもう一度振り返って描かなければ、結局は平和ボケしたまんまの感覚でテンプレートをそのままなぞった模造品が生まれるだけだ。

世界で大人気の「ONE PIECE」でさえこれだから、そりゃあ迫力とリアリティある作品が生まれるわけがないと思わず納得してしまった。

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