「3年B組金八先生」第7シリーズを見ればわかる「これだからゆとりは……」と揶揄・批判される理由
第5シリーズ、第6シリーズと語ってきた「金八先生」シリーズだが、ひとまずはこの第7シリーズまでを一区切りとしておくことにする。
第1〜第4シリーズ並びに第8シリーズは個人的にそこまでの思い入れがなく、またそれ故に記憶も薄れているため再見の機会を待って書くことにしよう。
さて、この「金八先生」の第7シリーズは第3シリーズとは別の意味で不遇なシリーズであると私は思う、というのも「金八先生」が紡ぐ物語は既に第6シリーズで完結したからだ。
第4シリーズまでを踏まえて現代の子供たちが抱える心の闇を克明に炙り出した第5シリーズ、そしてその背景にある「社会」と戦った第6シリーズでもう余すところなく物語は描ききっている。
この第7シリーズが始まったきっかけは色々あったと思うが、1つの大きなきっかけは「25周年」という節目の年であり、2時間の同窓会スペシャルという特番が開かれたことだろう。
第1シリーズから第6シリーズまでの生徒と教師陣が軒並み顔を揃えたこのイベントは金八シリーズの歴史の重みが感じられ、これが2011年の「ファイナル」のラストシーンの感慨深さにも繋がっている。
その中でもしかすると「もう1度シリーズものを……」との空気もあったのだろうか、真のところは察するしかないが本来であれば予定にないシリーズがまた作られることになった。
そんなこの第7シリーズを私はリアルタイムでは見ておらず(浪人中でTVを見れる環境にいなかった)、弟がリアルタイムで中学生でこのドラマを必死こいて見ていたという感じだった。
なので私の本作に対する評価はかなりドライで冷めたものになるが、今日の視点で見直すと結果的には「ゆとり世代」がどんなものであるかを示しており、それを今回コラムとしてみたい。
個の力が弱くなってひたすら煩く騒ぐだけのバカ集団
本作の評価が当時から今日まで決して芳しくないものであることは金八ファンならば周知の事実であり、放送当時はどこもかしこも「所詮第5・第6の焼き直し・劣化コピー」なんて揶揄・批判されたものだ。
その原因は色々考えられるのだが、わけて3Bの生徒たちにその原因を求めるならば第6シリーズまでと比べて「こいつはすげえ!」と突出した存在感を放つ生徒が第7シリーズには皆無だった。
まあ歴代TOPの兼末健次郎(風間俊介)は別格としてそれ以外にも第5シリーズは魅力的な生徒が多かったし、第6シリーズも単体で健次郎に敵う逸材は少なかったが鶴本直(上戸彩)・成迫政則(東新良和)は存在感がある。
このようにパート6までは多かれ少なかれ「こいつがいればシリーズは大丈夫」といえる安定感のある生徒がいたのだが、残念ながら第7シリーズにはそんな生徒が私から見て1人もいなかった。
強いて言えば今でも売れっ子の役者として活躍中の濱田岳演じる狩野伸太郎は子役時代からやっているために演技達者で実質の座長ともいえるのだが、それでも役としての存在感は健次郎や直ほどではない。
そして本シリーズのメインを張る丸山しゅう(八乙女光)も素材自体は悪くないが、やはり「これはすごい!」と思えるほどではないし、何より台詞回しが平板で大根演技もいいところである。
またそれは他の生徒を見ても同じで、八乙女と同じYa-Ya-Yah!でやっていた鮎川太陽や薮宏太もビジュアルは文句なしだが演技力が追いつかないし、福田沙紀や黒川智花に関してもうまく魅力を引き出せていない。
メインを当てられた生徒がそれなりにいながら、どうしてもキャラ付けが脚本・演出共に表層的な部分で止まっていて「お!ここでこう来るか!」という確変や意外性を見せることが少ないのだ。
だが、これが同時に私はある種のリアリティーを感じさせた……それはゆとり世代がどんな世代かという特徴であり、ゆとり世代に入ると個の力が弱くなり幼稚化してひたすら煩く騒ぐという特徴である。
「史上最低の3B」なんて不名誉なレッテルを貼られてしまったが、最初の5話はまあ酷かったものだ、何せ教室でひたすら空気を読まずに馬鹿騒ぎし残りの者は無気力で誰も金八先生の話を聞いていない。
もっとも、史上最低というレッテルは担任を病院送りにした健次郎たち第5シリーズの生徒にこそ相応しいのではないかと思ったが、健次郎たちは最低でも金八先生の説教をきちんと聞く耳は持っていた。
第6シリーズにしたって抱える問題は多くても授業となればきちんと静かにするため、金八先生が最初からお手上げなんてことはなかったのだが、遂に生徒の圧に金八先生が屈してしまう時代が来たのである。
よく「これだから「ゆとり」は……」なんて揶揄・批判され肩身の狭い思いをするゆとり世代の人たちだが、それもこの第7シリーズ初期の煩く騒ぐだけのバカ集団である3Bを見れば納得ではないだろうか。
何かあれば直ぐに人の話を茶化して腰を折り平然と年上に向かって舐めた口を叩き、そのくせ実力があるわけでもなく勝負を持ちかけても30人揃ってボイコットし、ソーラン節の半纏すら雑に扱う。
もちろんドラマなので相当に悪い部分を誇張して描いているわけではあるのだが、弟によれば本当にある時期以降のゆとり世代は第7シリーズに出る生徒たちのような特徴を持っていたらしい。
そう、ゆとり教育の実態が単なる「甘やかし教育」でしかないことを本シリーズは明るみに出してしまったわけであり、本当の意味での「平成」の学園ドラマはこのシリーズから始まったといえる。
脚本家の降板に伴う路線変更
風当たりが強い中でスタートした第7シリーズだが、もっと悲惨だったのは脚本家の小山内美江子先生が10話を持って降板され、11話の新春スペシャル以降別の脚本家に変わってしまったことだ。
その理由は当時色々と憶測を呼んでいるが、ともかくここで大事なのは本来小山内先生がやりたかったであろう構想とは全くの別物にシリーズ自体が舵を切ったということである。
元々小山内先生は丸山しゅうのドラッグについてあそこまで長く引っ張る予定はなくもっと別の路線で行きたかったそうなのだが、それを作り手側の意向で薬物路線に変更されてしまった。
そのため、後半でももっとスポットを当てたかった生徒もいたであろうに、どうしても諸般の事情で扱いが軽くなってしまうという形で未消化に終わった要素が物凄く多い。
しゅうと舞子の関係はもちろんしゅうと崇の友情、さらには崇に好意を寄せいている玲子と浩美、そして何よりもっとクラスのトラブルメーカーとなりえた発達障害の弥生など消化不良に終わっている。
狩野伸太郎にしても両親の給食費未払いの件などでメイン回は貰えたし卒業式の答辞は神がかっていたものの、やはり元々がコミカルなキャラということもあり内面描写の希薄さは否めない。
車掌のトラメガの依存症に関してもそれを最終的にしゅうの薬物依存へ繋げるなどアイデアとしては良かったけれども、典子への恋愛描写などあまりのも唐突すぎる描写が目立った。
これが小山内先生だったらどう扱っていたかはわからないが、少なくとも薬物依存の回に繋げていくなどということはしなかっただろうし、もっと受験や家庭のことなど色々と描けたであろう。
特に19話からラストまでのドラマがほぼ全て「しゅうのためにみんなが」みたいな感じになっており、これは第5シリーズの健次郎にほぼスポットが当たっていたこととどこか重なる。
だが、健次郎をその扱いにしても違和感がなかったのはまず風間俊介自体がそれくらいやっても十分に持つ力量のある役者だからだし、また健次郎にばかりスポットが当たっていたわけではない。
他の生徒たちのことや特別授業もきちんと描いていてそこまで重苦しい空気ではなかったのだが、本シリーズでは薬物依存という問題が問題だけにどうしても晴れない思いばかりが募る。
ここまで大々的な路線変更で前半と後半がまるで違うものになった作品というと色々あるとは思うが、メインライターの降板も含めると「ウルトラマンA」がこれに近いであろうか。
しかも何が凄いと言って、最終回で卒業式に出席できずに初等少年院措置に決まるという前代未聞のスッキリしない最終回になってしまったことであるが、これは仕方あるまい。
薬物中毒者という人間としての禁忌をやらかしておいて無罪放免というわけにはいかないし、それにしゅうのことに関しては2005年の年末スペシャルで真の最終回が描かれていた。
私は基本的に金八先生の卒業後SPは番外編や同窓会の空気が強くてあまり高く評価していないのだが、第7シリーズはその意味で初めて卒業後SPをやって正解のシリーズとなる。
皮肉にもメインライターが降板してしまったことがかえっていい方向に作用した部分もあり、「怪我の功名」という部分も少なからずあったのではないだろうか。
薬物問題に膝を屈した金八先生≒脚本家を降りた小山内美江子先生
さて、ここまで敢えて本作で問題視されている部分に触れずに来たが、伝説のタブーとされている19話「しゅう最後の日、最後の授業」〜最終回までの展開についてである。
ぶっちゃけ私は世間が衝撃として高く評価しているしゅうの禁断症状が出て暴れるシーンに関してはそこまで高く評価していない、あれは別段驚きでも何でもないからだ。
金八先生の教室での乱闘シーン自体前作のミッチーと直の乱闘でも似たような感じになっていたし、もっと言えば私は中野先生を病院送りにした第5シリーズの1話目が最も恐怖を感じた。
何故ならばあのシーンはプレッシャー世代特有の「内面に迸る狂気」「見えない悪意」が表象されたシーンだからであり、生徒が遂に教師に下剋上を起こしたシーンだったからである。
しかし、丸山しゅうが教室で暴れるシーンに関しては既にシャブ漬けにされていつその症状を発してもおかしくないように繰り返ししつこく描かれていた。
遅かれ早かれしゅうはああなっていただろうし、あの教室のシーンで病院送りになったり怪我したりした人は誰1人として描かれていないのだから、そこまで騒ぐ程のシーンでもない。
まあしゅうが逃走するシーンで何故「アヴェ・マリア」という讃美歌を流したのかはさっぱりわからないのだが、あれは福澤Dの趣味なのだろうか?(笑)
思えば健次郎の時もひたすらに「アメージンググレース」を流していたし、ああいうシリアスなシーンに敢えて不似合いな宗教系の音楽を流すのは確かに古典的な演出手法だが。
さてその後、金八先生はしゅうが薬物中毒者であることを見抜けなかったこと、そして気づいていたはずの舞子ですらそれを止められなかったことも含めて責任を感じて辞めようとする。
金八先生が教師を辞めようと辞表を出したのは第5シリーズの新春SPに続き2度目であるが、あの時とは辞表を出す意味合いがまるで異なり、今度は本当に教師失格だと自信を失っていた。
第5シリーズで辞表を出したのは体罰禁止の項を破って暴力を振るってしまったからであるが、かといって「教師そのものを辞める」と本気で思っていたわけではない。
しかし、今回のこれは全然違っていて、金八先生ですらドラッグに関してはどうしようもなかったわけであり、それは正に諸事情で降板せざるを得なかった小山内先生の姿と重なるところがある。
金八先生というキャラクターはもちろん武田鉄矢という役者の人柄が大前提にあればこそだが、もう半分は脚本家である小山内先生の人格も少なからず投影されていたと思う。
最終回でのアドリブを除けば金八先生は小山内美江子先生の思想を説教という形で代弁する存在でもあり、そこがもしかすると嫌いな人は嫌いだとする理由かもしれない。
完全に力を失った金八先生を立ち直らせたのは他ならぬ教え子たちだったわけだが、これはある意味で第7シリーズ自体もそうだったのではないだろうか。
小山内先生が降板されたことで力を失い路線変更してしまったように見える金八先生というシリーズが他のスタッフや成長した史上最低の3Bたちによって輝きを少しだけ取り戻したようでもある。
全体的に扱いが雑だが、妙に味わい深いシリーズ
本シリーズを俯瞰して総合すると、お世辞にも歴代最高傑作とはいえないし私自身の好みに合うようなシリーズだったわけでもなく、評価はかなり低い。
実際に私は本シリーズで描かれたゆとり世代の悪い所には全く共感できなかったし、生徒の顔ぶれを見てもやはり第6シリーズまでと比べて幼稚で品がない印象が目立つ。
それに路線変更も相俟って薬物問題以外の扱いがかなり雑になったという印象は否めず、その薬物問題に関しても悲惨さを訴えるばかりでどうすればそれを解決できるかは提示されていない。
小山内美江子先生が薬物問題に関して必要以上に扱おうとしなかったのも、学校の一教師ごときが解決できるような簡単な問題ではないことを知っていたからである。
ただ、そんな風に全体的な描写が散漫で精彩を欠いている本シリーズだが、不思議と全体の印象としては意外に嫌いになれないシリーズなのだ。
というのも、狩野伸太郎がだんだん憎めない奴になっていくプロセスは悪くなかったし、また第5シリーズのリターンマッチもしっかりなされている。
例えばしゅうの卒業SPでしゅうが答辞を述べるシーン、そしてそんなしゅうのためにクラスが1000人もの署名活動をしたことなどは第5シリーズでは描ききれなかった要素だ。
こういう1人の生徒のためにクラス一丸となって取り組む様子はややファシズムじみてはいるが悪くなかったし、元が最低だった本シリーズの3Bの成長の形としてよかったと思う。
私の中で金八先生はもう第6シリーズまでで完結を迎えている、それは当時も今も変わらないしこのシリーズも番外編というか別物として見ている。
しかし、別物と割り切って見ると意外に悪くない良かったところもあり、正に金八先生が伸太郎に言ったように「最初は嫌いだけど後まで見ると好きになる」シリーズだった。
蛇足ではあったものの、まあ勇者シリーズにおける「ガオガイガー」のような作品という位置付けで見ておくのが良かろうと思う。
それに本シリーズで提示されたゆとり教育の実態が露呈したからこそ、翌年には「女王の教室」「ドラゴン桜」のような「反ゆとり教育」をテーマとした学園ドラマが生まれたのだろう。
その意味では決して無駄なシリーズではなかった、私はそう思っている。
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