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『電子戦隊デンジマン』第7話『デンジ星の大悲劇』

◼️『電子戦隊デンジマン』第7話『デンジ星の大悲劇』

(脚本:上原正三 演出:竹本弘一)


導入

デンジ星を滅ぼした元凶

「地球をヘドロと化す最強の怪物を与えたまえ!」

いつもにましてお怒りのヘドリアン女王から始まるが、7話にしてとうとう痺れを切らしたのか、自らの切り札であるベーダー怪物・ウミツラーを誕生させるのだが、序盤から最大戦力を放ってくるのは割とシリーズでは珍しい傾向であろうか。
サブタイトルからもお分かりのように、今回は終盤にまでかかってくる「デンジマン」の根幹の設定の1つである「デンジ星の悲劇」なるものの断片が明かされ、いまいちはっきりしなかったアイシーの存在意義なども明らかとなる。
竹本弘一監督自らが演出していることもあるのか、これまでの中でも脚本・演出の双方において非常に凝った作りとなっており、デンジマンというチームの根幹がここで1つまた固まったと言っても過言ではないだろう。
アクションとしてはウミツラーの独特の軟体動物じみた変態の動き方や次回と併せて便利なヒロインポジションにまで駆り出されるデンジブルー・青梅大五郎、今ではすっかり見なくなったダム撮影などが個人的には今見直して引っかかったところである。

総合評価はA(名作)100点満点中85点、5人の活躍はもちろんだがこの当時問題となっていた酸性雨や公害問題なども決して胡散臭いエコ礼賛にならないようにエンターテイメントの範囲にしっかりと収まっているだろう。
難を言えばアイシーからデンジマン5人へのリアクションがいまいち薄かったこととデンジ星の悲劇とデンジマン5人の関係性の深まりの描き方などがこの当時の限界なのかさほど見えなかったのは惜しいところか。
まず脚本の上では、やはり「デンジ星の悲劇を5人がどう受け止めて、どう結束を強くしていくか?」が大事だと思うのだが、今回の語り口だと単にデンジ星の背景設定が断片的に語られただけにしか見えない。
これが例えば90年代の『鳥人戦隊ジェットマン』以降であれば、この背景設定を打ち出した上で「いかにして真のチームヒーローへなるのか?」がドラマとして語られるであろうが、この当時はまだそこまで込み入ったドラマが描けないのだ。

そして2つ目に、これはいい意味でなのだが、ヘドロの生々しい下水処理の写し方であったり、ダムをロケ地とした撮影というのは近年のスーパー戦隊シリーズではコンプライアンスや安全面の考慮もあるのか、放送できないレベルのハードなものとなっている
特にヘドロの生々しい液体のアップでの映し方は竹本監督らしい逆再生の多様が用いられているわけだが、『仮面ライダー』から始まり本作で1つの到達点に至った演出だったのではなかろうか。
まず下水の撮影自体が昨今では特にできなくなっているのと、撮影するにしてもCGやLEDウォールといった最先端のデジタル機器を用いてあっさり済ませてしまうことも多くなっている。
やはり可能なことならデジタルではなくアナログで撮った方がより質感・生々しさという点において迫力が違うし、昔は技術がないならないなりにどうすればいいのか?という工夫・試行錯誤が窺えて面白い。

デンジ星の悲劇とデンジ犬アイシーの関係性

ベーダーとの戦いに備えるデンジ星人

さて、今回のドラマの目玉として描かれているのがデンジ星の悲劇とデンジ犬アイシーの関係性であり、全部ではないにしても断片的に本作の戦いの背景にあるものが明かされたと言えるだろう。
これは同時に『秘密戦隊ゴレンジャー』〜『バトルフィーバーJ』では意識的にか無意識にか描かれてこなかった要素であり、「なぜヒーローはその悪の組織と戦うのか?」という「因縁」「宿命」の要素がここで改めて示される。
本作がスーパー戦隊シリーズにおける基礎基本と言われる理由の1つはまさにここであり、「ヒーローと悪の組織の因縁」を以後のシリーズで重視して描くようになっていったのは本作がその礎を築いたからだろう。
「ゴレンジャー」「ジャッカー」「サンバルカン」でも敵組織との因縁がないではないが、その理由が例えば「大事な人を殺された」「死にかけた経験がある」「復讐のため」といった個人単位のものが多かった。

とにかく戦いは始まっているのだから戦う理由なんでものを哲学している時間すら無いほど目の前の戦いを乗り越えていくので精一杯だったわけであり、こうしてじっくり俯瞰して「戦う理由」が掘り下げられたことはない
それを本格的に踏み込んで掘り下げ始めたのが本作であり、かつてデンジランドはウミツラーのヘドロによって滅ぼされてしまったことがイラストと共に語られるが、この撮影方法も今では使われないだろう。
以後の作品になると、こういう背景設定を具体的に語る場合はフラッシュバックにより実際にその時代の映像が再現されるのだが、この時代はまだそこまで再現し切るだけの技術も尺もなかったのではなかろうか。
これが逆にデンジ星の悲劇に関する想像力を掻き立てるものであると同時に、デンジ犬アイシーとの関係性やデンジマン5人との温度差なるものもはっきりと描かれたのはここが初めてである。

アイデンティティーが明かされるアイシー

デンジ星の生き残りであるデンジランドとアイシーにとってベーダー一族とは要するに「敵討=復讐」という暗い要素を匂わせており、アイシーは結局のところ動物としての実体を持ったAIに過ぎない
それに対してデンジマンの5人は純粋な正義感というか地球を守りたいという公的な正義で守っているため、実はここでデンジマン5人とアイシーの戦いに対するスタンスは全く異なっている。
1話でアイシーが候補以外の地球人を助けなかったのはアイシーにとってベーダー一族さえ倒せれば地球人がどうなろうが知ったこっちゃないわけであり、詰まるところ戦力計算として5人いれば十分なのだ。
そしてまた、アイシーは所詮AIが実体化したものでしかないから帰納法しかできないわけであり、デンジマン5人のように柔軟な思考や応用ができないのであって、ここに大きな差がある。

デンジマン5人は単に今回の話はベーダーとデンジ星の因縁を知ったにすぎず、ベーダーを許せない気持ちはより強固なものとなったであろうが、アイシーと自分たちとの温度差には気づけていない
この温度差が実は終盤で大きな葛藤と軋轢を生み出すわけだが、実はすでにこの段階でその伏線というか仕掛けはなされていたわけであり、ここはまあ流石に中心化されたものとして無視はできまい。
ちなみに「ノアの方舟」と言っていたが、どちらかといえばデンジ星とベーダー一族の関係性は脚本家の持つ思想性から考えるとアメリカに侵略されてしまった琉球王朝こと沖縄のようにも感じられる
まあこのことは話が具体化してくる終盤での語りに取っておくとして、ここで改めてデンジマンとベーダーの因縁がしっかり構築されたことは大きく、荒削りながらになかなかいい出来だろう。

ヒロインポジションもこなすデンジブルー

グリーンとピンクに救われる青梅

さて、今回見ていて実は面白かったのが相も変わらずデンジブルー・青梅大五郎であり、今回の話でもあんぱんを食べたりウミツラーにやられかけたところをグリーンとピンクに救われたりしていた。
サブリーダーだけならともかくコメディリリーフとヒロインまでこなすというある意味で八面六臂の大活躍が描かれているわけであり、赤城一平よりも美味しい役どころを担っている。
デンジマン5人の関係性の描き方はこのあたりが結構特殊であり、一応メンバーメイン回自体はそれなりにありながらも、やはり全員が均等に目立つ回となると青梅が頭一つ抜けて目立つ。
大葉健二の存在感だけではなく、他の4人がそういう汚れ役をあまり出来ないから彼が引き受けているというところもあるのかもしれない。

一方で他の4人に関しては今のところ役柄や個性に沿った動きしか基本的には見せておらず、赤城はもっぱら黄山かあきらとセットで動くことが多くなっている。
特に黄山とのコンビはもはやツーカーの関係性になっており、赤城は空手家をやっていることもあってか動き方がお堅い軍人思考であるが、それを頭脳で的確にサポートしているのが黄山だ。
このあたり本作では色分けがなされていて、いわゆる「知性派」と「サブリーダー」を分けて描いており、黄山はもっぱら博士・参謀というポジションを確立している。
その点でいえば1話〜2話で復讐を正義に昇華してから目立った個性がない緑川が気になるところだが、彼が今後どうなっていくのかは未知数だ。

黎明期のスーパー戦隊シリーズが作劇の面で不自由だったのは「役割に沿ったキャラクター描写」に終始してしまい、登場人物のドラマに深みと幅がないことだ。
これに関しては上原・曽田戦隊の欠点でもあり、また同時にシリーズ自体がどこか「暗黙の了解」にして「絶対に破ってはならない黄金律」だったのではないだろうか。
少なくともレッドに関しては基本的に優等生タイプのお堅いリーダーキャラという鋳型が『秘密戦隊ゴレンジャー』のアカレンジャーでできてしまい、『地球戦隊ファイブマン』までは大同小異その系譜で作られてきた。
だから、他のキャラクター、特にブルーやブラックなどはレッドと違い制限・縛りというものが比較的緩いためこの時代でも色々な小道具やキャラ付けで遊ぶことができたのかもしれない。

いずれにしても、青梅大五郎は個人的に戦隊ブルーの中でも一番と言っていいほど気に入っているのだが、それはこの段階ですでにいろんな方面から柔軟にキャラの肉付けができているからだろう。
他の4人が割とオーソドックスな真面目系の肉付けであるのに対し、こういうコミカルに遊べるし真面目にもやれるという2枚目と3枚目の間を便利に行き来できるのは彼ならではの強みである。
しかも今回は通常ならピンクが担当するべき怪人にやられそうなヒロインまでこなしていたわけであり、現段階で一番思い入れがあるのはやはり青梅ということになってしまうだろうか。
前作のバトルケニアではここまでの面白さはなかったので、続投したことで余裕が生まれていろんなことができるようになってきたというはあるのかもしれない。

東映特撮名物「ダム撮影」

今回のクオリティを決定的に上げたベストショット

さて、今回の話の中心は特に後半Bパートでひたすら使われるダムなのだが、こちらの下久保ダムは東映特撮でお馴染みとなっているロケ地であるが、こうして見るとダムは特に引きで撮ると美しく映えるロケ地だ。
今回のようにダムそのものを用いた事件が展開されることはもちろんあるのだが、近年では心霊スポットとしても有名となっており、改めて見るとこのロケ地は日本有数の良いロケ地ではなかろうか。
市街地を別とすれば、東映特撮の場合は東映撮影所か採石場などとにかく「戦闘をやって違和感のない映えスポット」が選ばれているのだが、ダムもその1つの候補といえるだろう。
画像のラストカットはそのダムをデンジマン5人とアイシーが仲良く帰り道として歩いているという、実はありそうであまりないショットであり、このショットの有無で今回のクオリティに雲泥の差がある。

それはもちろん物語的にいえば「改めてデンジ星の悲劇を題材としてデンジマンがチームとしての結束を強めた」ことの証として演出されているとも撮れるが、私がこのショットを良いと思った理由はそこではない。
単純に6人が一緒に歩いている「仲間感」としてのショットをわかりやすく明示しているショットがこれまでになく、またカメラワークや構図なども含めて完璧なライティングでしっかり収まっているのである
スーパー戦隊シリーズのような特撮作品はいわゆる戦いのシーンや登場人物同士のドラマなどは魅力的に撮ることができても、こういう帰り道の何気ない細部が魅力的であるという例はゼロではないにしても少ないだろう。
代表的なのは『侍戦隊シンケンジャー』だが、あの作品では「帰り道を5・6人で一緒に歩く」ことが実は定番のオチとなっている(もしくは源太の寿司を一緒に食べる)が、こういう「並んで歩く」ことも「仲間」としての表現である。

この時代はまだそれが「文体・文法」と言えるレベルでは定着していなかったわけだが、定着していなかった時代だからこそ意図せずしてクオリティーの高い俯瞰の画を撮ることができたのかもしれない。
前回のサイクリングを子供達とデンジマンが一緒に行うあのショットも素晴らしかったのだが、「デンジマン」を「画面の運動」として見た場合の最大の魅力はこの「締めのショット」ではないだろうか。
映画でもアニメでもそうだが、監督が全く意図せずして撮った偶然のショットが見る側の感性を揺るがし、時にそれが映画史にとって決定的なものとなる場合があるのだが、戦隊シリーズも映像作品である以上その可能性は少なくない。
竹本監督がこのラストのダムの俯瞰ショットを狙って撮ったかどうかは定かではないが、改めて見るとドラマパート・特撮パートはもちろんのことそれ以上にこういう中心化されていない細部の魅力が面白く感じられる。

『仮面ライダー』のパイロットが代表的なこのダム撮影だが、数多くある撮影の中でこのショットは今まで見ていた中で一番綺麗に撮れているショットの1つではなかろうか。
こういうのを発掘できる楽しさがあるからこそ、映画というか映像作品の世界は奥が深い。

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