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スーパー戦隊シリーズにおける「王道」と「異色」の境目とは?「形式」と「意味」からスーパー戦隊を考えてみる

『忍者戦隊カクレンジャー』が今年30周年ということで、東映特撮ファンクラブで新作配信するらしいので、ファンの方や気になる方は入会してみてはいかがでしょうか?

以前に書いたように私にとっての「カクレンジャー」はスーパー戦隊の歴史においてあってもなくてもどうでもいい作品なので今更再入会してまで見ようとは思いませんが(ファンの方ごめんなさい)。
昨年の配信で見直して評価が下方修正されたこともあり、ただ奇をてらったことをやっただけの見掛け倒しなD(凡作)というのが私の本作に対する評価であり、子供の頃の思い出補正は一切ありません。
あとどう見ても役者が当時の頃からするとだいぶ劣化していて、現在でも役者業を続けている小川輝晃やケイン・コスギは別としても他の役者が引退した人もいてか現役の頃より劣化してしまっているのがなあ。
特に鶴姫役の広瀬仁美は今や芸能界を引退して一般人に戻ったこともあってあの頃のフレッシュさやキラキラ感が全くないのが……よくそれで30周年をOKしようと思ったなあと見てるこちらが恥ずかしくなります。

まあそれは置いといて、最近スーパー戦隊シリーズについて1文字も書けずに行き詰まりを感じていたわけだが、その理由が年間読書人に出会い先日の「表層批評≒テマティック批評は古い」という記事を書いたことで段々と整理がついてきている。
そしてそこに追い打ちをかけるようにYouTubeのおすすめに以下の動画が出てきた。

スーパー戦隊シリーズ史上最大のエポックであり、とにかく「異色作」であることが売りの『鳥人戦隊ジェットマン』(1991)のゆっくり解説動画であるが、別にこの動画そのものが面白いとかそういうことではない。
この動画で語られていることは全て私がリアルタイムで放送を見ていた時から散々語られ尽くしてきたことばかりであり、ぶっちゃけ情報としての鮮度・価値というものは全くないといえるだろう。
タイトルで「ドロドロ恋愛」などと書いている時点でこの動画を作った人が「ジェットマン」という作品を見ていないことは明々白々であり、どうせネット辺りに出回っている「ジェットマン」の感想サイトやWikiでも見回ってそれっぽく見繕ったものと思われる。
特に竜・凱・香の三者の関係性について「凱は香と結ばれなくて残念だった」「結婚式の祝福に来ているから、凱は香のことを諦められた」というのは明らかに作品を見ていればただの事実誤認でしかないことは丸わかりだ。

三角関係なんて言われているが、そもそも「ジェットマン」という作品において「恋愛」がいわゆるドラマの中核の1つであったことは事実だが、その部分だけをもって「ジェットマン」という作品全体がそうであるかのように語るのは大間違いだろう。
この動画の解説を見るとまるで竜と凱が香を巡って争ったかのように思われるが、そもそも竜は終盤で葵リエが死ぬまではずっとリエ一筋であり香のことなど眼中になく、また香と最終的に結婚したのもあくまで結果論でしかない。
凱が竜に一方的なライバル意識というか敵愾心を持っていたのも決して香を取られて嫉妬していたといったものではなく、2話を見ればわかるように単純にエリート面していた竜の立ち居振る舞いが気に入らず反りが合わなかっただけだ。
また、香のことを諦めたなどと言っているが、凱と香の関係性はあくまで「吊り橋効果」であって、終盤に向けて凱も香も段々と反りが合わずに疎遠になっていき、42・43話では凱の一方的な身勝手で香を振って関係性は自然消滅している。

これらの事実関係を見れば「ジェットマン」で描かれている恋模様は実は当時流行っていたありがちな一般の恋愛ドラマのそれではないこともわかるし、また「戦うトレンディドラマ」と評する誤ったレッテルもここから来ている。
それこそ親友の黒羽翔さんが「ジェットマン」を見るきっかけとなった「怒り新党!」でも結局はこの恋愛ドラマの部分ばかりがクローズアップされ、さもそれが「ジェットマン」の唯一無二の個性であるかのように語られてきた。
しかし、実際に「ジェットマン」という作品を見ればわかるが、「ジェットマン」はそのドラマ面はともかくフォーマットとしてはまだまだ70・80年代戦隊の残滓が色濃くあり、そこまで特殊というほどの個性でもない
ましてやその目につくごく一部の要素だけを特権化して「シリーズの打ち切りの危機を救った救世主」と評するのもかつての小津映画について回った「もののあはれ」「古き良き日本のホームドラマ」と評する骨董品化とさして変わらないだろう。

この間も自分で書いた「ゴセイジャー」の記事のこともあって、最近私の中で「スーパー戦隊シリーズにおける「王道」と「異色」の境目とは何か?」をふと立ち止まって考えるようになった。
そのヒントになるのが私が専攻して来た言語学にある統語論(syntax)と意味論(semantics)であり、これを基にして考えてみると今まで覚えていた違和感の正体が浮き彫りになる気がするのだ。

「王道」「異色」といった作風は何を基準に判断しているかというと結局のところは作品それ自体から感じ取れる印象論でしかないのだが、これを「形式」と「意味」の2つで考えてみるとまた違った視点で見えてくる。
要するに「形式的王道」と「意味的王道」の2種類があり、また異色作にしても「形式的異色」と「意味的異色」の2種類があるのではないか?という仮説が私の中で浮かんで来た。
音楽に例えるならば「形式」がメロディー・旋律を指し、「意味」が歌詞を指すのだと思われるが、そのように考えると「ジェットマン」がなぜ長いこと「戦うトレンディドラマ」という評価を受けて来たのかも明白だろう。
ジェットマンが「異色」と呼ばれるのは「意味的異色」だからであり、その「意味」に相当するドラマが例外的なまでに強烈だからそう見えるだけであって、形式的にはむしろ80年代戦隊の王道を遵守している

実際、「ジェットマン」は形式だけを見れば「架空の軍事施設に所属する5人の若者が団結して異次元の侵略者から地球の平和を守った」と要約できてしまうわけであり、実は設定や話の骨子そのものは前作「ファイブマン」までと大差ない。
というより、設定周りなどの「形式」にほとんど頭を使っていない分登場人物の描写や映像としての演出などで如何に歴代と違うものを用意してなぞりつつも崩すことができるか?に挑戦したというのが正確なところだろう。
だからその崩した部分が歴代でも特異であるかのように見えてしまっているだけであり、実際メインライターの井上敏樹以外の脚本家や監督が手がけた回は割と80年代で使い古されたネタがほとんどである。
それに恋愛ドラマということをいうのであれば、そもそもそれ自体は『ジャッカー電撃隊』の終盤や『光戦隊マスクマン』で既に実験作というか意欲的な挑戦としてなされているのだから「ジェットマン」が初というわけでもない。

そういう意味では今配信中の『激走戦隊カーレンジャー』も同じことであり、あれも「狂気の浦沢ワールド」なんて言われているが、あれも本質的には「ジェットマン」と同じで「意味的異色」であって「形式的異色」ではないのである。
実際「カーレンジャー」で使われている設定周りはほとんど70・80年代戦隊から大きく逸脱しているわけではなく、あくまでも不思議コメディの作風をスーパー戦隊と掛け合わせることでどこまで作風の幅を広げられるか?という挑戦であった。
そのアプローチが悲劇的なものか喜劇的なものかという違いがあるだけであり、実はファンが「異色作」と評している「ジェットマン」「カーレンジャー」はファンが騒ぎ立てるほどの異色作ではない
むしろ形式的な意味で異色作というべきなのは『恐竜戦隊ジュウレンジャー』『五星戦隊ダイレンジャー』あたりがそうであり、あれらは既存の戦隊の形式を新たに変えるところから始めている。

誤解を恐れずにいえば、自分で誤解を招くような評価をしておいて何だが、『星獣戦隊ギンガマン』は間違ってもスーパー戦隊シリーズを代表する作品などでは決してない
(中略)
スーパー戦隊シリーズを代表するお手本というべき人気作なんぞは現在配信中の『百獣戦隊ガオレンジャー』や『獣電戦隊キョウリュウジャー』辺りにでも任せておけばいいだろう

このように書いたわけだが、「形式」と「意味」の観点から比較した時に同じ「王道的」とファンから評されがちなものであっても『星獣戦隊ギンガマン』と『百獣戦隊ガオレンジャー』がどう違うのかが私の中で明瞭になって来た。
髙寺成紀は「ギンガマン」を作る時に「王道中の王道を往こう」と決めて向き合ったと肯定的にも否定的にも述懐しており、また日笠淳も「ガオレンジャー」を作る時に「王道戦隊を復活する」という企画書を書いたという。
しかし、これは裏が取れていないのであくまでも推測でしかないのを承知で語ると、出来上がった作品から判断すると高寺Pのいう「王道」と日笠Pのいう「王道」はまったく意味合いが異なるものではないだろうか。
高寺Pなりの「王道」として作り上げた「ギンガマン」は「形式的王道」であり、日笠Pのいう「王道」は「意味的王道」ということだったのではないかと私は見ている。

これは一見逆じゃないか?と誰しもがお思いであろうが、実際は第1話を比較すればわかることであり、「ギンガマン」は一見王道を遵守しているようでいて、実は相当に例外的なことをやってのけている
その表れがドラマのメインとなっているヒュウガの死とそこからのリョウマの怒りによるアースの覚醒、そして銀河転生してからの怒涛のアクションのラッシュだが、これは80年代的な戦隊の王道からは大きく逸脱しているだろう。
まず大事な人の死を契機として主人公の怒りが爆発し覚醒するという「ドラゴンボール」の超サイヤ人や超サイヤ人2に象徴されるような手法自体がそれまでの戦隊にはなかったものであり、またその後のアクションはもっと強烈である。
5人全員揃っているにも関わらず戦う時は確固撃破という型破りなスタイルであり、ギンガレッド/リョウマに至ってはバルバンの幹部連中と船長のゼイハブをたった一人で圧倒してしまっていた

実は『五星戦隊ダイレンジャー』の1話からチームワークではなくスタンドプレーで敵を倒すスタイルが1つの試みとしてあったのだが、「ギンガマン」に至っては遂にレッド一人で幹部と首領を圧倒してしまっている。
これは戦隊シリーズの本質である「団結」という点からは大きな逸脱であるわけだが、「王道中の王道」などと謳っていながら「形式的王道」であることをこだわり抜いた結果「ギンガマン」はむしろ従来の形式から逸脱してしまった
それはドラマに関してもそうであり、小林靖子が手がけた作品の中でも「ギンガマン」は意味的においてもとにかくその「形式的王道」に合わせる形で王道的であろうとした結果、かえって他の戦隊ではありえない逸脱を果たしている
それこそが正にドラマの中核として描かれている「炎の兄弟」であって、見る人次第では「御都合主義」と批判されることも少なくない最終章のあの流れも実は相当に異色な展開なのだが、誰しもが挙ってそんな本作を「王道」と評していた

私自身もリアルタイムからずっと「ギンガマンこそが次世代の戦隊シリーズの王道でありニュースタンダード像なんだ」と思い込んでいたのだが、最近はむしろ「ギンガマン」こそが実は歴代でも相当に「例外的」な作品ではないかと思うのだ。
とことんまで「王道的」であることにこだわって意図的に「形式」を重視した結果として最終的に「形式的王道」と「意味的王道」の双方からの解放が可能になってしまったという「チェンジマン」以来の奇跡が発生したのである。
だからこそ私にとって「ギンガマン」は決して「過去の名作」などではなく今もなお見る者の感性を揺さぶり続けている一作なのではないかというのが、勝手ながら私の思うところだ。

一方で日笠淳が『百獣戦隊ガオレンジャー』は「意味的王道」、すなわち「5人の戦士がガオの戦士に選ばれて団結し地球の平和を守る」という部分のみを守っており、形式的な部分ではむしろ「異色」といえるだろう。
「パワーアニマルをほぼ全てフルCGアニメーションとして描く」を中心に、例えばお揃いのジャケットだったり5人が一様に熱血したり名乗りの時に「灼熱の獅子」といったキャッチフレーズをつけるのはそれまでの戦隊にない新しさだ。
だから「ガオレンジャー」は物語というかドラマの面ではほとんど頭を使っていない分、形式の部分を大きく変えることを選択し、その「形式の変化」こそが当時の人気や数字の高さへと繋がったのではないだろうか。
そういう意味においては「スーパー戦隊のニュースタンダード像」は「ギンガマン」というよりもむしろ「ガオレンジャー」やそれを自覚的にやり直した「ゴーオンジャー」であると納得できる。

要するにこれは「鶏が先か卵が先か」という話であり、「意味」が先にあってそれに合わせて「形式」が決まるのか、それとも「形式」が先にあって「意味」がそれに付随するのかで似たものでも作品としては大きく異なるのであろう。
そういえば、以前にXで交流を持たせていただいていた私の元フォロワーの方々とスペースで話した時に「「ギンガマン」を単なる王道戦隊の超凄い版だと思って舐めてかかったら痛い目に合った。あれはとんでもない」ということを語っていた。
その時はさほど反応せずに敢えて流していたのだが、今改めて考えてみると「形式的王道」であることを頑なに貫いてそこに意味が付随する形を守った結果として王道からの逸脱を例外的に果たしてしまった作品だと納得できる。

お陰でまたスーパー戦隊シリーズそのものに対する見る目・感性がまた変わりそうで楽しみである。

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