『侍戦隊シンケンジャー』(2009)に出てくるモヂカラと戦い方から見る「侍」とは?
現在『侍戦隊シンケンジャー』(2009)がYouTube配信で第八幕まで出ているのだが、改めて見直してみると「シンケンジャー」の戦いのスタイルは歴代でも特殊である。
単純に剣の斬り合いだけをすればそれで良いのではなく、ショドウフォンなる黒筆と携帯電話の機能が一体化した道具を用いて「モヂカラ」も使わなければならない。
彦馬爺が「侍たる者、剣の腕だけではなく文字の力「モヂカラ」もまた扱えなければならない」と第二幕冒頭の稽古シーンで説明されている。
しかし、黒澤明の「七人の侍」をはじめとする時代劇を見ればわかるが、ほとんどの時代劇において「モヂカラ」のような特殊能力などは登場しない。
また、もう1つの特徴として「秘伝ディスク」があり、剣の鍔を回転させることで各々の属性のモヂカラを纏わせて攻撃したり、またシンケンマルを個人武器に変形させたりすることができる。
なぜこのような仕組みになっているのかについて劇中では明確に描写や説明はない、何故ならば「シンケンジャー」という作品における主題は「殿と家臣の主従関係」にあるからだ。
実際ほとんどの視聴者がシンケンジャーの「ドラマ」に注目することはあっても、「戦闘スタイル」に注目してそのスタイルを真正面から考察することはほとんどない。
そこで今回はいわゆる「キャラ漫画」としての、いわゆる「空想科学読本」「もっとすごい科学で守ります」とは異なる「ファンタジーチャンバラ」としてのシンケンジャーの戦い方を論じてみたい。
モヂカラとは何か?
文字の力=モヂカラは劇中だと書いた文字を実際の効果として具現化させる力がある、例えば「葉」と書くと葉っぱが出てきたり「石」と書くと本当に石が出現する。
第八幕までで描写されているモヂカラにはそのような力があるが、そもそも従来の時代劇の侍がこのような文字の力を使って戦うというのは見たことも聞いたこともない。
個人武器についてはわかる、弓や槍、十字手裏剣のようなものは侍・忍者でも使っていたし、場合によっては徒手空拳を用いた肉弾戦だってないわけではないのだ。
しかし、「シンケンジャー」がそれら従来の時代劇と異なるのは単純に刀や個人武器を使って敵と斬り合いをし、主従関係を大事にするだけではないところにある。
シンケンジャーの5人にはそれぞれ火・水・木・天・土という色と結びつく属性が与えられているのだが、これらの発想のルーツが五行説の火・水・木・金・土であるのはいうまでもない。
しかもこれが歴代戦隊で正式に属性として割り振られたのも「シンケンジャー」が最初ではなく、『五星戦隊ダイレンジャー』『星獣戦隊ギンガマン』『魔法戦隊マジレンジャー』で用いられている。
「ダイレンジャー」の属性……火・幻・重・時・風
「ギンガマン」の属性……炎・風・水・雷・花
「マジレンジャー」の属性……炎・雷・地・水・風
「ダイレンジャー」は中国の武侠小説の文脈なので毛色が異なるが、いわゆる「自然の属性を各戦士の超能力とする」という戦い方の基盤が作られたのは「ギンガマン」からである。
そしてその形を「マジレンジャー」も「シンケンジャー」も踏襲しているが、「ギンガマン」と「マジレンジャー」「シンケンジャー」との最大の力は「道具による媒介の有無」にあるだろう。
どういうことかというと、「ギンガマン」に出てくる星獣剣の5人の戦士が使う「アース」は「チェンジマン」の「アースフォース」のオマージュを更に推し進めた「星の力の具現化」だ。
地球にある大自然の力を己の体内に取り込み、それをまるで衝撃波のように直接手から繰り出したり、剣や棒などの武器に纏わせたりすることで殺傷能力を高めることができる。
しかもギンガマンの場合は、マジレンジャーやシンケンジャーとは異なり変身前の生身でマージフォンやショドウフォンみたいな変身道具による媒介がなくともその力を使えるのだ。
これに対してマジレンジャーの魔法やシンケンジャーのモヂカラは生身で直接使うことはできず、変身道具を用いて呪文を詠唱したり筆で文字を書いたりしないとその特殊能力を技として使えない。
そのように見ていくと、シンケンジャーのモヂカラに一番近いのは歴代だとマジレンジャーの魔法に近く、やっていることも無から有を生み出すものなので魔法使い・陰陽師の類だろう。
私がシンケンジャーを安易に「侍」と劇中で定義されていることに違和感があるのは「侍というよりも陰陽師だろこれ」という戦闘スタイルへの違和感から来るものかもしれない。
ファンタジックな戦い方の本質と弱点・欠点
「ジュウレンジャー」からいわゆる「ファンタジー」というジャンルが確立されていくわけだが、その中で本当にガチの超能力バトルをやっている作品は少ない。
何故なのかといえば、超能力を用いると戦い方が「何でもあり」になってしまい、視覚的な派手さは得られる反面、戦いに必要な緊張感や重々しさ・スピード感が足りなくなる。
現に同時代にやっていた『指輪物語』『ハリーポッター』に出て来る魔法合戦を見ればわかるが、視覚的には派手であってもバトルスピードは遅いし緊張感に欠けることが多い。
そしてそれらのシリーズのある種エピゴーネンとも言える「マジレンジャー」のバトルシーンが(前半は特に)緊張感に欠けて重々しさがないのもそれが理由だった。
『五星戦隊ダイレンジャー』や『星獣戦隊ギンガマン』はその点をうまく解消し、例えば「ダイレンジャー」においては各々が出す超能力をあくまで補助としてのみ用いている。
主体はあくまでも中華拳法による華麗なアクションであり、そこをメインに剣戟などを多彩に盛り込んでいたからこそ、バトルシーンが大いに盛り上がった。
それは「ギンガマン」も同じであり、彼らはRPGでいう「魔法剣士」のような立ち位置だが、「アース」が物語の核にありながらも、実際のバトルシーンはそれだけではない。
彼らのモチーフとなる星獣が乗り移ったかのようなアニマルアクションによる肉弾戦、そして星獣剣を中心としたスピーディーながらに鮮やかな剣戟まで多角的に展開している。
つまり、属性となる力を用いた超能力バトルは「補助」として使う分には面白くても「主眼」として見せるには難しく、どうしても細かい描きわけが必要になるのだ。
これが例えばジャンプ漫画であれば、『ジョジョの奇妙な冒険』のスタンドや『HUNTER×HUNTER』の念、『ONE PIECE』の悪魔の実といった「能力バトル」として描ける。
しかし、能力バトルのデメリットとして「視覚的に強いかどうか」がわかりにくいし数値化もしにくい、すなわち「強さの値」を視覚的に納得させづらいのだ。
『ドラゴンボール』が何故界王拳や超サイヤ人をはじめ様々な「気」の概念や自己再生・魔法などの超能力を出しながらも、メインを肉弾戦にしたかというと肉弾戦メインの方が視覚的な強さを納得させやすいからである。
実際、「シンケンジャー」を見ていると、モヂカラを「補助」として使うことはあるが「主眼」として見せることが少ないのも、チャンバラをメインに見せないと強さがわかりにくいからだ。
だから、彼らがトドメに烈火大斬刀を用いた五輪弾を使ったトドメの技を見るとCGやコンポジットまで使っているため初見の派手さだけは伝わるが、2回目以降はむしろ派手さだけで安っぽく見えてしまう。
それこそ初代「プリキュア」の時に「通常は肉弾戦なのに、トドメが衝撃波というのは結局従来の魔法少女アニメとの差別化になっていない」という批判をチラホラ見かけたことがある。
それと同じようなことが「シンケンジャー」の戦い方にもいえて、「シンケンジャー」の視覚的な体感としてのバトルスピードは実はとても遅い方だ。
外道衆と戦うのに「モヂカラ」が必要な理由
上記で書きそびれたが、モヂカラを使うことのもう1つのデメリットは戦闘中にわざわざ文字を入力しなければならない関係で無防備になりやすく、バトルのテンポも阻害されてしまうことだ。
実際終盤ではあるモヂカラを使おうとした時、発動するのに時間がかかるから攻撃されないように食い止めなければならないというめんどくさい仕様になっているのである。
だから、「シンケンジャー」は重々しい剣戟はよくできているが、一方で映像的にはテンポが遅くなるのだが、何故そんなデメリットを選んでまで外道衆と戦う必要があるのか?
それは外道衆という敵組織自体が「この世」と「あの世」の間にある「隙間」にある三途の川という特殊な世界に存在する悪だからである。
過去から復活した悪という意味で近しいのは『忍者戦隊カクレンジャー』の妖怪軍団や『星獣戦隊ギンガマン』の宇宙海賊バルバンの系譜だが、どちらかといえば妖怪軍団に近いだろうか。
妖怪軍団は先祖が用意した封印の扉によって固く閉じられており、現世に出てこれないようにしてあるのだが、人間の悪意が温床となる現代では封印がどうしても解けやすくなってしまう。
永久に倒すことは不可能であるという身も蓋もない結末を迎えてしまったわけだが、要するに「カクレンジャー」の妖怪軍団とは人間の怨念・悪意が具現化した存在であろう。
まあ妖怪軍団の中には人間に対して親しみを覚える座敷童子もいたし、陽気な妖怪達もいたので和解しようと思えばできなくはなかったし、善化させようと思えばできた。
これに対し外道衆は妖怪軍団が持っているような陽気さや楽天性など持つ者はほとんどおらず、残忍・狡猾・陰湿といった生理的嫌悪感を催しかねない「悪」である。
「生きて人の世にも行けず、死んであの世にもいけぬ辛さともどかしさ、特に悲しみや苦しみに惹かれる事この上無し」とは後半に出てくるアクマロの言だが、言い得て妙だ。
妖怪軍団と比べて外道衆は組織としてのつながりが脆く、デザインも禍々しく、現世に浮かばれない怨念の霊魂が人や怪物の形となって具現化しているということだろう。
だから妖怪軍団と違って和解の可能性など最初からなく、かといってあの世にもいけない以上封印の文字を使うしかないのだが、封印の文字を使っても果たして解決になっただろうか?
「ギンガマン」のバルバンもそうだが、小林靖子がメインライターを担当する戦隊シリーズは「敵組織との和解・共存の可能性」が徹底的に排除されている。
現在配信中の「タイムレンジャー」のトゥモローリサーチの5人と滝沢直人、ロンダーズファミリーですら利害の一致による共闘はあっても、根本から価値観が違うために和解することは絶対ない。
アヤカシが2つの命を持っているというのは正確には「2人分の怨念を命として持っている」ということであり、それらを完璧に消し去るには陰陽師のごとき言霊(ことだま)でなければ倒せないのである。
だから、バトルスピードを多少なり犠牲にしたとしても、モヂカラと剣術を中心とした戦い方を選ぶということになったのではないだろうか。
「シンケンジャー」における侍とは何か?
ここまで見ていってようやく「シンケンジャー」における侍とは何か?が見えてくるわけだが、それは彼らの持つ「モヂカラ」という力の源と敵対する外道衆を見ていくことでようやくわかる。
小説版で設定されていることだが、志葉家をはじめとする侍達の末裔は日本政府公認の合法的な対外道衆に特化した武装集団であり、『ONE PIECE』でいう王下七武海に近い存在であろう。
下界との関わりがありながらも、普段表に出ないのはいざという時のためだけに力を振るうこと日本で公的に認められているからであり、設定的には同時配信中の『超力戦隊オーレンジャー』と近いであろうか。
いわゆる『恐竜戦隊ジュウレンジャー』や『星獣戦隊ギンガマン』のようなエスニックな民族衣装を着た外来の戦闘民族と現実的な軍人戦隊の間の子というのが「シンケンジャー」の立ち位置かもしれない。
即ち、90年代の「ジュウレンジャー」「ダイレンジャー」「カクレンジャー」「ギンガマン」程ファンタジー戦隊としての架空性や抽象度は高くない、適度に現代的な科学や現実世界との接点もある。
しかし、「ゴレンジャー」「サンバルカン」「チェンジマン」「オーレンジャー」のような世界的にその名が認知されている軍人戦隊程ガチガチな科学寄りでもないということであろうか。
長年「シンケンジャー」という作品が00年代の中ではとても異質でありながら、どうにも位置付けが定まらなかったのは劇中の設定がブラックボックスの塊で未解明な部分が多いからかもしれない。
もっとも、そのような考察をせずとも十分にドラマとチャンバラで楽しめる作りではあるが、これを初見で理解しろというのは至難の業であると思う。
そう考えると、逆説的に「殿と家臣の主従関係」という窮屈な武家社会の制度を物語の主題として展開しなければならなかった理由も何と無く理解できる。
それは正に軍隊式の上意下達方式に酷似していると同時に、「自分と他者との繋がり」というものを強く持つという点において、強烈なエゴ塗れの怨念に支配された外道衆との対比になるからだ。
自分の命と他者の命を大事にし、言霊を信じて戦うシンケンジャーに対して自分の命も他者の命も粗末に扱い、言霊なんて信用せずに戦う外道衆は全く相容れない存在である。
こう見ていくと、終盤の展開が何故あのような決着をつくのかもわかるのだが、それは配信が終わってから改めて語るとしよう。
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