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『炎神戦隊ゴーオンジャー』(2008)感想決定版〜紋切型にすらなりきれていないエピゴーネンofエピゴーネン〜

もうかれこれ4度目くらいになるが、『炎神戦隊ゴーオンジャー』(2008)感想をば。

評価;F(駄作)100点満点中15点


概論

今までかなり謙遜というか忖度気味の評価を下していたが、それらは半分以上「商品」としての売れ行きが良かったからそういう評価をしていたに過ぎない。
逆にいえば、それを取っ払った1つの「映像作品」としての本作の評価は見るに堪えないお粗末なレベルという他はない、こんなにも酷い出来だとは思わなかった。
以前にも書いた通り私は本作を決して高くは評価していなかったが、それでも以前のブログでB(良作)を与えていたのはどうにかして擁護しようという「甘さ」があったからだ。
特撮作品、ましてや子供向けのスーパー戦隊シリーズを批評をするのはそういう意味で「難しい」というのが改めて本作のような「王道系」作品を見て感じさせられる。

本作を評価する時、役者たちの演技力や脚本・演出による人物造形もそうだが、どうにも2008年という基準で見ても相当にクオリティーが低いと言わざるをえない。
まずゴーオンジャーの5人がきちんとチームになっていく過程も雑であれば、いわゆる「〜だぜ」「〜ッス」といった語尾の付け方、また人物に言わせる台詞の1つ1つのインパクトも薄い。
それだけならまだしも2クール目で登場する追加戦士枠のウイングスこと須塔兄妹もいわゆる「成金趣味の小金持ち」を鼻にかける嫌味なやつという印象からさしたる変化が見受けられないのである。
つまりベースにあるゴーオンジャー5人とウイングス2人の造形自体が掘り下げが浅いとかいうレベルではなく、そもそもきちんと「役」としての存在証明が画面の上できちんとなされていない。

前作『獣拳戦隊ゲキレンジャー』(2007)の失敗があることを踏まえて、本作は玩具売上回復を目的として作られた王道系の作品ということは誰しもが承知している。
だが、『百獣戦隊ガオレンジャー』(2001)がそうであるように、そのようにして「子供に向けて真剣に作る」のではなく「子供に媚を売る」形で作られた作品の中で10年・20年と残る名作・傑作は生まれない。
だから本作はその意味で「ガオレンジャーの再生産」なのだが、その「ガオレンジャー」自体が「ギンガマン」からガワだけを借りて薄く水増ししただけのエピゴーネンであり、本作は更にそのエピゴーネンというわけだ。
つまり「エピゴーネンofエピゴーネン」が本作であり、如何にも日笠Pをはじめとする作り手の考えが露骨なまでに無責任かつ無駄しかない画面の放埓さとなって現れていることであろう。

私が本作を口が裂けても「王道」「次世代へのニュースタンダード」といえないのはそこであり、「王道」「ニュースタンダード」というからには、そこで築き上げた形式や要素が何らかの形で後発に継承される必要がある。
しかしながら、本作が後発の作品群に影響を与え1つの雛形になったかというと、2023年現在の『王様戦隊キングオージャー』までを見る限りないと断言して差し支えない
したがって、映像作品としての本作を見た時、アクション・メカニック・ドラマのあらゆる点において「安心」「納得」はあっても「驚き」「衝撃」と呼べる瞬間はほとんどなかった
具体例をあげながら、改めて令和に見る「ゴーオンジャー」がどのような作品であったかをフィルム体験の「現在」として論じてみたい。

「ピーターパン症候群」の塊であるゴーオンレッド/江角走輔と愉快な仲間たち

まず本作に関して私がこれだけは声を大にして主張しておきたいのは、本作に出てくるゴーオンレッド/江角走輔と愉快な仲間たちは皆「ピーターパン症候群」の塊であるということだ。
最初にゴーオンジャーに選ばれた3人(走輔・蓮・早輝)からして普段の言動・行動が幼稚であるのは言わずもがな、「頼れる兄貴」ことウイングスの須塔大翔までもがそうなのである。
顕著に出たのがアイドル回のG3プリンセス回で敵を倒すためとはいえバラードを披露したりブレイクダンスを披露したりしていたし、G5プリンスではセンターで踊ってすらいた。
これがせめて大翔だけでも「くだらない、やりたい奴だけがやってればいい」という人物ならまだわかるが、シリアスぶっておきながらいざとなるとゴーオンジャーの幼稚なおばかのノリに染まってしまう

しかもそれだけではなく、走輔も走輔でもっと懐が広い包容力のある人物かと思いきや、変なところでウイングスに逆らって噛み付いたり、バイトを楽しむ範人に強制的に辞めさせようというスタンスでいたりする。
あまつさえ四六時中暑苦しく叫びまくって突っ込んでは返り討ちに遭うことも少なくなかったせいで、一番好きになるべき走輔が最後まで好きになれず仕舞いだったし、もっといえば走輔というより古原靖久に見えてしまう。
特撮作品においてはよく脚本家が役者に対して「当て書き」に近いことがされることは珍しくないのだが、本作の江角走輔に関してはほぼ古原靖久という役者の人格そのものと断言して差し支えない。
だからその古原靖久を好きになれないと本作は厳しいところがあるのだが、私は正直YouTubeなどで見かける彼自身がそんなに好きではないこともあり、近年余計に走輔が嫌いというか苦手な人物になっている。

また、冒頭でも書いたが、本作は全ての戦隊メンバーと炎神に妙な語尾や擬音語をつけて四六時中ペチャクチャ喋らせていたが、私に言わせれば「うるせえこの野郎!」としか毎回思えなかった。
ただでさえ走輔自体が熱さを履き違えた小学2年生みたいなうるさいやつなのに、炎神たちも他の仲間たちもみんな喋る必要がないところで喋り出すから、本当に最後まで下品な画面で見ていられない。
本作の物語としてのテーマが「人間と炎神の絆」らしいが、その絆の表現が「質」ではなく「物量」でのべつ幕無し思いを言葉にしているのが聴くに耐えなかった。
まるで友達や恋人感覚のようにベラベラ喋っているせいで、いざここぞという場面でいう決めセリフやカットの印象がまるで引き立たず、かえって平板な印象を与えてしまう

特にそれが露骨に出たのがGP19で自分たちの不甲斐なさに憤慨する軍平に対して反論する走輔のシーンなのだが、ここもセリフ自体はおかしくはないものの、やはり唐突かつ説得力に欠ける。
プロフェッショナルでもアマチュアでもなくゴーオンジャーという台詞はいいとして、問題は走輔がそこに至るまでのどこからそんな答えを導出したのかが全く見えないことだ。
普段おちゃらけていてもここぞというところで自分たちが何をすべきかを考えるそぶりがあったり、あるいはその考えを獲得していくような話があったりして深めたのなら話は別だ。
しかし、走輔だけではなく軍平も他のメンバーもみんな精神年齢が幼い癖に安直で芯の弱い正義のヒーロー論を振りかざし、自分たちがヒーローであることに酔っているのがこの上なく鬱陶しい。

ただでさえ00年代の戦隊はコロコロコミックや少年ジャンプから抜け出てたような小学生主人公がそのまま主人公のレッドをやっている作品が多かったが、本作の走輔はその極みみたいなものであろう。
そんなのを罷り間違っても戦隊ヒーローの王道などとは思わないし、そんな幼稚ナヤツラが何とかしてくれるという安心感や頼り甲斐を最後まで感じ取ることはできなかった

ギミック頼りの中身がないアクションとメカニック

以前から指摘していたことではあるのだが、本作には目を見張るようなアクションとメカニックがほとんどなく、結局は玩具のギミック頼りであるという画面の貧相さに気付かされる
これは第一話からそうなのだが、走輔たちは一応生身でガイアークと戦うシーンがないわけじゃないものの、変身するとほとんどがスーツに付属している武器や玩具のギミックのみで戦っていた。
両手両足のゴーオンギアやマンタンガンに個人武器、そしてその個人武器を組み合わせた連結バズーカなどに頼っていて、もっと役者の素体の身体能力を活かした「魅せる」アクションが少ない
これは生身でも変身後もそうで、生身で印象に残った戦闘シーンだとやはり走輔が石を持って走るシーンがギャグとして面白かったことと、あとはGP36のヨゴシタインに生身の特攻を走輔以外の6人がかけるところか。

一番物語として個人的に「いい」と思ったのはブロンズ像と化した走輔のためにと仲間たちが生身で奮闘するシーンだが、あれも最終的な目的はチェンジソウルを取り戻すためである
あそこは珍しく走輔も死にかけていて緊張感があったし、最後に走輔とヨゴシタインの一騎討ちという見せ場もあってよかったのだが、それ以外は結局お約束というかノルマとして戦闘をこなしている感じがしてしまう。
新武器についても、例えばゴローダーGTやカンカンバーはデザインがタックルボーイとフミキリケンの廉価版みたいでダサいのだが、物語上のことを別としてもなぜ出す必要があったのかがわからなかった。
この中でカンカンバーは一応最終回の冒頭で見せ場があったが故に許容範囲だが、ゴローダーGTは本当に何の為に出てきたのかが最後までわからないままであり、最終決戦ではその存在すら忘れられている。

そして本作で何より私が嫌だったのはやはりエンジンオーG12であり、何度見ても紅白のラスボス・小林幸子みたいな感じの派手派手しいゴテゴテとしたデザインはどうも好きになれない。
G3やG6まではいいとしても、G9とG12は本当に画面に存在することさえ許容しがたいものであり、ロボット全合体の悪しき風習ここに極まれりといったところではないだろうか。
そもそも「ボウケンジャー」のアルティメットダイボウケンの時点で相当に厳しかったのだが、本作の全合体は時代の流れとはいえ玩具デザイナーの目は節穴かと言いたくなってしまう出来栄えだ。
こんなのを許すから「シンケンジャー」のサムライハオー、「ゴセイジャー」のハイパーゴセイグレートみたいな悪ノリの極みとしかいえないロボットが画面に出てきてしまうのではなかろうか?

私はそもそもスーパー戦隊において、必要以上に武器やメカニックなどのギミックに頼りでパワーアップして強さを表現するのがあまり好きではない。
なぜならば、玩具ギミックに頼ってしまうと、たださえ多い人数のドラマの尺が圧迫される上に、変身前の役者や変身後のスーツアクターの身体能力を活かした着ぐるみならではの戦いが見せにくくなる。
それにギミックに頼ると音響的にもさらにうるささが増してしまい、画面そのものに対する集中力が分散してしまい、映像美そのものを楽しむことができなくなってしまう。
要するに「ギミックを見せること」がありきになってしまい「作品として面白いかどうか」という肝心要の部分が蔑ろになってしまうから、00年代後期以降の戦隊は根本的に私の感性と肌が合わない。

だから、表面上でどれだけゴテゴテに飾り立てたとしても、そもそもの作品としての根幹やショットの強さが希薄である為に、どうしてもアクションやメカニックが無味乾燥で山も谷もなく印象に残らないのだ。

全く脅威感がなく、ギャグとしても中途半端なガイアーク

何と言っても本作で私が最後まで思い入れが発生しなかったのは全く脅威感がなく、ギャグとして見ても中途半端なガイアークなる敵組織であり、まず設定からして疑問符がつく。
本作の「マシンワールドから住む場所を迫害され居場所をなくしたものたち」というのがガイアークの設定なのだが、確かにGP1を見ると冒頭のイスタブリッシングでガイアーク三大臣が迫害されるシーンがある。
そして迫害されたガイアークは自分たちにとって住みやすい場所を作ろうとヒューマンワールドを侵攻するのだが、これってどちらかといえば「悪」ではなく単なる「敵」なのではないか?
確かにガイアークはヒューマンワールドで無辜の者たちに害を成そうとしていたが、それとて大元を辿れば諸悪の根源は炎神たちの迫害が原因なのだから、どちらかといえば炎神たちの方が悪だと思えてならない。

実際、ヨゴシュタイン・ケガレシア・キタネイデスにしたって立ち居振る舞いが純然たる悪役というよりはちょこちょこ主人公たちの邪魔をしてくるだけの憎めない奴らとして描かれている。
それはまるでタイムボカンシリーズの「ヤッターマン」の敵であるドロン女とそのしもべ達やアニメ版「ポケモン」のロケット団のムサシ・コジロウ・ニャースに近い位置付けだ。
だから繰り出す蛮機獣も確かに凶悪なのはいるが、やはりそれでも「今倒さなかったら世界が滅びる」というほどのものじゃなく、まるで子供の喧嘩の延長線上のようである。
まあメインライターの武上純希自体アニメ版の「ポケモン」「遊戯王」などを書いていることもあり、そういう「憎めない悪役」みたいなのを実際に戦隊でどの程度描こうと試みたのかもしれない。

歴代でコミカルさが特徴の敵組織というと「ジュウレンジャー」のバンドーラ一味や「カーレンジャー」のボーゾックが思い出されるが、バンドーラやボーゾックはコミカルに見えてやっていることはえげつない。
特にボーゾックはその気になればいつでもチーキュを花火にできるくらいの凶暴さを持ち得ている上にラスボスのエグゾスも悪の大宇宙ハイウェイ計画を実行しようとするほどのとんでもない力を持っている。
それに比べると本作のガイアークはコミカルではあるものの、動く目的があくまで移住を繰り返す内に住む場所を確保しようとするバルタン星人みたいな「悪役と言えるのかそれ?」という理屈で動いていた。
しかし、ウルトラ怪獣や宇宙人はそのスタンスや思想・行動がウルトラマンや科学特捜隊側と相容れないから戦争になったのだが、本作の炎神とガイアークにはそのような思想のぶつかり合いがあるわけではない。

大枠の部分で「ガイアークは敵、炎神達が正義」という決めつけがあるのみで、走輔たちは実態もよくわからずに上辺だけの理解で炎神と契約し徒党を組んでいるにすぎない。
そしてなぜだかゴーオンジャーよりもガイアークの方が結束力があって友情があるような描かれ方をしているので、明らかに通常のヒーローフィクションと描写が逆になっているのだ。
私が本作に根本から乗り切れなかったのはまさにここにあり、最終回まで見てもガイアークよりゴーオンジャーの方がはるかにタチの悪い正義を振りかざす実質の悪党に見えて仕方がない。
終盤でヨゴシマクリタインが出てきてからは確かに「ああ、ガイアークも悪党だったんだ」と一応の納得はできるのだが、それでもやはり「衝撃」にまでは至らなかった。

如何にも「お約束」とい名のベルトコンベアーに乗って流れてきた最低の最終回

そんな本作で私が最もガッカリしたのは何と言っても最終回であり、「お約束」という名のベルトコンベアーに乗った本作の最終回は「最低」と言わざるを得ない
まずヨゴシマクリタインとの決着がAパートであっさりついてしまったこともそうなのだが、何より私が全く腑に落ちなかったのは一度炎神達と別れさせてから別の世界での戦いのために再結成したことである。
もちろん結末そのものに納得が行っていないというわけではなく、この結末にするのであれば後半での炎神と人間の別れのシーンをああまで情感たっぷりに描かなくていいだろう
そもそも一年間限定の戦いで築かれた人間と炎神の絆なんて私からすればどうでもいいし、人間である走輔達はともかく炎神達にとってこの戦いはあくまでガイアークを根絶やしにする為でしかない。

それに、ヨゴシマクリタインとの決着にしても、名乗りとエンジンオーG12のファイナルグランプリはともかく、戦闘シーンの駆け引きが殆どなく、あっさり気味に倒されてしまい全く迫力がないのだ。
むしろGP49までで見せた無限のバンドーマ軍団を使ってヒューマンワールドをゴミ化する作戦といった戦略の方が凄かった印象があるので、単独ではそこまで強くは見えない。
同じAパートで終わる決戦にしても「ジェットマン」最終回のラゲム(ラディゲ究極体)とではその迫力は月とスッポンの差があるだろう。
ここでせめてエンジンオーG12が最終的にG3になるなどのもつれ込みかたをすればもっと印象は違っていたであろうが、あまりにも「お約束」に乗りすぎた。

だから、本作はわざわざ描かなくてもいい仲間達の再会のシーンや炎神と人間の別れのシーンに無駄な尺を割き、もっとしっかり描くべき最終決戦があまりにもあっさりし過ぎている。
GP36ではまさに最終決戦並みのボルテージを生み出せたのだからそこを超える瞬間最大風速というか爆発力を期待していたのに、最終回ではむしろ冒頭のシーンで盛り上がりが下がってしまった。
走輔たちが1話で使っていたセリフを最終回で拾うなどは伏線回収のつもりであろうが、そこに至るまでの走輔たちのキャラになんの変化も厚みもないせいで、そこに何らのインパクトも生まれない。
それに加えて、描く必要のない走輔たちの社会人としての生活なんてものを描くくらいなら、他にもっとやりようはあったはずであり、何を意図してあの最終回にしたのかが不明なまま表向きだけ大団円のように終わっていた。

終わってみれば、この半年間YouTubeの再視聴を通して私が改めて本作を「紋切型にすらなりきれていないエピゴーネンofエピゴーネン」としか評することができないことが判明した。
複雑なドラマで勝負せずにシンプルかつストレートな魅力で勝負する直球の王道というのは、それ自体が「定番」「無難」と言われがちだからこそ、どう盛り上げるかが大事である
そして最も大切なことは、「このヒーローたちがいればどんな絶望も乗り越えてくれる、何とかしてくれる」という安心感と「ここでそれが来るのか!」という驚き・衝撃とのバランスだ。
この点で見た時に、「ゴーオンジャー」という作品はそのどちらの水準も満たすことができておらず、映像作品として「見る」ことの喜びが全く感じられなかった

今まではどこかで妙な正義感に駆られていたというか、変な忖度をして「高く評価してあげるべきか」という甘さみたいなものがどこかにあった。
しかし批評に対して妙な遠慮も忖度もしなくなった今、私にとって本作はフィルム体験の「現在」として私の感性を揺さぶってくれるような名作・傑作ではない
玩具販促が上手くいき売上を回復させたという目先の目標を達成したことでしか評価できないことがその証左であろう。

さらば「ゴーオンジャー」!

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