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スーパー戦隊シリーズは仮面ライダーシリーズと比べて、本当に楽で簡単なお仕事だと言えるのか?

最近、改めてスーパー戦隊シリーズを中心に、いわゆる特撮の「文体」について考えているわけだが、よく言われるのは「スーパー戦隊はフォーマットが決まっているから仮面ライダーより楽なお仕事」という言葉である。
これを単に宇野常寛や石岡良治のような批評家・評論家勢や受け手の一視聴者だけが言うのであればともかく、問題は作り手自身がインタビューでそういう発言をしてしまっていることだ。
こちらのインタビューを見ればわかるが、『星獣戦隊ギンガマン』でメインライターとしてデビューを果たした小林靖子女史にしたってそういう趣旨の発言をしているので引用してみる。

小林 たとえば、「戦隊もの」であれば、時代劇的なフォーマットがしっかりと土台にあるんです。ここで戦って、ここで一度負けて、でも最後に敵を倒して大団円、みたいな。フォーマットの中でいろいろとバリエーションをつけていくのが「戦隊」だったんですね。でも、当時の、いわゆる「平成仮面ライダー」シリーズは『仮面ライダークウガ』から始まったばかりで、フォーマットらしいフォーマットがなかったんです。しかも、連続ドラマですから、作法がまったくわからない。そこですごく苦労しました。『龍騎』をやっていくなかで、だんだんとドラマの作り方みたいなものがわかってきたかな、というのがあります。

小林女史にしては随分面白味がないことを言うものだと思ったのだが、言い方などを見ると小林靖子は忖度こそしないものの発言に「煽り」「嫌味」「皮肉」といったものが感じられないので、間違いなく彼女自身の実感なのであろう。
少なくとも平然とスーパー戦隊シリーズを「子供騙し」と言い切っていかに自分たちが作り上げた平成仮面ライダーシリーズの初期作品が素晴らしかったかという過去の栄光に縋った発言を繰り返す髙寺成紀や白倉伸一郎よりは何倍もましだ。
確かにスーパー戦隊シリーズは仮面ライダーシリーズと比べて時代劇的な、もっと言えば歌舞伎の「白浪五人男」という明確な古典がフォーマットになっているので、それを使えば作劇や特撮はさほど難しくないという印象はあるだろう。
対して仮面ライダーシリーズ、特に「クウガ」〜「555」あたりの初期4作は「BLACK」以来のテレビシリーズだったこともあり、前例となるようなフォーマット・モデルがない中で作らなければならなかったというのは間違いない。

しかし、だからと言ってスーパー戦隊シリーズが仮面ライダーシリーズよりも下だとか楽だとか子供騙しだとか、安易に決めつけてしまっていいものであろうか?

そもそも論、小林靖子はなぜ平成仮面ライダーシリーズの初期作品がそういうフォーマットらしいフォーマットが固まり切っていない中で作らなければならなかったのか?を理解しているかどうかすら怪しい。
まず仮面ライダーシリーズが辿ってきた歴史から説明すると、スーパー戦隊も仮面ライダーも原作は石ノ森章太郎先生の原作漫画と同時進行で出た、いわゆる「メディアミックス」が原点である。
仮面ライダーがいわゆる「闇から生まれた正義」「改造人間の悲哀」をベースにしており、テレビシリーズの旧1号編の1クールはその命題に沿ったヒーローとして作られていた。
それに対してスーパー戦隊シリーズの原点である「秘密戦隊ゴレンジャー」はそのような明確な作者の思想・メッセージ・テーマのようなものがあってスタートしたシリーズではなく、途中から完全に原作者の手を離れている。

しかし、仮面ライダーシリーズだって何も最初から平成の初期シリーズがやっていたサイコサスペンス風のドラマではなく、むしろ平山亨が初期に作っていたテレビシリーズは「仮面の忍者赤影」に代表される東映時代劇のフォーマットであった
なぜかというと旧1号編が当時としては画面としても話としても暗くて面白味があまりなく視聴者の人気を得られなかったからであり、藤岡弘のバイク事故をきっかけに旧2号編で一気に勧善懲悪型のわかりやすい一話完結方式に路線変更している。
これは例外中の例外と言って良い路線変更なのだが、一方でこういう鋳型にはめる作りはワンパターンになってしまいシリーズを重ねれば重ねるほど旨味がなくなって視聴者に飽きられてしまうという弊害があるのだ。
だからこそ平山亨は一度「ストロンガー」でシリーズを打ち切り、その後「スーパー1」までを作ってからは完全にテレビシリーズから離れ、宇宙刑事三部作を作っていた吉川進がそのフォーマットを用いて再構成したのが「BLACK」「RX」である。

平成仮面ライダーシリーズを賛美する一方でスーパー戦隊を貶す発言をしたがる風潮が未だに残っているが、そういう人たちに限って「元々仮面ライダーにもスーパー戦隊シリーズと同じ時代劇のノウハウがあって、そのおかげで初期は成功した」という事実を都合良く忘れてしまっている。
だが、その旧態依然としたフォーマットではいずれ限界が来てしまいシリーズ物が長続きしないことがわかっていたから、髙寺成紀や白倉伸一郎はその平山・伊上コンビが作り上げた時代劇に取って代わるものとしてサイコサスペンスドラマを輸入したのだ。
正確に言えば「クウガ」〜「555」までの平成ライダー初期作品は「フォーマットらしいフォーマットがなかった」のではなく「時代劇に取って代わるフォーマットをライダーシリーズの新たな文体として取り込むのに試行錯誤していた」という言い方が正確である。
本当にフォーマットがなかったらその後のシリーズを続けていくことは不可能だし、また小林靖子が担当した「龍騎」はスーパー戦隊シリーズでいうところの『五星戦隊ダイレンジャー』に相当する激動期だったために、余計に苦労したのであろう。

また、幸か不幸か、小林靖子は井上敏樹と違って上原正三・曽田博久がメインライターを担当していた『地球戦隊ファイブマン』までのスーパー戦隊シリーズの現場の空気や作風の変遷などを直に経験していない
また、『鳥人戦隊ジェットマン』を経て杉村升がメインライターを担当した『恐竜戦隊ジュウレンジャー』〜『超力戦隊オーレンジャー』までの経験すらもしていないのである。
彼女が初めてスーパー戦隊シリーズに参加したのは『電磁戦隊メガレンジャー』という新時代のものを志向していた時の、比較的シリーズとして収穫期に入ろうとしていた時代のことだ。
つまりシリーズとしてある程度の土壌が整った上で万全の体制で作らせてもらっていたわけであり、スーパー戦隊がどうしてここまで長続きしてきたのかというのを作り手としても受け手としても知らなかったとしても無理はない。

最近改めて思うのだが、何の制約もない中で好き勝手に自分の作りたいものを作るよりも、枠やフォーマットが決まっている中で知恵を絞って創意工夫しながら作ることの方が遥かに大変なのだ。
スーパー戦隊が本当に仮面ライダーに比べて楽な子供騙しだったとしたら、かつての昭和ライダーがそうであるようにどこかで行き詰まりを起こしてシリーズそのものが打ち切りになるはずである。
現に一回『ジャッカー電撃隊』でシリーズ唯一の打ち切りという大失敗を経験しているのだし、簡単なように見えて実は毎年形式と意味を考えながら「今年はどうやってヒットさせようか?」を考えて作っているはずだ。
そうでなければ子供向けのテレビシリーズとして50近くもの作品数が誕生するわけがなく、その辺りのことを流石に小林靖子ほどの才能がある人間がわかっていないとは言わせない

以前も述べたが、仮面ライダーシリーズには仮面ライダーシリーズなりの、スーパー戦隊シリーズにはスーパー戦隊シリーズなりの苦労というものがあるわけで、それは一概に比較できるものではないだろう。
それにも関わらず「大人の鑑賞に耐える」だのという言葉で仮面ライダーシリーズの方がスーパー戦隊シリーズよりも高尚で高級なシリーズだと決めつけたがる風潮の如何にくだらないことか。
子供向けか中高生向けか、それとも大人向けかなんてのは所詮ターゲット層と表現する形式・内容が異なるだけであり、面白くありさえすればどちらが上でどちらが下などということはない。
個人的にはむしろ毎年最低でも5人のメンバーをキャラ立ちさせなければならないスーパー戦隊よりも最低主人公ライダーだけでもキャラ立ちすれば話が成立する仮面ライダーの方が楽で簡単な気もするのだが。

むしろ強固な型による制約がある中で如何に知恵を絞って面白い作品を作り上げるかの方が遥かに難しいのだが、まだまだこの辺りのことも含めて考えや認識が甘過ぎると思う。

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