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YouTubeにある『ドラゴンボール』の二次創作系動画が嫌いな理由

最近やたら『ドラゴンボール』の二次創作動画がオススメに表示されることが多いので、少しだけ見てみたのだが、あまりにも原作愛が無さ過ぎて物凄く不愉快な思いをしている
悟空がやたらと曲解されたクズ、俗称「クズロット」として描かれているネタやひたすらベジータをヘタレ枠にして過剰に冷遇し貶めている感じが酷い。
特に最近見た中で私が物凄くゲンナリして萎えたのは「もしもコミック」というチャンネルの「ナッパ下剋上」と呼ぶべきシリーズである。

いくら二次創作だからといって、ナッパがベジータを差し置いて悟空との特訓の中で超サイヤ人3に覚醒って、幾ら何でもそれはあり得ないだろう、もちろん悪い意味で。
これはベジータ冷遇以前にまず私自身が超サイヤ人3自体がデザイン・戦績共にクソだから大嫌いというのも大きくしているのだが、こんなごみみたいな設定をなぜこの作者は持ってきたのか?
仮にベジータへのリベンジが目的だったとしても、そもそも超サイヤ人3ってそんな簡単に特訓ごときでなれるようなものではないのだが、きちんと原作を読んだ上でこの展開だとしたら救いようがない。
それに、ナッパの行動原理から考えてもこの改変はおかしい、近年だとファンは「ナッパって実はいい奴なんじゃね?」という意見がポツポツ出るが、そういう奴はもう一回原作のサイヤ人編を読み直せボケ!

そもそもナッパに限らず、ラディッツも改心前のベジータも含めてサイヤ人はあくまで地球人とは違う残虐な悪人であり、フリーザ軍に従ってこそいるものの、そうじゃなかったら息をするように無辜の者たちを殺している
最終的に使い物にならなかったからベジータが殺したまでであり、そもそもナッパは防御力も攻撃力もそこそこ凄くて絶望的であったが、判断力や知性など「相手の力量を測る眼力」では圧倒的にベジータに劣っていた。
そのベジータにしたって当初は改心するどころか、むしろその残酷さに拍車がかかっており、当初の目的はドラゴンボールで不老不死にしてもらいフリーザを倒した後で地球人を殺すことだったのを忘れていやしまいか?
なし崩しに呉越同舟による共闘になったという「利害の一致」で共同戦線を張ったに過ぎず、共通の敵がフリーザだっただけで、魔人ブウ編でベジットに合体するまではベジータはあくまで第三勢力に過ぎない。

例えるなら『機動戦士ガンダム』におけるシャアや『星獣戦隊ギンガマン』における黒騎士ブルブラック・ブクラテスのような立ち位置であり、「敵の敵は味方」にならないよう配慮されているのである。
ナメック星人に対して話し合いが通用しないとわかると「じゃあ死ね!」といって次々と殺すわけだし、復活してネイルを吸収したピッコロがやって来た時も「役にも立たねえカス」と詰っていた。
サイヤ人独特の獰猛さの現れである口の悪さと行動の過激さは当然ナッパも継承しているが、なぜ近年のファンは「ナッパを復活させればいい」と見ているかというと、「ラディッツを生き返らせる」発言である。
地球にドラゴンボールがあることを知ったナッパがそう提案したわけだが、ナッパはあくまでほんの冗談感覚で言ったのであって、基本的にはラディッツのことなどどうでもいいのだ。

そんなナッパをなぜ「いい奴」とファンが思い始めているのかというと、近年はバーダックとギネをはじめサイヤ人が「そこまで悪くない、話のわかるいい奴」扱いをされているからである
小山脚本で描かれた「たったひとりの最終決戦」のドライで息子を「クズ」と切り捨てるバーダックと鳥山が描く息子思いなバーダックではあまりにも根幹が違いすぎるのだ。
ましてやそれを『ブロリー』で公式にしてしまったものだから、恣意的に「第七宇宙のサイヤ人はそこまで悪い奴らなんじゃないか?」という見方が醸成されてもおかしくないだろう。
それに加えてベジータは原作のナメック星編で涙を流した辺りから原作でとにかく割を食った扱いをされることが多く、強敵のかませ犬などの汚れ役を長年押し付けられていた。

あまつさえZのクソみたいな劇場版で散々強敵にボコられる冷遇ばかりを繰り返すうちにネットでも「ベジータはとにかく冷遇してプライドを折っとけ」みたいな死体蹴りの風潮が悪化していく
ただ、Z劇場版の過剰な冷遇に関しては一切擁護するつもりこそないが、原作のベジータが割を食う扱いだったのは原作だとベジータが最後まで悟空より上ということになると都合が悪いのである。
「落ちこぼれだって必死に努力すりゃあ、エリートを超えることがあるかもよ」を真実にするためには最終的に悟空をベジータの更に上に持ってこなければ成り立たないからそうしたにすぎない。
だが、それもあくまで結果論であり、幾ら何でも「エリートが下級戦士を超えられません」なんてことになってしまうと身も蓋もないし、エリートをバカにしているのか?ということになりかねないだろう。

『ドラゴンボール超』ではベジータがやたらに親バカな常識人キャラになったりビンゴダンスやたこ焼き・アラレちゃんにボコボコにされるネタ要員にされていたが、それはネットの悪しき二次創作を逆輸入したキャラである。
なにせドラゴン画廊・リーの半分同人で作った『転生したらヤムチャだった』を公式化してしまっているし、それこそ漫画版超の作者は『ドラゴンボールAF』なる同人誌を作っていたとよたろうだ。
しかも変身形態の擦り倒しや既存のキャラの扱いをとことん悪くしてオリジナルキャラの踏み台扱いにするのも『スーパードラゴンボールヒーローズ』がやっていることである。
ああいう同人を公式化するようなことを次々とやらかしているが、そういうのがYouTubeにまで上がっていて、しかもキャラが原作と乖離した完全な別物になっているのがこの上なく不愉快だ。

そもそも、『超』に入ってから悟空とベジータの力関係を映画「スーパーヒーロー」まででサイヤ人編の頃の「基礎スペックではベジータが上」という扱いに戻した理由を、この人たちは分かっているのだろうか?
かつては確かに「落ちこぼれが努力すればエリートを超えられる」というジャイアントキリングがエンタメとして成立していたであろうが、『ONE PIECE』『NARUTO』『テニスの王子様』が出来てからはそれも厳しい。

『るろうに剣心』の緋村剣心を最後にジャンプ漫画において努力家タイプの主人公がエリートを超えていくタイプは主流ではなくなり、潜在能力ないし血筋に恵まれた天才タイプが多くなってくる
ルフィは一家がそれぞれ海軍大将・革命家という家系な上に幼少期から戦闘訓練を積んでいたし、ナルトにしたって父親は四代目火影かつアシュラの転生者という特別な血筋だ。
そして『テニスの王子様』の越前リョーマもサムライ南次郎を父に持つ天才児であって、やはりどこまで行こうと強さの半分以上は血筋や親ガチャで決まるという身も蓋もない事実が示される。

そんなハードルが上がり切った状態で『ドラゴンボール』を続けようとすると、必然的にサイヤ人の王子にして悟空以上の天才戦士であるベジータをサイヤ人編の頃の力関係に戻すしかない
そういう諸々の流れがあって今の『ドラゴンボール』があるというのに、かつてZ時代にファンが嫌がっていた無意味なベジータの冷遇という愛のないことをなぜこの人はやるのだろか?
まあもしもコミックに限らず「パブロ」にしろ「真実に到達することはない」にしろ「エゼル」にしろ、『ドラゴンボール』の二次創作系YouTuberって原作に対して愛もリスペクトもない奴らばっかだけどね
特に悟空がベジータを論破して泣かせるシリーズに関しては悟空がクズロットとかいう次元じゃなく単なる「作り手の本音を代弁するただのスピーカー=ひろゆき」にしかなっていない。

そんなに『ドラゴンボール超』をはじめ原作のキャラに対して文句を言いたいのなら、BiXのように二次創作ではなく「物申す」系の感想・批評動画を作ればいいではないか。
でもそれをやるとネット民から嫌われるから二次創作という形でキャラを借りてヘイトスピーチをやって溜飲を下げようとし、承認欲求を満たそうとする俗物根性がどうも好きになれない。
いわゆる『スターウォーズ』『ハリーポッター』のひろゆきメーカーを使った論陣動画もそうだが、なぜああいう無駄な弁舌を弄ぶような作品が増えているのだろうか?
そもそも「映像作品」なんだから言葉じゃなく動きで見せればいいものを、ああもキャラクターがベラベラとくだらない御託を抜かしている様が私は大嫌いである。

そういう風にして他人の褌で相撲を取るような行為で再生数やら視聴者数を稼いで発展性のない内輪受けのオ○ニーなどやって何が面白いのか、私にはさっぱりわからない。
だが一つ言えることは、庵野秀明がそうであるように二次創作上がりはどこまで行こうとエピゴーネンやパロディの領域から抜け出すことはない、ということだ。
少なくとも見ていて気持ちのいいものではないことは確かなので、報告を上げた上でオススメに表示されないようブロックしておいた。

本当にYouTubeも昔と比べて民度が下がったなあ。


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