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『電子戦隊デンジマン』第6話『悪魔分身の少女』

◼️『電子戦隊デンジマン』第6話『悪魔分身の少女』

(脚本:上原正三 演出:広田茂穂)


導入

自殺をなんとか止めた黄山と緑川

「やめろ、やめるんだ!」

今回はベーダー視点ではなくデンジマン視点から始まるという変則的な構成になっており、尚且つドラマの内容も一風変わったものとなっている。
これまでは冒頭シーンは必ずヘドリアン女王の嘆きと作戦をどうするか?という敵側視点から始まっていたが、今回は自殺する中学生女子を助けるデンジグリーンとデンジイエローから始まっているのだ。
それに従ってベーダー一族の作戦も今までとは異なるものになっており、今までは「形が美しいもの」という「外面の醜悪」で展開していたのが、今回は「心が美しいもの」という「内面の醜悪」で展開している。
90年代に入ると、『鳥人戦隊ジェットマン』を皮切りにヒーロー側の心の醜悪にドラマの焦点がシフトしていくわけだが、それをこの段階でテストケースとして描いていたのは興味深い。

とはいえ、ドラマの内容としては今日見るとさして珍しいものではない「継母にいじめられている幼き少女」であるが、「そもそもなぜそのドラマが必要なのか?」に関しては疑問が残る。
まあ強いて言えば、それを契機としてベーダー側が人間の心の悪につけ込んで分身を作り出して犯罪行為をするというところに重きを置いたのだろうが、現代ならばもう少し洗練されたドラマに拡張できるだろう。
ドラマ面に関してはやはり円谷時代と比べて挑戦的なドラマが当時は展開できなかったという時代の限界を感じるところではあるが、致し方ないで済ませることはできないので、ここはダメ出しをさせていただく。
ただし、それを中心としたアクションの見せ方や撮り方などに関しては今見直しても面白い側面があって、今では使われなくなっている表現もあるので、今回はそこについて取り上げておこう。

評価はB(良作)100点満点中75点、ある意味で今までで一番面白かったかもしれず、前回よりも広田演出の面白みが少しわかったような気がする。
前回はどうにも竹本監督の演出をそのままなぞった感じだったから、あまり広田監督ならではの個性というか色があまり見えず面白くなかったが、今回はリズムといいテンポ感といい良かった。
やはり映像作品というのは「画面で語る」のが基本であるから、画面でどれだけ「こんな絵見たことない!」というのを見せることができるか?が基本であることを再確認させてくれる。
もちろん脚本が良ければ良いに越したことはないのだが、最近思うのは脚本(物語)とはあくまで映像作品においては「設計図」「導線」でしかないのではないかと最近強く思う。

心の醜悪を利用したサスペンスドラマ

まるで火サスを彷彿させる中学生少女の苦悩

映像のテイストからもわかるが、今回は全体的に「火曜サスペンス劇場」を彷彿させるような密閉した空間の駆け引きというのが特別に強く描かれている、まだこの当時「火サス」はないのだが。
継母と自殺願望の強い女子中学生とのやり取りもそうなのだが、「デンジマン」は全体的に画面もお話もトーンの暗い物が多く、これをスーパー戦隊の基礎と安易に言えないのはこの「晴れない明るさ」にある。
スーパー戦隊ファン、特に『百獣戦隊ガオレンジャー』以降の「見世物」と化したシリーズ作品から入った辺りのファンは誤解をしがちだが、スーパー戦隊は決して明るいだけのシリーズではない
確かにラストはスカッとする大団円があるからそういうイメージが強く、また「ウルトラマン」や「仮面ライダー」との対比・差別化の中でどうしても「明るさ」だけが強調されてしまっているようだ。

しかしそれって何だかかつての小津映画について回っていた「もののあはれ」「俳句」「道徳的」「古き良き日本の家庭を描いたホームドラマ」などといった「紋切型」の誤った評価に近い気がする。
要するに自分自身の「目で見て感じ取った評価」ではなく、既にネットや雑誌などの切り抜きで述べられている又聞きの偏向報道に基づく評価の在り方であり、特に70・80年代のシリーズ作品に関しては未だにその風潮が蔓延っている。
そういう紋切型の、本質をきちんと自分で見極めることもせずに誤った先入観・偏見に基づく評価などあってはならないし、逆に言えば作品を見た上でなおそういう評価をしている人はこういう部分を「都合の悪いもの」として切り捨てているということだろう。
人間というのは都合のいい生き物であり、自分に都合のいいところだけを見てそうでない部分は切り捨てがちだが、むしろその都合の悪い部分もしっかり見た上で評価していくこともまた批評を行っていく上では大事なことではなかろうか。

この時代において既に「自殺願望を抱えた若者を救うヒーロー」という「市民に寄り添うヒーロー」を描いていたわけであるし、それが今同時配信中の『激走戦隊カーレンジャー』に代表される「一般人ヒーロー」にも繋がっていると私は思う。
ヒーローの戦いとは決してやってくる強大な敵を倒すだけが仕事ではなく、日常生活を送ることすら難しく心に病を抱えた人たちを励ます役割もまたあるのではないかということを上原正三を始め作り手は理解した上で作品を作っている。
以前どこかしらで見かけたが、スーパー戦隊シリーズ最大の特徴を聞かれた時に「とにかく派手で明るく突き抜けていること」などと宣っているのを見かけるのだが、少なくとも私はその論調には全く賛同できない
スーパー戦隊シリーズは決して表面的な様式美や明るさだけではなく、その対比としてあるべき「暗さ」「湿度」の部分もしっかり見つめて評価してこそであり、今回は正にその「暗さ」を正しく露呈させているだろう。

一番面白かったのは遊園地のアトラクションと電車を追い越すデンジレッドの画面

電車を追い越すデンジレッド

今回はお話こそ月並みであったのだが、一方でアクションの方では割と面白いものが撮れていて、特に遊園地のアトラクションと電車を追い越すデンジレッドの画面は大変貴重な画だといえるだろう。
まず遊園地のアトラクションに関しては昭和特撮だからこそできた撮影であるというだけではなく、落下してくる青梅大五郎をレッドとピンクが受け止め、更に操作室のところまでしっかり映している。
ジェットコースターを用いたスタント・アクションというのは今ではコンプライアンスや安全面を考慮して撮影許可がなかなか降りないのだが、この辺りの一連の流れは今見ても十分に面白い。
そして何と言っても電車を追い越して走るデンジレッドに関しては本当にそう見えるように映してあるので、今回初めて「100mを3秒で走ることができる」という設定に説得力が出た

それというのも、スーパー戦隊シリーズに限ったことではないが、よく超人的な能力を示すためにとんでもない馬鹿高い数値が示されることがあり、いわゆる「能力の数値化」というものである。
とは言え、いわゆる「数値化」にこだわってしまうと以前の記事で述べた「キン肉マン」のゆでたまごのように、強さがインフレしていくにしたがって矛盾を起こしてしまうという問題があるのだ。
だからこそ、例えば故・鳥山明は戦闘力の数値化をナメック星編の途中まででやめたわけであるが、大事なのは「数字」ではなく「画面」としてそれを示すことである
そういう意味で今回は電車という「速さ」の象徴として出てきた物体をデンジレッドが追い越すことによって、初めて視覚的に「100mを3秒で追い越す」という設定に説得力が生じる

ただし、正確な科学考証に基づくと大きな問題があり、この時運転手はデンジレッドの速度を「250km/h!?」などと言って驚いていたが、デンジレッドの正確なランニングスピードは四捨五入で約119m/hである。
100mを3秒で走るということは1秒につき約33mであり、それを3600で時速に換算すると118800m、すなわち118.8kmになるわけであり、幾ら何でも数字を盛り過ぎではなかろうか
こういうのを典型的な「子供騙し」というのであって、本作においてはせっかく黄山という理系科学者がいるにもかかわらず、その設定をまるで活かせてないかのようなデタラメな数字が出ている
まあ描写などから見るに、黄山の専門分野は生物学っぽいので物理専攻ではなかったのかもしれないが、どうしてこうも映画を作る連中というのは理数系を苦手とする人が多いのだろうか?

それはともかくとして、竹本弘一が早回しや多数のカット割りで誤魔化して見せていたのものを、改めて広田監督が物理的にわかりやすい比較対象として演出したのは良しとする。

若さと友情の象徴としての自転車

全員でサイクリング

個人的に一番この回で感心したのはラストの自転車のカットであり、すっかり継母と和解して友達とも仲良くなった少女がデンジマンの5人も含めて一緒に川の土手を自転車で漕いで行くところだ。
何がいいと言ってとにかく「自転車」というのがいいのである、この自転車が正に「若さ」「青春」の感覚をよく出していて、しかもデンジマンの5人も一緒というのがさらに良い
今のスーパー戦隊ではこういう自転車に乗って一緒にという画面すら見ることがなくなってしまったが、私も小・中学生の頃はとにかく自転車で友達と一緒にあちこち走り回ったものである。
映し方もまた素晴らしく、それまでずっと孤独に切り離されていた少女が最後の最後でみんなと一緒に溶け込んでいることがわかりやすい一枚の画面として示されるところにカタルシスがあるのだ。

スーパー戦隊シリーズにおいて、いわゆる「団結」というのは「全員が揃って名乗りをあげること」であったり「同じロボットに5人揃って戦うこと」として表現されることが多い。
しかし、今回のように「孤独な人々を輪に入れてあげること」もまた「団結」のあり方として象徴的であり、こういう描き方は演出としてもとても良いものだったのではないだろうか。
こういう「普通に良い」という感覚の演出を竹本光一はあまりやらないというかやりたがらない人なので、広田監督が結構今回に関しては良い演出をしてくれたと思う。
「デンジマン」の良さがどこにあるかと言われれば、こういう「普通」の画面が時折目立つことであり、この「普通っぽさ」がかえって魅力的に見える演出をしてくれている

私がなぜ今回のレビューにおいて、いわゆる名乗りやアクションといった部分をあまり取り上げないかというと、そこを褒めて批評する段階はもはや通り越しているからだ。
特撮ものなのだから変身後のアクションや名乗りがかっこいいのは当たり前、それらは作り手が意図的に「かっこいいもの」として演出しているのだから中心化させているものである
大事なのは「中心化されていない画面の細部」をどれだけ見つけてしっかりそこに価値判断ができるか?であり、こういうものを大事にしていくことも大事であると強調しておきたい。
話が通俗的であったとしても良い画面があればそれだけでも楽しめる、それは映像作品ならではの醍醐味であることを教えてくれる良い回だと思う。

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