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10年越しに見る『獣電戦隊キョウリュウジャー』(2013)の引っかかり・違和感は「戦隊ヒーロー」としての根幹のズレにあり

何を血迷ったのか、東映が『未来戦隊タイムレンジャー』(2000)に続いて今度は『獣電戦隊キョウリュウジャー』(2013)まで10周年とかこつけてYouTube配信をおっ始めやがった。
そもそも周年とかっていう触れ込みで配信する程の価値なんざありゃしねえだろと思うのだが、まあせっかくなので初期1クールだけでも見直してみようかと思い弟と一緒に見ている。
だけど、もうたったの4話までで正直挫折してしまいそうなくらいに酷すぎてまともに見れたものじゃないのだが、何故なのかをこうして10年ぶりに見直した今わかった気がするのだ。
『海賊戦隊ゴーカイジャー』(2011)の時からそうだったのだが、もはや2010年代に入ってからのスーパー戦隊シリーズは公式自体が二次創作の作風・テイストに変質し始めている

ある意味その象徴と言えるのが『非公認戦隊アキバレンジャー』(2012)だったわけだが、この「キョウリュウジャー」もそんな「戦隊同人」のテイストを醸し出し始めた。
まあそれこそ、『愛国戦隊大日本』『怨念戦隊ルサンチマン』『銃士戦隊フランスファイブ』のような自主制作フィルムがあるくらい、スーパー戦隊シリーズは二次創作がしやすいソフトではある。
元々『秘密戦隊ゴレンジャー』(1975)も石ノ森先生の漫画版は途中から「ごっこ」にシフトしたし、それに合わせるかのように実写版の方も後半はギャグ路線にシフトしていった。
また、『激走戦隊カーレンジャー』(1996)も浦沢ワールドを大々的に導入しているので「戦隊同人」と言えなくもないが、それでも根幹の部分できちんと「戦隊ヒーロー」の一線を守っている。

それを踏まえて「キョウリュウジャー」を見てみると、今の「キングオージャー」にもつながってくるあらゆる問題が浮き彫りになっていることがわかるわけだ。
細かい点を述べていくとややこしくなるであろうから簡潔に済ませるが、端的にいえば「戦隊ヒーロー」としての根幹のズレがいちばんの問題である。
私は基本的に好きではないが、三条陸先生の理想のヒーロー像に対するこだわりは感じられる、特にキングのキャラクターに対してはそれが露骨なまでに出ているようだ。
それに「史上最強のブレイブ」「俺たちは戦隊だ」など、いかにも子供受けしそうなパワーワードやキラーフレーズのようなものを生み出すのも上手である。

また、設定やドラマの整合性もそれなりには取れている、きちんと第一話からメンバーが戦士になるための試練を入れ、それを玩具販促と絡めるなどの頑張りは認められるであろう。
いわゆる三条陸イズム(玩具販促にきちんとドラマを織り込む)なるものが『仮面ライダーW』でも出ていたから、それが初期から織り込まれているのもわかる。
しかしながら、やはり何度見直してもやっぱり「これもう戦隊ヒーローじゃないやん……」という”コレジャナイ感”が視聴後の印象として容赦無くフィードバックされるのだ。
どこが具体的にそうなのかをこれから大まかに3点に分けて解説しよう。


設定をひたすら盛り込んでいる割にきちんと詰め切れていない

まずこれは第一話の段階からそうなのだが、本作はやたらと「こうですよ」という設定を只管足し算方式で盛りに盛って「強そう」と思わせる工夫は感じられる。
でもその雪達磨みたいに積もった設定から要らないものをきちんと引き算して、最終的にシンプルかつ大胆に見せるという「圧縮」ができていない
これは別にスーパー戦隊シリーズに限った話ではないのだが、真の名作・傑作となるような作品は常にシンプルで無駄がなくまとまっているものである。
ましてやスーパー戦隊シリーズはただでさえ作劇の構造上、まず主役の5人のキャラクターと関係性をきちんと存在証明するところからやらないといけないのだ。

本作はまずそれに失敗していて、特にすぐに形骸化してしまった設定が「正体厳守」であり、最初はキング以外正体を隠してた戦おうとしていたが、この設定は無意味だった。
強いていえばブルーのノっさんはまだいいと思う、彼にも守るべき家庭があって、正体がバレたら迂闊に敵組織に狙われかねないという話が2話で早速あったのである。
しかし、それも後述するキングこと桐生ダイゴがズカズカと絡んで台無しにしていったし、その後のソウジ・イアンにしても全部そうやって虱潰しにされていった。
また、ノっさんが何かあれば馬鹿の一つ覚えみたいに繰り出すダジャレも話の流れを阻害してしまっており、単なるノイズ以外の何物でもない。

そして何より、第一話から見ていて疑問なのが、そもそもキングたちがキョウリュウジャーとして戦うのかという「戦いの動機」たる部分が描写として実感を伴って見えてこないのである。
それぞれに戦士になるための試練が描かれているのだが、個人的にそれがきちんと感じられたのは根がポジティブな「THE 陽キャ」のキングだけで、後ははっきりいってわからない。
キングは元々世界中をあちこち冒険していて新しいことが大好きなハッピー野郎だし、キョウリュウジャーになったのも根っからの戦闘狂という感じがするので、それはまだ認めよう。
しかし、残り4人は家庭持ちのおっさん・女好きなナンパ野郎・ストイックな剣道バカ・勇猛果敢なお嬢様とやたら凝った設定にしているが、そのバックボーンがキャラ描写に活かされない。

この中で唯一剣道バカのソウジは剣の技術が変身後の剣戟にも繋がるからまだいいとして、残りの3人は本当になぜ戦いと全く関係のないキャラ設定にしたのかわからないのである。
特にノっさんはダジャレや家庭持ちなどどこにも戦いと関連する要素がないのに、あの後ろ向きなヘタレっ気でなぜキョウリュウジャーとしての試練を受けようと思ったかも見えてこない。
アミィにしたってお嬢様という設定自体がまず今野鮎莉という役者のビジュアルからも感じ取れないし(この点鹿鳴館香を演じる岸田香のお嬢様感は異様な説得力があった)。
そう、キングとソウジ以外はどうも役者のビジュアルとキャラ設定がミスマッチであり、それを埋められるほどの演技力も演出力も画面からは全く感じ取れない。

ではそのキングはどうなのかといえば、個人的に一番引っかかっているのは正にその部分なのである。

なぜメンバー個人の問題にわざわざキングが絡む必要があるのか?

これは「キョウリュウジャー」に限った問題ではないのだが、なぜわざわざメンバー個人間の問題にキングが乗り込んでいかなければならないのか?という話である。
しかも竜星涼のあのイキったビジュアル・声・演技までもが相乗効果で合わさっているが故に、私の中のキングは「スクールカーストのトップで威張り散らすガキ大将」というイメージだ。
別にそういう人物が嫌いというわけでもないが、キングみたいにズカズカと他人のパーソナルスペースに踏み込んで正論を吐いて荒らしていくような奴は心底嫌いで仕方ない
同時期に近い作品でやっていたのは『仮面ライダーフォーゼ』の如月弦太朗だが、今風にいう「アッパー系コミュ障」の先駆けみたいに感じられるところがある。

ノっさんが守っている家庭問題、立風館親子の確執、イアンの過去のトラウマなどのデリケートな個人の問題に悉くキングが絡んでくるウザさは一体何なのか?
そう、「キョウリュウジャー」の物凄く雑なところとして、やたらと思い設定やドラマを入れたがる割にはそれを雑にキングの正論という名の暴力で解決させてしまうのである。
しかも何故だかキングは一発見ただけでメンバーの本質を悉く見抜いているような、まるで『ドラゴンボール』の孫悟空や『ONE PIECE』の初期ルフィみたいな奴として描かれているのだ。
それが悪いというわけではなく、ああいう「バカっぽいけど実は鋭く賢い」というキャラ造形は少年漫画の世界だから描けるのであって、実写のスーパー戦隊でそれをやられると単なる嫌味な奴である。

特に立風館親子の確執は現在同時配信中の「タイムレンジャー」に出てくる浅見親子の確執を彷彿とさせるが、いくら剣術を継承しても性格は決して違うのだから重なり合うことがないのは当たり前だ。
こういう問題はそれこそソウジが遠回りして試行錯誤しながらも自分なりに答えを見つけ出していくプロセスが大事なのであって、そこをキングが介入して最短ルートで解決したら意味がないだろう
イアンにしても同じである、「俺を撃て」とかいってキングとイアンの間に信頼関係のようなものができていたが、幾ら何でもあの話だけでその関係性に至るのは無理がある。
そもそもキングとイアンってキャラの属性でいえば「ジェットマン」の天堂竜と結城凱くらいに正反対であり、その2人は親友になるまでに最低でも31話程度を費やしているのだ。

でもこれに関しては三条陸先生をはじめとする作り手だけが悪いと言い切れない部分もある、何故ならば平成ライダーの「クウガ」の五代雄介や「アギト」の津上翔一が正にキングのモデルになるような主人公だったから。
五代や翔一の場合どんな深い悩みを抱えていても、彼らと対峙した人間は頑なな心が融解するといった描写が散見されたので、それを戦隊レッドとして誇張気味に描いているのではとも取れる。
もっとも、五代や翔一はその分ヒーローとしての代償も大きく、五代は戦えば戦うほど笑顔を失い怪物となり、翔一も記憶喪失であり物語の核心に関わる部分が欠落しているというのがあった。
しかし、そのような代償らしいマイナスがなく純粋な「強さ」のみで肥大化した理想が詰め込まれたのが本作のキングであり、やってはならない悪手を作り手はやっているのである。

そのせいで、結果として私が思う「戦隊ヒーロー」の魅力である「個人の力」が1つに合わさって巨大な1つの力になるというカタルシスと根幹の部分でズレが生じてしまう。
当時は「キング様とその他」なんて揶揄されていたが、初期の頃から事あるごとにキングが絡めば万事解決みたいな作劇にしていれば、そうなってしまうよねとは。

大事なのは情報「量」ではなく情報「質」

あとこれは画面作りも含めてなのだが、結局のところ上記の作劇も含めてだが、名作・傑作とそうでない作品との分水嶺は情報「量」ではなく情報「質」ではなかろうか。
OPやアバンタイトルからそうだが、本作は特に玩具販促という特撮の部分があまりにもガチャガチャしすぎていて「うるせえ!」と叫ばずにいられない、悪い意味で見れば見るほど疲れてしまうのである。
獣電池や変身前のサンバ、変身後のアーム装着なども含めて作り手がとにかくギミックで子供達を魅了したいのはわかるし、実際売上は上々だから成功した方だとは思う。
だが、その「ギミックを見せること」自体が目的化してしまっていて、肝心要の素面のアクションや変身後のバトルの面白さの醍醐味が削がれてしまっているように感じられるのだ。

特に変身前のアクションを注目してみると、竜星涼は変身後も入っているんじゃないかと錯覚するぐらいすごい素面アクションを見せているのだが、その印象が玩具ギミックにかき消されてしまっている。
更に、変身後のアクションが基本的に剣戟・銃撃・アームによるパンチ以外の印象に残るアクションがなく、全体的にとにかくギミック頼りになってしまい、スーツアクターの身体能力を活かしたアクションが少ない
この点において、例えば『五星戦隊ダイレンジャー』なんかは出てくる武器の数こそ多いが、それが決して画面の情報質を削いでいなかったのは純粋にアクションの質がそれぞれに描き分けられていたからである
それこそ『星獣戦隊ギンガマン』だって決して星獣剣とアースだけではなく、モチーフとなる星獣の特徴を活かした腰を屈めての特異的なアニマルアクションをきちんと印象的に盛り込んでいた

動物モチーフの戦隊は歴代でも多数あるが、それが変身後にきちんとアクションの特徴として1つの記号にまで昇華され完成した「ギンガマン」の特徴的なアニマルアクションを後続のエピゴーネンは超えられていない。
同じようにやはり恐竜モチーフの戦隊も「ジュウレンジャー」「アバレンジャー」と続いているが、純粋に変身前と変身後のアクションの質の高さや格好良さで「ジュウレンジャー」を超えてるものは1つもないのだ。
結局「アバレンジャー」も本作も子供達に玩具を売るためのギミック頼りになっていて、そうすると結局そういう「玩具販促のためのアトラクション」のみが画面全体を支配していくことになるだろう。
もうすぐ終わりを迎えようとしている『炎神戦隊ゴーオンジャー』もその傾向が強く、第一話から全体的にとにかく玩具ギミックの押し売りで、変身前も変身後もキャラの個性など無いに等しい。

結局今はどうなっているのかというと、アメリカの『パワーレンジャー』と同じ現象が起きていて、決して長くは無い20分の尺を半分以上ギミックの情報量で埋め尽くし、その為に設定と物語が構築される。
要するに「作品のための玩具販促」ではなく「玩具販促のための作品」に堕してしまい、結果として詰め込む情報量は昔より増えたかもしれないが、その分1つ1つの情報質は希薄化したといって差し支えない。
それが画面全体を支配してしまっているが為に、まずはスーパー戦隊シリーズの基礎である5人のキャラクターを変身前・変身後共にしっかり立てるという基礎基本を軽視する流れになってしまったのではないか。
その流れをある種決定的かつ支配的なものにしてしまったのがこの「キョウリュウジャー」なのであって、それが同じ大森Pの『王様戦隊キングオージャー』でより酷くなってしまっているのは納得である。

まあそもそも今の製作体制で90年代的な「個」にフォーカスを当てて、1年をかけてじっくり丹念に作品を紡ぎ上げていくなんて余裕も、それができる才能ある脚本家・演出家も居ないのが実情なのだろう。
愛情がないといってしまえばそれまでだが、10年越しに見て改めて2010年代の戦隊が如何なるものかを白日の下に晒したのが本作である、これはもう紛れもない事実である。

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