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ヒーローと衆生済度の関係〜『電磁戦隊メガレンジャー』の終盤の展開が突き詰めきれなかったもの〜

さて、スーパー戦隊シリーズにおいて『電磁戦隊メガレンジャー』という作品はどうしても位置づけとしては前後二作の「カーレンジャー」「ギンガマン」に比べて地味なように思われる。
それというのも「高校生戦士」という設定やストーリーを活かした作品作りをしていながらも、終盤の展開で露呈したヒーローと衆生済度の関係について明確な回答を示せなかったからだ。
実は「メガレンジャー」は終盤のドラマ性の凄味というか到達点としては歴代戦隊でも類を見ないところへ行き着いており、このテーマを掘り下げた作品は他のどこにも存在しない。
そしてそれが先日述べた戦隊シリーズの分布図との関連性も少なからずある気がするわけだが、「メガレンジャー」の分布に関しては90年代編の記事をご覧いただきたい。

しかしどれだけ成長したとしても所詮はそこら辺にいそうな高校生でしかない彼らがDr.ヒネラーの問う「お前たちは幸せか!?」に答えられないのはアマCOの限界を露呈させていたようでもある。

「メガレンジャー」という作品は同じ高校生戦隊の「ターボレンジャー」との比較を抜きにしても、歴代で最も弱くこれほど苦しい思いをしながら戦った戦士たちもいないと私は思うのだ。
正体がバレてプライベートを根こそぎ失ったメガレンジャーの5人はそれでも人類の平和を、自分たちの高校生活を守るために最後の戦いに出るがこの終盤の展開が何を意味していたのか?
それは「どんなヒーローだって自分たちと深い関わりのない人々を救うことはできない」、つまり仏教で言う「縁なき衆生は度し難し」を地で行くものとなっているわけだ。
「メガレンジャー」という作品は「自己犠牲」の暗黒面を最も露呈させた作品であり、90年代後半の高校生にそんな重苦しい選択を強いることのおかしさを描いている。

そしてその結果彼らは自分たちが最も守るべき大切なものに苦しめられるわけであり、安易にヒーローの力を手にしてしまったことへの代償でもあるというわけだ。
メガイエローが「それであなたは幸せなの!?」と問うた時にDr.ヒネラーが逆に「お前たちは幸せか!?」と反論され、健太たちは何も答えられなくなってしまう。
前作「カーレンジャー」ではボーゾックと和解・協力して真のカーレンジャーとなり宇宙の平和という大きいものを守るハッピーエンドで終わったのに、「メガレンジャー」ではそれがない
当然メガスーツの最大の性能を健太たちの精神的昇華によって真のメガレンジャーになるということも全くなく、彼らは最後まで「生身の高校生」のまま描かれたのだ。

だからメガレンジャーとヒネラーの最終決戦は形だけを見ればメガレンジャーの勝利だが、本質的には衆生済度には限界があることを露呈させたという意味でヒーローの事実上の敗北である。
健太たちにとって世界の平和を守ることは通過点でしかなく、もっと身近な世間一般の人たちの心までをも救って初めてヒーローだと言えるのではないだろうか。
要するに何が言いたいかというと、健太たちは決して選ばれたプロフェッショナルではなく能力不足をなんとか覆したものの、同時に大人の苦さを経験したのである。
それは当然のことであり、「メガレンジャー」でヒネラーと対等の存在は指導者たる久保田博士であり、ヒネラーを論破するのは本来指導者たる彼の役目のはずだった。

ところが、その久保田博士は大した資質も能力もない5人の高校生を「若さの可能性に賭ける」という直感的な理由でメガレンジャーに抜擢したことへの罪悪感に苛まれている。
この辺り「1人で完成しているが心が歪んでいる鮫島博士」「不器用で未熟だが心は真っ直ぐで温かい久保田博士」という対比になっているのも「メガ」の妙味だ。
90年代のスーパー戦隊シリーズでは「ジェットマン」を皮切りにして「指導者でさえも判断を誤ってしまうことがある」というのが実は織り込まれており、「メガ」もその延長線上にある。
そして「ターボレンジャー」では肯定されていた「若さの可能性」が本作ではそのマイナス面の「経験・能力不足故の未熟さ」として対比になっているのも意図的だろう。

そんな作品だったからこそ最後の最後で「ヒーローたちが命を懸けて守っている民衆や世界がそんなに素晴らしいものなのか?」が重たいテーゼとしてのしかかる。
そしてこれは同時に『鳥人戦隊ジェットマン』の2話で凱が竜に言った「しかしよ、人間なんざいっそのこと滅んだ方がいいんじゃねえのか?」という台詞の具現化でもあった。
つまり70〜80年代は暗黙の了解とされていた「人々を守る」「世界の平和を守る」ことがヒーローの条件であるという前提がとうとう「メガレンジャー」の終盤で崩れたわけだ。
実はこのテーマを先立って昭和の作品群が描いており、典型的なのは漫画版「デビルマン」「マーズ」や富野監督の「ザンボット3」「イデオン」辺りだろうか。

確かに自分たちの周囲にいるべき人たちを守ってこそヒーローであるというのは間違いないが、それはあくまでも仏教の提唱する衆生済度の価値観に過ぎない。
しかしその前提を取っ払ってしまうと、ヒーローとは本来民衆と関わらずにいる方がいい存在であり、また一般民衆がヒーローをやることのデメリットも「メガレンジャー」は示してみせた。
ここからもう少し本質に迫るドラマを描けていれば「メガレンジャー」はそれこそ歴代最高傑作になっていたかもしれないが、それは絵に描いた餅で終わってしまう。
この苦い経験があったからこそ、「ギンガマン」の「星を守る」、「ゴーゴーファイブ」の「人の命は地球の未来」、「タイムレンジャー」の「明日を変える」と目標が定義されるようになったのだ。

正に「過渡期の佳作」という印象が強い作品なのだが、この辺りを絡めて考えていくとまた違った作品に見えてきて批評や創作の幅が広かるかもしれない。

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