見出し画像

ギャルマインド?何じゃそりゃ?

久々に頭の悪い記事を見たが、インタビューの受け答えを見ていると、この人の"ギャルマインド"なるものが勘違い甚だしくておもわず笑ってしまいそうになる。
特にこの部分なんて腹抱えて大笑いした。

──“ギャルのカリスマ”として、ずっとギャル界のど真ん中にいる益若さんから見て、平成ギャルと令和ギャルにはどんな違いがありますか?

「令和のギャルは、とってもお利口というイメージがあります。今の時代、SNSの存在を無視できないから、どうしても『いいね!』の数が気になるし、フォロワーの数が人気を表す点数みたいになってしまう。だから、世論にきちんと耳を傾けて、人に嫌悪感を与えないような賢さが令和のギャルにはあると思います。平成ギャルは、ホントに好き勝手やっていたから、世界中で誰も褒めてくれないようなことでも自分がいいと思えばやるというような突っ走る感じがあって。そういったエネルギーから生まれたトレンドがたくさんあったから、今、ちょっと惜しいと思う部分も。令和ギャルにももっと開放的になってほしいな」

この発言、とても私と同い年の人とは思えない発言に頭を抱えてしまうのだが、これはインタビュー用のポジショントークのつもりだろうが、素人目に見ても「本当にそうか?」と敢えてツッコミ待ちなのだろう。
それこそ論破王ひろゆきだったら「平成のギャルが好き勝手やってて令和のギャルがとてもお利口って、それ何かデータとかあるんですか?」と即座に突っ込まれてしまいそうだ。
第一、彼女の「平成のギャル」なるものがどのあたりのことを指して言っているのかは不明だが、個人的な見立てではおそらく90年代に台頭した「アムラー」を中心とする渋谷系ギャルであろう。
私自身も小学生だったので原体験の皮膚感覚として記憶しているのだが、90年代後半の渋谷のギャルは何物をも寄せ付けない神憑りの勢いがあって、私からするととても怖かった。

ルーズソックスにガングロ、「チョベリバ」「超MM」といった、今でいう「ネットスラング」に近いような造語をはじめとする独自の若者文化を形成して一世風靡していた時代である。
幸いだったのは私自身が九州の片田舎で過ごしていたためにそういった「平成のギャル」とは無縁に過ごせたことだが、それでは何の影響もなかったかというとそうではない。
中高生時代の同級生でもいわゆる「ギャルファッション」の子は普通にいたし、容姿・言葉遣いまで本当に渋谷のチーマーかぶれのギャルメイクをして登校する人も何人か見かけた。
もちろん私が通っていたのは県内でもそこそこの自称進だったから、服装や髪型などの校則が厳しいというイメージがあったが、確かに90年代の「超個人主義」としての若者文化は今でも凄いと思う。

90年代後半は「キムタク」こと木村拓哉と「アムラー」こと安室奈美恵のカリスマ性が半端なく、時の運が全てではあるにせよ社会に対して影響力を個人が持って超越していた時代であった。
今その残滓をYouTuberなどのネットインフルエンサーが小粒化した形で継承している節があるが、ネットも何もないテレビが影響力を持ち得ていた最後の時代における個人の影響力は今の比ではない
90年代はSMAP・ダウンタウン・ナインティナインなど様々な若手のエンターテイナーが台頭していったが、共通していたのは既存の価値観や集団主義に対する反発・反骨精神が漲っていたことである。
バブルが崩壊してアイドル氷河期に差し掛かった時、既存の価値観やただ歌やダンスができるだけの華やかなアイドルというだけではダメで、尖った個性を持つ人が「どけやてめえら!」という感じで台頭していた。

SMAPも私たちの世代はあれをスタンダードとしてその背中を見て憧れ育ったが、日本のアイドルや芸能界の歴史を俯瞰して振り返ると、その存在自体が異端であり、批判の声も多かったことであろう。
安室奈美恵にしたって同じであり、女性アイドルもキラキラした歌って踊れるだけの正統派じゃなく、どこかロックで尖った反抗期の精神を持ち合わせている人たちが多かったイメージがある。
それこそSPEED・MAXは楽曲もグループのカラーも尖っていたし、その残滓がまだあった全盛期のモーニング娘。(安倍なつみ・後藤真希がセンターをやっていた99年〜00年代初頭)も正統派のアイドルとは違っていた。
その辺りに台頭してブイブイ言わせていた様を益若つばさは「平成ギャルは、ホントに好き勝手やっていた」と言っているのだろうし、実際その通りだったのは私も認める。

しかし、だからといってそこから安直に「ギャルマインド」なるもの、彼女曰く「枠や型にとらわれず、誰に何と言われようと自分の気持ちに素直に生きるというマインド」になるのは話が飛躍していないか?
「自分の気持ちに素直に生きる」ことがなぜ「ギャルマインド」の定義なのかがわからないし、むしろ私に言わせれば「ギャル」と「枠や型にとらわれず、誰に何と言われようと自分の気持ちに素直に生きる」は正反対だと思う。
なぜかというと、ギャルとはヤンキーと根っこの部分で通じるところがあって、どちらも根っこは「不良」であり、そこの本質を見誤ってはならない。
近年はいわゆる『ONE PIECE』『パイレーツ・オブ・アメリカン』などの影響で世間で「悪」と言われるものをかっこいいと見なす風潮がどうも跳梁跋扈しているようだ。

これは創作上でもよくあることで、例えば『ドラゴンボール超』などでベジータが家族思いの常識人、悟空が世間一般の常識に欠けているアホみたいに描かれることが多くなっている。
そのせいでネットでベジータが持ち上げられ、その対比として悟空を貶めるという風潮が濃くなっているのだが、原作をリアタイで読んできた私からすれば「ちょっと待て」と小一時間説教したい。
以前にもブログで書いた気がするが、私自身は一切感動しなかったものの、魔人ブウ編での魔人ベジータのくだりにファンが感動したのはいわゆる「ゲインロス効果」というやつである。
元々ベジータはフリーザ軍として活動していたサイヤ人編〜ナメック星編の極悪人の印象が強いからそこからのギャップに萌えているというだけの話ではないか?

これの逆が孫悟飯であり、悟飯は普段がおとなしく真面目でいい子だからこそ、いざセルゲームでブチ切れたり魔人ブウ編のアルティメット悟飯のイキリ方が印象的である。
しかしベジータ以上に残虐で好戦的な性格になったのにそれがプラスに繋がらないのはそこできっちりトドメを刺せばいいのを「もっと苦しめなければ」と増長してしまうからだ。
ベジータが増長するのはある意味わかる、なぜならば元々悪人だった奴がどれだけイキったところで「まあそれがデフォルトだから」で許せてしまうところがある。
しかし、悟飯のように普段が優等生な奴がいざベジータと同じようなことをして失敗すると「なんだよ、ガッカリさせやがって」と期待値を大きく下げてしまう。

実際セルゲーム・ハイスクール編・魔人ブウ編のいずれを取っても悟飯はそのキャラ立ちを完璧に確立しきれず迷走し、最終的にキャラ人気をベジータに持って行かれてしまった。
それが「GT」以後も今日まで続いたからこその評価になっているのだが、要するに悪人が少しでもいいことをすればかっこよく映り、善人があくどいことをやるとかっこ悪く映るのである。
これに関しては既に「こち亀」の以下のコマで両津が不良の更生を美談にしたがる風潮に対して真っ向から反論しているので、ここで再掲しておく。

話を元に戻して、不良になる人は全員が全員というわけではないが、大体の場合家庭環境や幼少期に何かで挫折したことで落ちこぼれたことがきっかけでグレることが多い
そんな落ちこぼれた自分を誰かに見てもらいたい、構って欲しいからわざと派手で濃いメイクをして自らを飾り立てて承認欲求を満たそうとするのである。
ヤンキーが突っ張るのだって同じことであり、根っこの部分でどこか頭のネジが外れている狂人か、あるいは己の弱さを覆い隠すために不良の格好をして威嚇するのだ。
「弱い犬ほど吠える」というが、不良とはすなわち社会のレールからはみ出てしまった自分の過ちを正当化しようとする者たちのことに他ならない。

そのように考えると、益若の言い分とは正反対にギャルとはむしろ枠や型に囚われ、他人の目が気になり自分の気持ちに素直に生きられない弱き者たちではないか?
本当に自分の気持ちに素直に生きて枠や型に囚われない人は自分を派手に飾り立てる必要はない、正に「能ある鷹は爪を隠す」の言葉通り決して他者にひけらかさないものである。
彼女がどんな人生を歩んできてこのような発言が出たのかは調べればわかることだが、別に知ろうと思わないし、知ったところで彼女のこの発言のおかしさが正当化されるわけでもない。
別に私は自分が彼女に偉そうに口出しができるほど立派な生き方をしてきた人間ではないし、ギャルの存在そのものは肯定するわけではないが否定もしない、他者に迷惑をかけなければ別に問題はないのだから。

しかし、仮にももうすぐ初老に手が届こうかという年齢の女性ならば、もう少し大人の女性としての発言ができないものか?とは思う、もう決して若くはないのだから。
私もよく外を歩いて人と話すときに「お若いですね」と言われるが、二十代前半までならともかく三十代に入ってからそう言われてもちっとも嬉しくなくなった。
見た目が若いということは年齢不相応に幼く見える=大人としての威厳や貫禄がない、という風にも捉えることができるからである。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?