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アニメ『陰の実力者になりたくて』の何が魅力的なのか全く分からないが、同時に令和のヒーロー像の本質もある程度は見えて来た

現在、弟と共にアニメ『陰の実力者になりたくて』の1期を見ているのだが、はっきり言って何が魅力的なのかがさっぱり分からない
俗に言う「中二病」と思われる作風や「なろう系」と呼ばれるもの自体が嫌いというわけではないのだが、どうにも見せ方が全体的に「既存のダークファンタジー系バトルアニメのエピゴーネン」でしかないなと。
言うなれば『ファイナルファンタジー』と『コードギアス反逆のルルーシュ』と『中二病でも恋がしたい!』辺りをごちゃ混ぜにして薄めて表面上のパッケージングを上品に包装した「綺麗な同人誌」そのものであろう。
別にそれを悪いとはいわないし今時の若い人たちにはこういう「異世界転生」や「陰キャなコミュ障がモテモテハーレム」といったものが好きという需要があるのも、これまでの反動から理解できる。

個人的に全く肌に合わなかったのはとにかく「主人公の圧倒的な強さも含んだキャラクター性に全く魅力を感じない」からであり、まず主人公のシド・カゲノー/シャドウ/影野実に憧憬も共感もできない。
いわゆる「中二病じみたカッコつけ」に憧れてそれを目指そうというのはいかにも思春期の学生の精神性だから納得も行くし、それを目指して過酷な鍛錬を積んで来たことが強さの根拠になっているのも理解はできる。
少なくとも昨今ありがちな「とにかくドーピングやチートアイテムで強くなる」というようなものではなく、むしろそういう「安易な方法で強くなる」ことに対しては否定的なのはいいことだ。
また、陰の実力者として必要以上に出しゃばらせないように動きも適度に抑制されていることや恋愛に対して消極的というのも、そういう草食系男子がトレンドであることも抑えられているから納得はできる。

しかし!それらを加味してでも私は本作を見ていて覚えた違和感・気持ち悪さが山ほどある!

それを今回はぶちまけていくので批判が中心となるであろうから、ファンの方々はここでお引き取り願おう。


なぜか主人公の敵が格下ばかり

まずこれは本作に限らず、いわゆる「なろう系」と呼ばれる作品の一種の文法になっているのかもしれないが、なぜ主人公のシド・カゲノー/シャドウ/影野実が魅力的に感じられないかというと彼の戦う敵が根本的に格下ばかりだからだ。
これがまだ物語の導入くらいだったらある程度強さの格を保たなければならないから多少なりは無双するのもわかる、大体のバトルものはそうやって始まるのだから別におかしくはないだろう。
しかし、本作に関していえば物語が中盤に入ってもなおほとんど苦戦せずに「やられたふり」「無能のフリ」という名の「接待プレイ(俗にいう舐めプ)」を繰り返してばかりで面白みがない
確かに敵をも上回る圧倒的な強さで翻弄して完勝を収めるのは見ていて気持ちがいいし悪くはないが、本作に関しては基本的にそれしかパターンがなくて、他のキャラが苦戦した上で最後は主人公がトドメを刺す。

そう、シドは結局のところ「正統派ヒーロー」でも「ダークヒーロー」でもなく「デウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)」であり、彼が本気を出すと話が終わるからここぞという時以外には戦わない。
だから普段は他のキャラクターを動かすことになるわけだが、その彼以外のキャラクターが敵も含めてほぼ全員彼の格下しかいないので、どの話でも結局は「格下相手に粋がってるだけ」にしからないのである。
例えるならば『ドラゴンボール』の悟空が界王拳を用いてナッパやギニュー特戦隊の面子を倒すところや孫悟飯が超サイヤ人2でセル完全体をたった二発の超鉄拳で満身創痍にさせる展開が延々と繰り返されるのだ。
しかも「DB」のそれらの演出だってあくまでもその圧倒される敵がそれまでに味方側を散々苦しめて「もうどうにもならない」という絶望感を見せつけるという「溜め」を作るからこそ反撃のカタルシスが成り立つ。

しかし、本作はその敵キャラも含めた主人公以外の敵キャラが俗にいう「自分こそが最強だと粋がってるだけのチンピラ」というかいかにもな「やられ役」臭が漂う奴ばかりで面白みがない。
スーパー戦隊シリーズでいうならば毎度毎度戦闘員相手に無双するという作業ゲーだけが繰り返される感じなので、物語に山も谷もへったくれもない状態ばかりが続いてしまう。
そうなると、結局のところシドの「なんちゃって完璧超人」キャラが単なる嫌味にしかならず見ていて全く気持ちよくないし、その癖格上相手にはヘタレそうな小物な性格しているのもいけ好かない。
「なろう系はそういうものだ」といわれればそれまでだが、内面的な部分も含めてシド・カゲノーの普段の「似非ポンコツキャラ」にも裏の「実はすごい奴」にもカッコ良さがないのである。

私が思うバトルものの「強さ」とはそういうものじゃなくて、自分よりも格上の相手が出てきた時に苦戦を強いられながらもどうそれに立ち向かって打ち勝つのか?というギリギリの状況でこそ際立つものだ。
「ダイヤモンドの原石は同じダイヤモンドでしか磨けない」とはよくいうが、要するに真の強さは決して訓練で手に入るものではなく自分よりも格上の相手と戦い切磋琢磨することでしか手に入らない。
それこそダークヒーロー系でいうなら『テニスの王子様』の越前リョーマにしたって物語初期の段階で手塚国光に草試合でぼろ負けしたことで悔しさを感じ、そこからテニスへ本腰を入れて練習するようになる。
そして立海戦の真田・幸村に氷帝戦の跡部様、さらに同期だが四天宝寺の遠山金太郎など自分と同格或いは格上の相手と死闘を交えて腕を研鑽することで真の高みを目指して天衣無縫へと覚醒したのだ。

シドにはそういう「真のダークヒーロー(陰の実力者)になる」というプロセスが抜け落ちて、ただ形式的な「能ある鷹は爪を隠す」ムーブを余裕綽々と繰り広げているだけなので、全く高揚感がない
少なくともアニメ一期に関してはそういう「チートコードを使ったレベル99の作業ゲー」ばかりが続くために、シリアスやろうがギャグをやろうが単なる「力こそパワー」でしかないのである。
そんな決まり切ったテンプレートな展開ばかりを繰り返していて真に心震えるような名作が誕生するわけがないし、パロディとして見てもやり方が三流だ。

ダークヒーローに憧れるのはいいが、そこから先がない

そしてこれが最も謎だったのだが、なぜ主人公のシド・カゲノー/シャドウ/影野実がいわゆる「正統派ヒーロー」ではなく「ダークヒーロー」に憧れたのか、その強さを目指した先に何があるのかもわからない。
彼自身には「野望も目標もないが好きなものへのこだわりはある」というのだが、その「好きなものへのこだわり」の中身が「陰の実力者らしく動くこと、普段はモブのような動き方をすること」という極めて個人的な動機だ。
別にその動機が悪いというわけではないのだが、発端があくまでも「中二病を拗らせて暴走させた結果」でしかなく、そこから先の精神的昇華がないが故に彼の強さの表現も含めた人物としてのあり方が一面的にしか感じられない。
もっと言ってしまえば、他のキャラクターも含めて言えるのが「キャラクターに命が宿っていない」という状態で、表面で描写されている「こうですよ」という行動・言動以上の魅力が全く感じられず薄っぺらいのだ。

正に現実でいうなら「新世代」と呼ばれるZ世代・α世代の若者がそのままアニメキャラになったような状態で、語る言葉や戦闘シーンの戦い方に「美学」「哲学」といった「深み」がまるでない
ダークヒーローへの憧憬は別にいいとしても、ではそこから「ダークヒーローとは何か?」「自分はなぜ陰の実力者になりたいのか?」を自問自答したり、あるいは自己否定されて苦悩・葛藤したりする場面がないのだ。
だから形式的な話数だけが進む一方でそのダークヒーローとしての内面の魅力やそのキャラが行き着いた境地・終着点の素晴らしさといったバトル物の醍醐味もまるで感じられない
原作者がそもそもダークヒーローへのリスペクトが足りていないのか、あるいは狙ってそう設定しているのかは知らないが、なぜこんなキャラが持て囃されているのだろうか?

それこそダークヒーローものの傑作としては『コードギアス反逆のルルーシュ』が代表作として挙げられるが、あれにしてもルルーシュは父親をはじめとするブリタニア帝国が強いてきた圧政への反発からである。
「撃っていいのは撃たれる覚悟がある奴だけだ」と言い、自らはたとえ嫌われて世界中を敵に回すことになっても、敢えて憎まれ役を買うことで父親への復讐を果たし、世界を支配から解放することを望んで行動した。
ルルーシュにはそういう「戦うべき巨悪」がいたわけだし、終始澄ましたカッコつけの顔だけをしていたわけではなく、人間関係が関わる場面では彼だって苦悩することもあるし失敗することも多々ある。
少なくとも彼はシドなんかと違って余裕こいて舐めプかまして「ここは力を抜いて雑魚のふりをして」なんてことを考えている余裕などない、むしろ自らが強者たらんと動くからこそ己の生き様に全力なのだ

正にシドのそんな姿は私が以前からつとに指摘してきた「楽して先人の思考・成功法則を掠め取るコバンザメ」そのものであり、努力してる云々以前に人として、ヒーローとしてのあり方が全然かっこよくない
「既存のヒーロー物をばかにする」というパロディありきで作るにしたってそれを納得させるための技量は絶対に必要だし、それこそリスペクトがなければパロディはパロディたり得ないのである。
だが、思えばこれは本作に限らず「なろう系」と呼ばれるジャンル自体がそういう風潮なのであろうし、YouTubeでいう「スカッと系恋愛漫画」も結局はこの流れを汲んだものなのであろう。
要するに「能ある鷹は爪を隠すのがカッコよく、真正面から大きな夢を語ってガムシャラに突き進むのがダサい」とする風潮がダークヒーローを履き違えた鵜の真似をする烏を大量生産させるに至ったのだ。

そもそもバトルシーンそのものが面白くない

そしてこれが最も致命的だが、単純にバトルシーンそのものが面白くなく、剣戟にしても魔法にしてもあらゆるバトルのエッセンスが既存のダークファンタジーの表現から抜け出ないものばかりである。
流石に『ドラゴンボール』『エアマスター』レベルの骨太なものを作れとまでは言わないにしても、もう少し時代劇のチャンバラや海外の魔法バトルくらいは勉強して描けと言いたい。
その上、最初に書いたように終始シドが夢想する形で進むものだから、どれだけシリアスぶった戦闘シーンを演出しても「どうせシャドーが勝つんでしょ」としか感じられないのである。
たとえばアレクシアなんかは「才能がなくても努力で邁進する」といったところでもっと見せ場を作れると思うのだが、そんな彼女の魅力が初期設定以上に膨らまない。

バトルシーンがたとえ圧倒的でもいいから、もう少しカメラワークだったりスピード感であったりといったところで「こんな表現見たことない!」と思わせるものを表現できないものか?
シャドーにしたって毎回「俺が全力を出したらこんなものか」と手の内をフルに出し切っていないにもかかわらず、表現が単調であるために「幅」がまるで感じられない。
かといって、ゴジータやベジットのような「出た時点でもはや勝ち確」というような圧倒的な安心感とロマンもないから、どこにもまるで面白みが無いのである。
いわゆる「なろう系」と呼ばれる作品のアニメ化を見たのは本作がほぼ初めてだが、もしこんなレベルの低い表現で「クオリティーが高い」のだとしたら御里が知れる。

バトルというのはただ強さを見せつければいいわけではなく、相手を倒すまでの駆け引きや高度な読み合いがそこにあってそこにキャラの想いや美学が現れるから面白い
それがなくて、単なる「鍛えてきた強さを見せつけます」という「力自慢大会」でしかないなら、そんなのは小学生男子がやっているガキの喧嘩と大差はないだろう。
魔法陣にしても仕掛けにしても既存のファンタジー作品で見てきたものばかりで、どうやって能力を差別化してキャラの個性とするかに関する工夫も感じられない。
それが序盤だけならともかく終盤までそうだから、これを見るくらいならまだ実写版『ハリー・ポッター』のハリーとヴォルデモートの最後の対決を繰り返し見た方が何万倍もいい。

そんなに王道ど真ん中のバトルものを作るのが嫌か?

最後に、これは本作に限らず昨今のバトルものを作っている業界全体の方々に向けて問いたい。

お前らそんなに王道ど真ん中のバトルものを作るのが嫌か?

正義のためや世界平和のためなんて嘘くさくて嫌、でもだからといって主人公たちをいかにもなエゴイストには見せたくない」という及び腰な姿勢と昨今の若者のトレンドに媚びた作りにしたいというのが透けて見える。
確かに、コロナ禍も相まってどんどん既存の価値観も共同体も崩壊していき頼るべき規範がなくなりつつある中で「王道」なるものを表現するのは難しいであろうし、いまは試行錯誤の段階だからまだ見つかっていないのかもしれない。
しかし、現在人気の『葬送のフリーレン』にしろ『鬼滅の刃』にしろ、そして本作のようななろう系上がりにしろ昨今はどうも「なんちゃって王道」或いは「王道の皮被った邪道・覇道未満」しか受けていないのは由々しき問題である。
バトルものだからこそ出来る工夫、昭和・平成と継承されたものをどうやって令和の世において進化させることができるのかという根本的な部分への問いかけ、そしてそのために徹底した過去作品の視聴体験・分析が不足している。

いつまで日本のバトル物の王道を『ドラゴンボール』『ONE PIECE』に依存してくだらない小手先にばかり走っているのかと思うし、そんな自堕落な思考が作品を通してどんどん受け手にも伝わってくる。
こういう「王道を直球に表現するのが嫌だから最初からハードルを低くした強くてニューゲームばかりを繰り返す低空飛行」という、正に対数関数的なあり方が1つの令和ヒーローの在り方なのだろう。
王道を直球で表現するのはためらいがある、かといって新しいフォーマットを自分たちで作るのも嫌、そんな奴が陰の実力者などとは笑止千万。
そんな後ろ向きの受動的な姿勢からワクワクするような名作が生まれるわけがないということが本作を見て気づかされたことである。

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