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「醜悪」とはすなわち「邪悪」かつ「俗悪」な人物のことなのかもしれないと感じさせる『ドラゴンボール』の魔人ブウ編のライフル銃の男

前回、前々回と考えてきた平成以降に台頭し今や日常化した「醜悪」についての3度目の論考だが、そう言えば見ていて珍しく不快感を覚えたモブキャラが『ドラゴンボール』に存在したことを忘れていた。
魔人ブウ編に登場したライフル銃の男なのだが、「醜悪」をテーマに考えてみると、実は一番『ドラゴンボール』の中でそれに該当する人物としてこいつが頭の中に浮かんだ。

サタンに止められるライフル銃の男

ライフル銃を持った一般人が別段珍しいわけではない、元々『ドラゴンボール』は始まりからしてブルマが主人公の孫悟空に向けて銃をぶっ放すという最悪の出だしだ。
他にも金髪モードのランチさんは荒ぶると誰彼の見境なくマシンガンをぶっ放すし、それこそライフル銃の代表といえばサイヤ人編に出てきた戦闘力5のおっさんであろう。

悟空への正当防衛で発砲するブルマ
牽制・威嚇で拳銃を乱射するランチ
ラディッツへの正当防衛でライフル銃を使う戦闘力5のおっさん

これらいずれも一般人(ブルマやランチを一般人と言っていいかは甚だ疑問だが)が銃をぶっ放しているが、なぜこれらのギャグ描写が成立してるかというと、一種の「正当防衛」だからである。
ブルマにとってパオズ山で出会った孫悟空は尻尾を持ったどこの馬の骨ともわからないSavage(野蛮人)に映ったのだろうし、戦闘力5のおっさんもラディッツから自分の身を守るためだった。
ランチにしてもこの1コマではあくまで威嚇・牽制としてのみ用いており、決して悪意があってやっているわけではないし誰も殺していないのだから結果としてはOKということになっている。
いくらドラゴンボールで死人復活が可能とはいえど、故・鳥山明は意外とこの辺りの善悪の感覚はシビアであり、世間に言われるほどぶっ壊れているわけではない(確かに超越した視点から俯瞰してはいるが)。

しかし、魔人ブウ編に出てきたこのライフル銃の男はそれまでに出てきた銃を使うモブキャラとは明らかに一線を画しており、なんと悪意塗れかつゲーム感覚でノルマ達成のように無辜の者たちを虐殺している
あまり褒めるべき点も擁護すべき点もない魔人ブウ編において、少なからず私の感性を動揺させた印象的な細部だったことは間違いなく、今でも魔人ブウ編というと魔人ベジータや超サイヤ人3よりもこちらの方がインパクトが強い
鳥山先生におそらく他意はなかったのであろうが、結果論といえどこのライフル銃とその眷属の召使いはまさしく「醜悪」としか言いようがない唾棄すべき存在であったということができよう。
そのように考えると、実は『ドラゴンボール』も時代性で区切ると、いわゆる「昭和的な悪」が存在していたのがナメック星編(フリーザ編)までであり、「平成以降の悪」が台頭してきたのが人造人間編以降である。

実は同じ「悪」でもこのあたりはしっかり書き分けがなされており、例えばベジータやフリーザは典型的な「昭和の悪(巨悪ともいう)」であり、悪であることに自覚的だった上で星の侵略を繰り返していた邪悪そのものだった
しかし、彼らを読者の誰も嫌いにならなかったのは彼らは「邪悪」ではあっても「俗悪」ではなく、自らの野望のためなら一切の人間性・共感といった俗なる要素を切り捨てられるからである。
人造人間編でベジータが超サイヤ人になった時に「ただし、純粋な悪だがな」と言っていたのは、「邪」ではあっても「俗」ではなく歪んだ方向に純粋で真っ直ぐという人物だったからだ。
それがたまたま生き返ってブルマとの間にトランクスという子供を設けて10年間も暮らすうちに少しだけ俗っぽい部分も持つようになったものの、決して「醜悪」なことはしなかった

トラックの運転手を殺めたベジータ

人造人間編で18号と戦った時にエネルギー波でトラックの運転手を虐殺してしまったが、これはいわゆる「未必の故意」というやつだし、元々ベジータはナメック星編まで無辜の者を虐殺もしてきた人間だ
魔人ブウ編で魔人ベジータにされてしまった時だって心は邪悪に戻ったとしてもサイヤ人としての誇りまでも売り渡さず自意識で制御できたのは「俗」の部分が全くなかったからである。
これでわずかにベジータに「俗悪」な部分があったら、それこそスポポビッチらのように完全にそこをバビティにつけ込まれて洗脳され切ってしまっていたであろう。
確かにセルゲームの時といいベジータが戦犯になることはあったものの、ベジータの場合はそうなってもおかしくないだけのキャラクターとしての強度があったし、元々第三勢力であり悟空たちの味方ではないから違和感がない。

対してこのライフル銃の男は生まれ育ちが裕福にも関わらず、何か悪に目覚めるきっかけがあったわけでもないのに、ゲーム感覚で己の快楽を満たすためだけに無辜の者たちを虐殺し続けた
更に魔人ブウに全ての罪を都合よく擦りつけた挙句に魔人ブウを銃殺して英雄にのしあがろうとしていたのだから始末に負えない、これならまだドクターゲロの方が悪党としてわかりやすい。

未だかつて『ドラゴンボール』という作品の中でこういうタイプの「俗悪」かつ「邪悪」な、まさに「醜い」としか言いようがない人物がいただろうか?

まあその最期は自分が殺して英雄になろうとした対象である純粋悪ブウにあっけなく召使い共々殺されてしまい、ベジータの願いによって生き返ることすら不可能になってしまったわけだが。

『ドラゴンボール』は10年にわたって長期連載されたが、決して望んで行った連載ではないにせよ、延長したことで結果的にそれぞれの章が時代を映す鏡のようになっているのだ。
明らかにフリーザ編までと人造人間編以降とで「」の質は異なっていて、思えばなぜベジータが魔人ブウ編の最後で極悪人として扱われず生き返ったのかもここまで見ると納得できないこともない。
ベジータはいわゆる「邪悪」だったしブウ編でもその気は少し残っていたものの、最後の最後で家族愛といった人としての心を少しだけ持つようになったこと、そして俗悪なことをしなかったからだろう。

なるほど、『ドラゴンボール』が秀逸だったことの1つは、決して表立ったテーマとして語られはしないものの、鳥山先生がいろんな種類の「悪」をその時その時の時代性なども踏まえながら描いていた点にある。
詰まるところ、「醜悪」とはすなわち「邪悪」と「俗悪」を併せ持った下の下の存在であり、しかし表向きは「善人」として通っているために本質が巧みにブラックボックス化していることではないだろうか。
またそれに影響を受ける作家も多かったのか、それこそ冨樫義博しかり尾田栄一郎しかり岸本斉史しかり、『ドラゴンボール』以後のジャンプ漫画には様々な種類の「悪」が細分化した形で登場するようになった
未来トランクスが倒した人造人間17号・18号に対してすら不快感を持ったことのない私がこのライフル銃の男にだけは強烈な生理的嫌悪感を抱かざるを得なかったのだから。

誤解のないようにいうが、私は決して魔人ブウ編を高く評価しているわけではない、それは当時も今も変わらないし今後一生変わることのない『ドラゴンボール』の汚点ではあるだろう。
しかし、そんな汚点だらけの中にもこういう引っ掛けるような細部や考えさせるような、きらりと光るものがあることから捨てがたい部分もあることは事実だ。

段々と「醜悪」がどのようなものであるか、ようやく腑に落ちたような気がする。

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