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遠山金太郎という「無我の境地」「百錬自得の極み」「才気煥発の極み」を介さずに「天衣無縫の極み」に到達した無敵の野生児

前回は白石蔵ノ介について語ったので、今回はその白石蔵ノ介にとっての可愛い後輩にして四天宝寺の未来を担う若者・遠山金太郎について語ってみたい。
以前にも述べたと思うが遠山金太郎は「SLAM DUNK」の主人公・桜木花道の発展型であり、桜木の中にあった高い潜在能力と成長率、身体能力を継承している。
しかも体育以外は全教科成績1というバカっぷりまで受け継いでいるわけだが、許斐剛先生は元々越前リョーマではなく遠山金太郎を主人公にする予定だったという。
そのせいか、彼の初登場エピソードは「Genius」ではなく「Wild」というサブタイトルがつけられ、3回にわたって彼が静岡から東京まで走っていくところが描かれた。

天真爛漫でテニスがとにかく大好きという無邪気な野生児であり、テニスを心の底から楽しんでいることから越前リョーマと対を成す存在として現在は位置付けられている。
そんな彼の凄いところは「新テニスの王子様」にて「無我の境地」「百錬自得の極み」「才気煥発の極み」を介さずに「天衣無縫の極み」という高みに到達したことだ。
天衣無縫の極みは今の所それになれると判明している人物は少なく、中学生で見ても越前リョーマ・手塚国光・遠山金太郎の3人だけであるが、遠山の場合は飛び級のようにそこに到達した。
今回の記事は彼の人となりや辿った経緯に触れていきながら、なぜ無我の境地のステップを踏むことなく天衣無縫の極みに到達できたのかを考察していこう。

「無我の境地」とはそもそも何なのか?


遠山金太郎の人となりを語る前にまず「無我の境地」について考えなければならないが、一般的な意味ではなく「テニスの王子様」という作品の「無我の境地」とは何であろうか?
劇中で判明していることはまず「己の限界を超えたもののみが辿り着くことができる」「自身の潜在能力を一時的に引き出している」「他人のプレイをコピーできる」というものだ。
このうち1つ目に関しては越前リョーマと切原赤也が無我の境地に至ったプロセスが描かれているが、試合の中で自分をとことんまで追い詰める臨死体験のようなものを経て無我の境地は発動できる。
そして2つ目と3つ目こそが無我の境地の具体的な効果として顕著であり、自分の力を限界を超えて倍加させ、更に樺地や仁王、一氏がやっているモノマネテニスの能力まで付与されていた。

ただし一時的に限界を超えて力を引き出しているので、例えるなら「ドラゴンボール」の界王拳と同じ「力の前借り」であって、使った後にはとてつもない反動が我が身を襲うことになる。
つまりハイリスクハイリターンなのだが、意地悪な見方をしてしまうなら無我の境地とは本来の自分の力ではなく一時的に自分に強力なバフをかけているわけであり、要するにドーピングだ。
だからこそ劇中では無我の境地が便利技として肯定的に描かれた試しはほとんどなく、越前が使った真田戦・跡部戦・遠山戦・幸村戦では結局のところ副作用で疲労が襲ってきてしまう。
2人目の切原赤也にしたって不二との対戦で開眼したものの、その力をまともに操り切ることができずに反動で握力を奪われ不二に接戦の末負けている。

だからこそ、「無我の境地」はその後「百錬自得の極み」「才気煥発の極み」「天衣無縫の極み」という3種類の応用技に派生し、その力を部分的に特化させたものにしている。
まず「百錬自得の極み」は「HUNTER×HUNTER」で言う「硬(こう)」、即ち無我の爆発的なパワーを利き手に凝集させることで疲労を最小限に抑えどんな打球も倍返しにする技だ。
しかしパワーに特化するということはどうしても足元の守りが疎かになってしまうという副作用があり、だからこそそれをまともに使えるのはゾーンで守りを固めた手塚国光のみである。
越前リョーマはこの点守りが弱かったのだが、その百錬のオーラを両足に移動させたり右腕に移動させたりという応用を加えることでこの欠点を解消して戦っていた。

そして「才気煥発の極み」は「HUNTER×HUNTER」の方便の「燃」のようなものであり、頭の中で最短何球で決まるかをシミュレートして思いを高め、実際にその通りに実行する。
ガンダムシリーズにおけるニュータイプやゼロシステムをテニスの戦術に落とし込んだものであり、更に言うなら乾・観月・柳のデータテニスを理屈ではなく直感でやっているようなものだ。
しかし相手の打球や能力が自分の上を行くものだった場合はそれに対抗できなかったり、また真田の「陰」みたいにそれを封じる対抗策がある場合は無効化されてしまう。
千歳・手塚・越前の3名が使用していたが、いずれもがまともに戦って勝てた試しがなく、どうしても不遇で役立たずなイメージが強い。

遠山には「無我の境地」で戦う必要が全くない


要するに無我の境地とは「百錬自得の極み」「才気煥発の極み」は界王拳や超サイヤ人と同様に潜在能力を一時的に倍加させ、パワー・スピード・テクニック・スタミナを爆発的に上げる技のことだ。
しかしそのために肉体にとんでもない負担を強いることになるため、どちらにしても長い目で見た時に有用な戦術・戦略として使うことはできないということになる。
これに関してはおそらく「無我の境地」と概念的には類似していながらその暗黒系として進化したデビル赤也も同じようなものであり、決して安易な便利能力ではない。
そんな無理な負担を強いるくらいであったら、普段の実力を高めて自然体で引き出せる方がよっぽどいいわけであって、最悪の場合それで自滅する可能性もあり得る。

この点遠山金太郎はどうかというと、大石が指摘していたように無我の境地の越前とほぼ互角であり、越前が倍加させている能力と同じくらいの力を素で引き出して戦っていた。
越前のツイストサーブを上にローリングして追いついて返し、千歳が返すのに苦労した神隠しを一発で見破り、更に橘の暴れ球も難なく返すなど野生の勘や直感力も鋭い。
しかも河村隆を客席まで吹き飛ばした石田銀の百八式波動球よりも危険なスーパーウルトラグレートデリシャス大車輪山嵐という強烈なスマッシュまで放つことができる。
要するに知性やテクニックとは引き換えにパワー・スピード・スタミナに能力値の全てを極振りしており、それでいて一切の無理がなく自然体というところが遠山の特徴だ。

言うなればこれは「スラムダンク」の桜木が山王戦後半〜終盤に入ってなっていた極限の集中力で見せていた神業を恒常的に引き出すことができるということである。
「ドラゴンボール」でいうなら孫悟飯が魔人ブウ編でなっていたアルティメット化という状態であり、要するに金太郎のステータス自体は越前と戦う段階ですでにカンストしていた。
そういう状態だからわざわざ無我の境地で無理に身体能力を引き上げて戦う必要がなく、幸村や真田が無我の境地を使わないのも同じような理由であろう。
無我の境地に到達できない跡部様にしたって「その程度素でできんだよ」と難なく羆落としを打っていたし、それがなくても遠山の場合は自然に勝てるのだ。

つまり無我の境地がレベル50のステータスをレベル100に一時的に引き上げているのに対して、遠山の場合はレベル50の状態で既にレベル100のステータスを持っていることになる。
だから身体に負担を一切感じることなく楽しくテニスができるわけであり、そりゃ白石が「うちらの誰よりも強いで!」と言うのも当然だ。
しかし、逆にいえば遠山はいわゆる「強くてニューゲーム」であるために、よほど強い相手と戦わない限りそこから先の成長は見込めない。
だからこそ遠山は全国大会で越前と戦うまではほぼ負け知らずの無双状態であり、自分の師匠となったばあさん以外に自分を打ちのめす強敵の存在を知らなかったのだ。

遠山金太郎が旧作で天衣無縫の極みに到達できなかった理由


このように見て行くと、千歳が「天衣無縫の極みに一番近かつは遠山金太郎、越前リョーマじゃなかとよ」と言っていたのも無理はない、実際に遠山は天衣無縫になれる条件は既に持っていた。
天衣無縫の極みに到達するにはいくつかの条件があるが、最も大事なエッセンスは「テニスが好きだからテニスをする」という「テニスに対する心の幸福感」ではないだろうか。
勝つためとか強くなりたいとかチームの為とかではなく、とにかくテニスが楽しいからテニスをするという状態であり、金太郎はその身体能力の高さも含めて誰よりもテニスに対して純粋であった。
また「勝ったモン勝ちや!」という四天宝寺の理念に最も共感を抱いていることから勝ちへの執着も人一倍持っていて向上心が強く、だから精神的にもほとんど隙がない。

しかし「左右極限を知らねば中道に入れず」という禅の教えにあるように、「テニスが楽しい」というポジティブな感情と経験だけではそこに到達することができないのである。
ただ楽しいだけでなれるのであれば六角メンバーや氷帝のジロー、青学の不二が到達できてもおかしくないのだが、彼らが到達できないのはテニスの「楽しさ」しか知らないからだ。
六角の場合は「楽しむためのテニス」であり、「テニスが楽しい」ではなく「楽しむための手段としてテニスを選んでいる」わけであり、テニスそのものへの執着は薄い。
芥川ジローも普段はサボって寝ているし、青学の不二に関しては「テニスが楽しい」のではなく「スリルや駆け引きが楽しい」かつ「手塚への執着」でテニスをしている。

このように「楽しい」だけでは天衣無縫の極みには到達できないのだが、遠山の場合は何が足りなかったのかというと「テニスをする辛さ」「自分の無力さ」というネガティブな経験だ。
おそらく越前と出会う前まで金太郎は引き分けになることなく四天宝寺のメンバーも含めてほぼ全員を倒してしまい、不動峰の伊武ですらも一球で簡単に倒してしまっている。
だからテニスを嫌になる経験や絶望に打ちひしがれた経験が全くと言っていいほどなく、「もうテニスするのが嫌だ」というマイナスを遠山は知らずに全国準決勝まできた訳だ。
そんな遠山が自分の無力さを思い知らされたのが幸村との一球勝負であり、ここで遠山はイップスに陥って「あいつのテニス、怖いわ」と幸村のテニスで初めて苦い思いを経験した。

そして遠山の前にもう1人、手塚国光もまた「テニスへの絶望」を経験しているのだが、手塚国光は遠山とは真逆で「テニスを楽しむ」ことから真逆の状態の自己犠牲でテニスをしている。
つまり手塚が「テニスをする辛さ」「自分の無力さ」といった「絶望」を経験し、そして遠山が「テニスを楽しむ」「自分を強いと思う」という「希望」を経験してきていた。
天衣無縫の極みに到達するにはどちらか一方ではなくこの2つをどちらも経験した上でなお「テニスが楽しい」と心の底から思えるようになり、潜在意識を解放する必要がある
だからこそ片一方しか経験していない旧作の遠山と手塚は天衣無縫の極みに到達できず、両方を知って中道に入った越前リョーマのみが天衣無縫の極みに到達できたのだ。

遠山が天衣無縫の極みに至った理由は「楽しい」ではなく「面白い」から


さて、そんなテニスの「楽しさ」の象徴たる遠山金太郎は「新テニスの王子様」の鬼十次郎との再戦の中で天衣無縫の極みに到達したのだが、この到達の仕方はよくよく考えると変である。
何故ならば遠山は上記したように「無我の境地」という最初の扉を切り開いておらず、その先にある応用技の「百錬自得の極み」「才気煥発の極み」の扉も開かず一発で天衣無縫の極みを開眼させた
いくら素のステータスが高く無我の境地になる必要がないからといって、これはどうなのか戸惑ったのは私だけではないはずだ……例えるなら「ドラゴンボール」でいきなり超サイヤ人2に行くようなものだ。
まあそれに関してはいわゆるブロリーやケールのような「生まれた時から潜在能力が爆発的に高い」から「天衣無縫の極み」にいつでも到達することができたという前向きな解釈で納得しよう。

しかし問題はそもそも天衣無縫の極みの条件の1つであった「テニスが楽しいからテニスをする」に関しては遠山が元々心の中に持ち合わせていたものであったが、1つ大きく欠けているものがあった。
それが「勝ちへの執着」、もっと言えば具体的な「どんなテニスプレイヤーになりたいのか?」という指針や理念のようなものが遠山金太郎には欠けており、今ひとつ定まっていない
例えば「テニスそのもの」である越前リョーマは最終的に父親の越前南次郎を倒すことが目的であり、そこに行き着くまでのプロセスとして手塚をはじめとする世界中のテニスプレイヤーをライバルと見ている。
また手塚に関してもすでに全国大会決勝の段階からプロ入りのためにドイツに行くことを大石に打ち明けており、「新テニスの王子様」で実際に天衣無縫の極みを開眼させてドイツに行った。

しかし遠山には「この人に勝ちたい」とか「こういうテニスプレイヤーになりたい」というビジョンが少なくとも旧作の段階ではなく、越前との一球勝負にしても「楽しいから」の延長線上でしかない。
「こいつを倒したい」という思いは同じでも越前にとっては「数多くいるライバルの1人」であったのに対して遠山にとっては「越前を倒せば最強になれる」と思っているから越前に固執するのである。
そんな遠山の原点が描かれていたのだが、遠山の「やられたらやり返せ!」「日本一のテニスプレイヤーになる」は師匠であるおスギ婆さんから示された理念で、それが遠山の核となった。
最初はおスギ婆さんに勝つことが目標だった訳だが、時の流れとは無情なものでおスギ婆さんも寿命には勝てず遠山が超える前に他界してしまったわけであり、木製のラケットはその肩身だ。

だからこそ遠山に必要なのは「楽しさ」ではなく「勝ちたい」という思いから来る「面白い(interesting)」という感情であり、自分を叩きのめして来る強敵を前に心折れずに立ち向かうことだった。
最初に自分を倒した幸村に何度も諦めず再戦を挑んで超えた遠山は次に鬼十次郎という自分の上位互換と出会い、その中で単なる「楽しい」の次元を超えた「勝つため」のテニスをすることになる。
その中で遠山は自分に高いハードルを突きつけて来る鬼先輩を相手に「楽しい」ではなく「面白い」と表現し、鬼十次郎も越前リョーマも超えることで日本一のテニスプレイヤーたらんと望んだわけだ。
つまり越前・手塚とは真逆で「勝ちたい」が先にあった結果「楽しい」という開放感を得たのではなく、「楽しい」という開放感の先に「勝ちたい」と目標を具体化させることで遠山は天衣無縫に至った。

越前・手塚・遠山のいずれも形は違えどそれぞれに天衣無縫の極みにたどり着くための条件を全て満たして辿り着いており、これからどのように成長していくのかが楽しみである。

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