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日虎の気まぐれインド哲学 第20回 ヒンドゥー教

 ゴータマ・シッダールタにより生まれた仏教はインドでは衰退の一途を辿り、世界方面へその教えは伝承されていきました。そこで生まれたのがヒンドゥー教です。
 今回からは数回にわたってヒンドゥー教のお話をしていきたいと思います。

【ヒンドゥー教とは何か】


  ヒンドゥー教は、現代インドの大多数の人が信仰する宗教です。Britannicaの2009年統計によれば、人口14億1700万のインド人の82.64%がヒンドゥー教を信仰していることになります。この割合は、1990年の82.72%とほぼ同じで変化がないそうです。

 「ヒンドゥー教」の「ヒンドゥー」Hinduはペルシャ語で、サンスクリット語の「シンドゥ」Sindhuに由来する。Sindhuは「河」の意味で、特に「インダス河」をさします。そのため、Hinduは「インダス河周辺の人たち」「インド人」を意味します。
 ヒンドゥー教は、インドにおいて仏教やジャイナ教に少し遅れて明確な形をとり始めた民衆の宗教とされています。シヴァやヴィシュヌ、あるいはラーマやクリシュナをはじめとする多くの神々への信仰と、インドとその周辺の諸民族の伝統的な習俗と密接に関わる儀礼を特徴とする宗教です。「インドの民族宗教」ではありますが、ヒンドゥー教の影響は、広くスリランカやインドネシアのバリ島、ジャワ島に及んでいます。

【ヒンドゥー教の起源】

 ヒンドゥー教とヴェーダの宗教とでは、信仰形態や儀礼が明らかに異なります。しかし、ヒンドゥー教の最高神とされるヴィシュヌもシヴァも、ヴェーダと密接なつながりを持ちます。
 ヒンドゥー教とヴェーダの宗教は異なるとはいえ、境界線はあまり明確ではなく、いつヒンドゥー教が始まったかも定かではありません。しかし、ヒンドゥー教が広がっていくのは、仏教興隆後であるということは確かです。

 紀元前4世紀、マケドニアのアレクサンドロス大王(356-323BC)がインドに侵攻しました。その影響を受けて、紀元前4世紀末、チャンドラグプタ王がマウリヤ朝を興しました。ギリシア人のメガステネスは、チャンドラグプタの治世に、シリア王セレウコス・ニカトール(301-280BC在位)の大使としてインドに駐在し、インドでの見聞を書き残しました。
 彼の報告書は残念ながら現存しませんが、引用断片が現在も伝わっています。その中で彼は、「ディオニュソスの信仰」や「マトゥーラ地方でのヘラクレス信仰」について伝えています。ディオニュソスはシヴァ、ヘラクレスはクリシュナを指すと考えられます(諸説あり)。この頃には、すでに民衆の間にシヴァ信仰やクリシュナ信仰が広まっていたようです。

 その後、アショーカ王がマウリヤ朝第3代の王として、およそ紀元前268年から232年まで統治しました。王は、激しい戦争の後に、多くの流血をひき起こしたことを深く反省し、仏教に帰依しました。その際に多数の仏塔・石柱を建てさせ、碑文を刻ませたのです。
 現存するアショーカ王の碑文のうち、第7 Delhi-Topra碑文には、当時の主要な教団として、仏教(サンガ)、バラモン(ブラーフマナ)、アージーヴィカ派、ジャイナ教(ニルグランタ)の名が出てきます。
 この碑文の記事から推定すれば、当時は、仏教やバラモン教が支配的で、ヒンドゥー教のシヴァやヴィシュヌの信仰は、すでに広まっていたとしても、まだそれほど盛んではなかったか、あるいは、ヴェーダの宗教と明確な差異が認められず、「バラモン教」として一括されたのであろうと考えられます。

 この頃、作られた『シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド』には、ヒンドゥー教のシヴァ神信仰の要素が認められます。

 また、ヒンドゥー教の信仰を伝える主要な文献は、二大叙事詩『マハーバーラタ』と『ラーマーヤナ』、そしてプラーナ聖典で、これらの文献の現在の形が完成するのはずっと後の紀元後のことでありますが、その元になるものはこのマウリヤ朝の頃から形を整え始めました。
 二大叙事詩もプラーナ聖典も、数百年かけて付加や変更が加えられ、現在の形態が完成したと考えられています。

 原始仏典、とりわけ仏伝(ブッダの伝記)には、梵天(ブラフマー)、コブラの神ナーガ、大蛇の神マホーラガなどさまざまな民衆の信仰の対象であったと思われる神々が登場します。ブッダがその下で悟りを開いたとされる菩提樹も、神が宿る樹木として先住民族によって崇拝されていたものです。紀元前1世紀頃は、後に「夜叉」と音写されたヤクシャ(男神)、ヤクシー(女神)が信仰を集め、その像が多く作られました。これが、後のシヴァ像や菩薩像の先駆になったとされています。

続く

アショーカ王柱

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