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日虎の気まぐれインド哲学 第15回 原始仏典の教理②


【縁起(十二支縁起)】

 仏教の根本教義は、縁起説です。原始仏典の古い層には、一定の形式をもった縁起説は現れません。苦しみを生み出す因果の系列について、さまざまな項目を立てた説が現れます。しかし、漠然とした縁起説は徐々に整備されていき、形式化されました。そして、完成されたのが十二の項目からなる十二支縁起(十二因縁)の説で、古来仏教の根本教義として尊重されてきたものです。

 十二の項目とは、①根源的な無知(無明)、②生活行為(行)、③認識作用(識)、 ④心と物(名色)、⑤六つの感覚機能(六処)、⑥対象との接触(触)、⑦感受(受)、⑧本能的な欲望(渇愛)、⑨執着(取)、⑩生存(有)、⑪誕生(生)、 ⑫老いと死(老死)である。

十二番目の項目「老いと死」には「愁い(愁)、悲しみ(悲)、苦しみ(苦)、憂い(憂)、悩み(悩)」が加えられることがある。「老いと死」が苦しみの代表とされているのである。

 これによって、「老いと死」に象徴されるこの世の苦しみがいかにして生ずるかが明らかにされます。それと同時に、その根源を「根源的な無知」からはじめて順に滅すれば、苦しみが消滅できることを説き示しているのです。

 ところで、十二縁起を説く、初めの部分に「これあればかれあり。これ生ずればかれ生ず。これなければかれなし。これ滅すればかれ滅す。」という定型表現が加えられることがあります。

 これは、遅れて成立したものであることが定説となっているが、ここには明らかに縁起が一般化され、現象世界の法則性と見なされる傾向が認められます。現象するものは、全て諸々の原因・条件が集まって現れてくるという見方であります。現象するものが他のものへの依存関係において成立するという見方は無我説に影響を及ぼし、さらに後の空の思想の論理的な根拠となりました。

【四諦・八正道】

 伝統的な解釈によれば、縁起はブッダが菩提樹の下で悟りを得たとき、禅定の中で観察したものです。いわば、ブッダみずからが苦しみについて理解するためになされた考察です。これに対し、縁起説を他人のためにわかりやすく説き示したのが四諦・八正道であるとされます。

 四諦とは「四つの真理」のことで、しばしば神聖なものとして四聖諦、すなわち「四つの聖なる真理」といわれています。

 縁起説と同じく、これも初めから定型的に説かれていたわけではないですが、ごく早い時期に形式化されました。すでに『ダンマパダ』にはこう記されています。

 「四つの真理」とは、(一)現実が苦しみであること、(二)それには原因があること、(三)苦しみの止滅、(四)その止滅へいたる道のことです。定型的な表現によれば、次の四つになります。

1.苦についての聖なる真理(苦聖諦)

 2.苦の起因についての聖なる真理(苦集諦)

 3.苦の止滅についての聖なる真理(苦滅諦)

 4.苦の止滅にいたる道についての聖なる真理(苦滅道諦)

 これらはしばしば略して、「苦・集・滅・道」といわれております。

 「八正道」あるいは「八聖道」は、苦しみの止滅にいたる道を具体的に説いたもので、八つの正しい生活法・実践法です。八つとは正しい見解(正見)・正しい意志(正思)・正しいことば(正語)・正しい行い(正業)・正しい生活(正命)・正しい努力(正精進)・正しい意識(正念)・正しい精神統一(正定)です。

【無常・苦・無我】

 ブッダの教えを簡略にまとめたものとして、無常・苦・無我が説かれることもあります。これは「現象世界の三つの特徴」(tilakkhaNa)と呼ばれます。この我々の生きている世界をどのようなものとしてみるかという問いに対するブッダの解答です。

 『ダンマパダ』 277-279偈は、これを次のように説きます。

「すべての形成されたるものは無常なり」と 智慧によりて見るとき 人は苦しみを厭い離る これ清浄に至る道なり

 「すべての形成されたるものは苦しみなり」と 智慧によりて見るとき 人は苦しみを厭い離る これ清浄に至る道なり

 「すべての事物は我ならざるものなり」と 智慧によりて見るとき人は苦しみを厭い離る これ清浄に至る道なり

【四法印・三法印】

 漢訳仏典では、三特相を諸行無常・一切皆苦・諸法無我と訳します。これに涅槃寂静を加えて、四法印とします。また、諸行無常・諸法無我・涅槃寂静の三句を「三法印」と呼ぶ。「法印」とは法すなわち教えの要約の意味である。

 「諸行無常」は、『平家物語』の冒頭に現れることから、よく知られています。「諸行」とは現象するすべてのもののことです。現象するものは、すべて生成消滅し、永遠不変ではありえないことを説いているのです。

 「一切皆苦」とは、すべてのものが苦しみであるというのであるが、それは次の理由によります。

 「楽も、苦も、楽でも苦でもないものも、内面的なものであれ、外面的なものであれ、感受されるものは何でも、すべて消滅し、虚ろなものとなる。それ故、あらゆるものが苦しみ以外の何ものでもない

 すなわち、あらゆるものは楽・苦・不苦不楽の三種に分けられますが、楽も壊れるときには苦となり、不苦不楽もすべては無常であって生滅変化を免れないので苦となるので、苦ではないものは何もない。したがって、「一切皆苦」であるということになります。

【人間観と無我説】

 仏教は無我説を立てることで有名ですが、その思想内容は歴史的にかなりな変遷があります。それにともない「諸法無我」の解釈にも変化がみられます。

 無我説の始まりは、最古層の経典の執着するな、わがものという観念をすてよという教えにあります。初期の無我説は、「我は存在しない」ことを説くのではありません。倫理主体としての真の我の確立は、むしろ積極的に求められていました。

「常に思念をたもち、自己に関する誤った見解を捨てて、世界を空なるものとして観よ。そうすれば、死を超越したものとなるであろう。このように世界を考察するものは、死神には見えない。」

 無我説はこのように、我(自己)ではないものを我(自己)であると思いこだわることをやめよ、という教えから始まります。当初の「諸法無我」は、無執着の立場から、「すべての事物は我(自己)ではない」と説かれたものであります。したがって、無我(我がない)説というよりは非我(我ではない)説だったのです。

 ところで、現象するすべてのものは、なんらかの原因・条件に依存することによって成立しているという縁起の観点からすれば、それ自身独立で不変な存在はありえません。
 人間も、この縁起説の立場から理解されました。すなわち、人間あるいは生物とは、肉体(色)と感受(受)・表象(想)・意志(行)・認識(識)の四つの精神作用、あわせて五つのものの集り(五蘊あるいは五取蘊)において成り立っているものとされます。

 「たとえば部分が集まって、車という名称が生ずるように、(五つの)ものの集りがあれば、生物という世俗の名が生まれる。」

  ここには、現象の背後に実体的な存在を認めない唯名論的な見方が顕著に現れています。一方、ウパニシャッドの哲人たちは、宇宙原理ブラフマン(梵)と個体原理アートマン(我)という現象の雑多な相の背後に働く実体的な原理を立て、その同一性の知を追求しました。原始仏教は、ウパニシャッドの立場と鋭く対立します。

 原始仏典のうち成立が遅いとされる散文では、人間を構成する五つのものの集り(五蘊)ひとつひとつについて「これはわがものではない」「私ではない」「私のアートマン(我)ではない」と知るべきことが説かれます。
 この表現形式は、ウパニシャッドのアートマン思想と密接にかかわることが指摘されています。ここでは、すべてのものについて「アートマン(我)ではない」と否定することが「アートマン(我)は存在しない」という主張を含んでいると考えられます。

 ところでアートマンは、単なる自己ではなく、それによって現象界の個体が成立する永遠不変の本質あるいは原理と見なされました。このような思想に対する批判として、「諸法無我」は、「すべての事物は我(永遠不変の本質)をもたない」と解釈されるようになります。一般に無我説という場合、このような意味が含まれるのです。

横山大観(無我)

【実践法】

 実践の核となるのは、八正道でありますがその他に正しい心をもって生きるための多くの修道法が説かれる。それらは戒(かい)・定(じょう)・慧(え)の三学に分類される。

 「戒」とは修行の前提となる正しい生活態度を身につけることです。

 「定」とは仏教の修行の基本とされる禅定、すなわち精神統一です。

 「慧」とは悟りにみちびく智慧です。

 戒によって悪からはなれて善を行い、定によって雑念を払い、慧によって真理をみきわめることが目指されます。

 また、在家信者に対しては、施・戒・生天の教えが示され、修行の代わりに施しをし、戒を守れば、天界に生まれると説かれたのです。

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